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2019年6月8日土曜日

【第959回】『フロイト』(小此木啓吾、講談社、1989年)


 意識の背景には前意識がある。前意識は、そこに意識をフォーカスすれば思い出せるものであるが、その下にある無意識は自分自身で思い出すことはできないという。だからこそ、カウンセラーが求められ、カウンセラーによる支援によって自分自身の無意識に目を向けることができる。

 無意識を意識化しようとする、精神分析療法の目的は、多くの場合、患者がおこす「抵抗」によって阻まれる。つまり、なんらかの感情や欲求が抑圧されて、無意識化されるのは、それを意識することに、激しい不快、苦痛、不安、そして罪悪感が生じるためである。したがって、”無意識化されたもの”を、”意識化”するさいには、それらの不快、苦痛、不安、罪悪感が激しく再現される。これらの感情=抑圧のために、無意識を意識化しようとする治療は妨げられてしまうが、このような現象を、フロイトは「抵抗」とよんだ。(34~35頁)

 しかし、無意識に目を向けることには「抵抗」が邪魔をすると指摘されている。反対に言えば、私たちは意識したくないものを無意識化しているわけであり、それを思い起こすことを避けるために「抵抗」が生じる、ということであろう。

【第954回】『フロイト思想のキーワード』(小此木啓吾、講談社、2002年)
【第953回】『フロイトとユング』(小此木啓吾・河合隼雄、講談社、2013年)

2019年6月1日土曜日

【第958回】『ユング心理学と仏教』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)


 ユング心理学の大家である著者が、ユング心理学と仏教との関係性について述べている本作。ユングを学ぶ上でも面白いし、仏教を学ぶという意味でも大変興味深い一冊である。まず、仏教におけるいわゆるお経の持つ意味合いについての著者の考察に納得させられた。

 彼らは「読む」のではなく「唱える」のです。つまり、この経を唱え、似たような有難い名を繰り返しているうちに、意識変容が生じるのが期待されているのです。そのような意識によって華厳経に接してこそ、その内容が理解されるのではないでしょうか。(56頁)

 仏教に対して素人である私が経を学ぼうとすると、どこか冗長で、また繰り返しが多いように思えてしまいなかなか入ってこない。しかし、それは経を頭で読もうとしているからであり、音読することで中身が身体に入ってくると著者はしている。まだ試していないが、納得的な解説であり目から鱗が落ちる想いである。

 ユング心理学はきわめて深く広いものですが、それを受けとめる際に、西洋人が自我との関連において理解しようとするのに対して、日本人(あるいは東洋人)は、自他分離以前の存在との関連において理解しようとする、と私は感じています。(128頁)

 自我とは何か。西洋と東洋とでその捉え方は異なるものであり、だからこそカウンセラーが他者と接する際に、自我の捉え方の彼我での差異を考える必要があるのだろう。

【第957回】『ユング心理学入門』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)

2019年5月25日土曜日

【第957回】『ユング心理学入門』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)


 フロイトを少し学ぶ過程で、フロイトとユングの違いが気になり始めた。そこで著者の解説を読もうと思い読み進めたが、本当に興味深い。入門と銘打っているように、ユング心理学を幅広かつお手軽に学び始める上で最良の入門書の一冊であろう。それなりに理解しやすい内容ではあるが、折に触れて読み返したいと思う。

 ユングの強調するのは、意識の一面性を嫌い、あくまで全体性へ向かって志向する人間の心の働きであり、これを個性化の過程として明らかにしつつ、心理療法場面における適用性へと高めていったということができる。(34頁)

 フロイトを組織開発の文脈の中で読み進めてきて理解しきれなかったことが、彼が部分を分析してからそれを再構成していくというプロセスであった。つまり、物事の全体をありのままにみるということを謳っているようには思えなかったことである。

 この点、ユングは全体性を重視し、心の働きとして全体をそのまま眺めるようにしている。その上で人間の発達のキーを個性化に置き、それを基にした心理療法アプローチを主張したという点は、組織開発の文脈にとってもわかりやすい。

 ユングは、古代のひとが外部の現象のみでなく、それが彼の心の内部に与えた動きをも述べようとしたのではないかと考える。むしろ、外に起こることと内部に生じる心の動きとは分離できぬものとして、その主客分離以前のものを、生き生きと記述しようとした試みとして、神話の言葉をよみとろうとするのである。(82頁)

 全体をそのまま受け止めた上で、それを物語をアナロジーとして意味合いを読み取ろうとするのがユング派の心理療法のアプローチだ。神話や昔話に違和感を持ってきたが、このように捉えると非常に興味深い。個人の夢分析から、そこに共通する集団の無意識へと至るアプローチも、組織開発の文脈から深掘りできそうに思える。

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)

2019年5月11日土曜日

【第954回】『フロイト思想のキーワード』(小此木啓吾、講談社、2002年)


 著者が亡くなる直前まで勤務されていた大学・学部にいながら授業を取らなかったことを後悔していた。フロイトを学ぼうと思いいくつか読んでみたが、初学者にとって本書には参考になる部分が多かった。キーワードごとにまとめられていて、その一つひとつのまとまりは簡潔にして明瞭である。

 フロイトといえば精神分析をはじめた人物である。精神分析をする側に対する提言だけではなく、される側に対しても述べている。

 フロイトは、精神分析を受けるに値する患者は自権者でなければならないと主張した。親からも周囲のあらゆる人々からも自立し、治療者と二人だけの秘密を保つことができる自我の持ち主でなければならない。このような自我によってはじめて、自己の内面に目を向け、精神内界の真実に立ち向かうことができる、と。(55頁)

 精神分析を受ける側の自立性をフロイトは主張していたという。治療者が自立的であれば済むのではなく、治療者と患者との相互交渉が精神分析であるのだから、患者側にも自立性が求められるという指摘は鋭い。こうしたお互いの自立性がなければ、依存関係が生じてしまうからであろう。

 夢解釈の方法は、顕在夢を個々の要素に分析し、連想をとり、その連想を再構成することを通して、夢の潜在思考を解読するフロイト独自の手法である。しかしフロイト自身、そしてそれ以後の精神分析は、治療中に語られる夢は、患者が語る自由連想の一つの内容として位置づけ、個々の要素の連想を限りなく解読していくという手法を必ずしもとらないようになる。あくまで、夢も自由連想の内容の一つとして位置づける。
 これに対してユング派は、むしろ夢の全体的なイメージを重んじ、類型夢解釈の手法を発展させて、さらに拡充法などを用いて、童話や神話、文学作品を重ね合わせ、個々人の夢に表現される普遍的無意識のあらわれを読み取る方向に発展した。また、治療の中でも、夢分析を最も重要な治療の一つとして位置づけ、場合によっては、クライエントが語る夢の分析に終始する治療のやり方をとることもある。(149頁)

 フロイトとユングの両者における夢解釈の方法の差異である。見事に対照をなしている。フロイトが要素ごとに分析して再構成するのに対して、ユングはゲシュタルト的に全体像をそのまま読み取ろうとする。

 どちらが優れているという話ではないのだろう。それぞれの違いを意識しながら、フロイトおよびユングを学んでいきたいものである。

 フロイトは、みずから不幸、災厄を求めるかのように行動する人々に注目し、その心の層に、本人も気づいていない無意識的罪悪感に由来する自己処罰心理が潜む事実を明らかにし、この心性を道徳的マゾヒズムと呼んだ。(281~282頁)

 道徳的マゾヒズムというワードは恥ずかしながら本書を始めて知った。フロイトが約百年ほど前に提起したこの概念が、現代のSNS文化でよく見かける現象の背景にあるように思えることに驚きを禁じえない。

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)
【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)

2019年5月5日日曜日

【第953回】『フロイトとユング』(小此木啓吾・河合隼雄、講談社、2013年)


 日本を代表するフロイト心理学とユング心理学の碩学二人による贅沢な対談。ど素人としては、フロイトとユングとの関係を反映して論敵のような関係なのかと思っていたが、お互いのリスペクトが見られる噛み合った対談となっている。

 治療者への転移と、そこで回想されてくる患者のフロイト的な発達の中に出てくるものが、うまく一致するように治療が進んでいくことが、治療技術としては、一番重要な問題だと思います。そのあたりがフロイトとユングの治療のプロセスとか技法の違いの一つになるんでしょうね。(115頁)

 小此木によるフロイトとユングの違いに関する指摘。フロイトは人間の発達に着目し、それが発達心理学へとつながる。続けて小此木は次のように指摘する。

 フロイディアンの図式で現在、一番一般化しているのは、エリクソンの八つの年代論、人生の周期ですね。(149頁)

 E・H・エリクソンはフロイトの娘であるアンナ・フロイトの弟子であり、ライフサイクル理論へと受け継がれた。こうした学問の系譜というものも調べてみると面白いものである。

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)
【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)

2019年2月23日土曜日

【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)


 上巻で展開された「間違い」および「夢診断」に続いて、下巻では「神経症」が扱われる。相変わらず一読して理解しづらい文体ではある。しかしながら、一通り読み進めることでフロイトが何を言いたかったのかに触れることができるだろう。

 患者は思い出す代わりに、いわゆる「転移」によって、医者と治療に抵抗する上に役立つような態度と感情とを実生活から借りてきて、それをくり返す。患者が男性なら、彼はきまってこの材料を自分と父親との関係から借りてきて、父親の地位へ医者を置く。そして人格の独立と判断の独立とを達成しようという努力や、彼の第一の目的である父と同等になりたい、父を圧倒したいという功名心や、感謝の念という重荷を人生で二度も背負わなければならないとは不愉快だという感情から、患者は抵抗を作り上げる。(73頁)

 神経症の患者が医者に対して示す抵抗について書かれているこの箇所は、飛躍を恐れずにいえば、相談する側とされる側との一般的な関係に置き換えて読んでみると面白い。相談する側は、自身が主体的に相談している場合であっても、都合が悪い状況になると相談相手に投影を行うものではないか。

 相談をするという行為によって、相談する人は相談される人より一段低く自身を見るようになるとシャインは『問いかける技術』で書いていた。そのような状況に対する潜在的な違和感が、相手の言動に敏感になり、相容れないもしくは受け入れたくない状況に直面すると抵抗として現れるということなのではないか。

 しかし抵抗というものを否定的に捉える必要はないとフロイトは続けて述べる。

 この種の抵抗を一方的に非難してはならない。それは患者の過去の生活のいちばん重要な材料をたくさん含んでいる。そしてもし私たちがこの抵抗を正しい方向に向けるたくみな術を知っていれば、この抵抗こそ、分析のもっともすぐれた足場になることを、あとではっきり教えられるだろう。注目に値するのは、この材料は最初はつねに抵抗に役立っているし、また治療に敵対するような仮面をかぶってあらわれてくることである。(74頁)

 抵抗するということは、そこに相談者が大事にしているものが潜んでいるからということであろうか。相談者からの抵抗を受けると、カウンセラーでない普通の人間である私たちは戸惑ってしまう。

 しかし焦らずに、泰然とその抵抗を受け止めること。受け入れた上で対話を続けることが求められているのかもしれない。

【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)
【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)

2019年2月17日日曜日

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)


 『組織開発の探究』を読み、フッサールとともに読み直したいと思ったのがフロイト。ただし、難解な印象が強いので入門的に読めるものはないかと探してたどり着いたのが本書である。

 講義を文字にそのまま起こしているからか、しっくりと入ってこない部分もありとっつきにくい。とはいえ書かれている内容は決して難しくはないので筋は理解できる。原著はもっとわかりづらいのであろうから、翻訳者の方々の努力には頭がさがる思いだ。

 間違いは、意味と意向が認められる心的行為であることを知ったばかりでなく、また間違いは二つの相異なった意向の干渉からできたものだと知ったばかりではなく、なおその他に、この二つの意向の一つが他の意向の妨害者としてあらわれるためには、その意向はある抑制をうけたに違いないということを知った。(中略)間違いは妥協の産物である。間違いは二つの意向のうちのどちらかを半分成功させ、半分失敗さすことを意味している。おびやかされた意向は全部抑制されないしーーある場合をのぞいてーー全部発現されない。(85頁)

 誤った言動を取ってしまったり何かを失念してしまうことは日常的によく起こることである。その背景には私たちの潜在意識が関与しているのではないかという仮説を著者は提示している。

 同意できる部分もあれば、同意しづらい部分もある。つまらない言い方をすればケースバイケースということなのかもしれないが、何か間違ったことをしてしまった時に、意識を深掘りすると何かが見えることもあるのかもしれない。このように柔軟に捉えれば面白い仮説なのではないだろうか。

 間違いに関する探究から、著者は有名な夢診断へと向かう。

 精神生活にはまったく気づかない、非常に長い間まったく気づかない、いやおそらく一度も意識にのぼらなかった過程、あるいは傾向があると仮定する準備ができ上がった。だから無意識ということばは、一つの新しい意味をもつことになる。「そのとき」とか「一時的」とかいうつけたしは、無意識の本質から消えてしまう。無意識ということばは、単に「そのとき潜伏していた」という意味でなしに、永久に無意識的な、という意味をもってもよいことになる。(197頁)

 無意識的に何かをするという場合の無意識は刹那的な感じがする。表面に現れる無意識は一時的であるかもしれないが、その本質は半永久的に貯蔵された無意識の記憶にあるのではないかというのが著者の仮説的な提示であろう。

 エディプスコンプレクスや夢判断にはまだ違和感があるが、無意識が半永久的に私たちの顕在化された言動に影響を与えるということは、面白い仮説であるように思える。

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)

2018年8月19日日曜日

【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)


 言わずと知れた古典的名著。いちおうは心理学を学んだ身として、修士に入る前、修士の学生をしている間には読んだが、それ以降は読めずにいた。

 十年ぶりに読むと、以前とは違うところに引かれることはよくある。しかし、今回の場合は、以前と同じ箇所に印象を受けた。

 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(130頁)
 
 この一節に改めて出会えただけでも、再読した意味があったと強く思う。私たちは何らかの意味があるからある行動をとるという順番で捉える。しかし、極限の状態を生き抜いた著者によれば、その順番は逆であるという。つまり、そのタイミングで求められる行動を選んでいく中で、意味が紡ぎ出されていくということなのであろう。

 目標からの逆算で合理的な現在の行動を導くという発想は、近代以降の私たちの思考パターンである。もちろん、こうした考え方も有効であろうが、それは予定調和性の高い条件下における合理的選択とも言える。予定調和性が低い状況下においては、著者の述べるアプローチが有効であり、併せて捉えたいものである。

【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)
【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)

2018年8月18日土曜日

【第869回】『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2016年)


 前作『嫌われる勇気』の哲人と青年が、三年の歳月を経て再び対話に臨む。実際に、本作は前作の出版から三年経って出版されたものであり、その間に読者から受けた質問や相談を踏まえたものなのであろう。そのため、青年の問いや反発は共感できるものが多く、だからこそ本作の世界観に再び引き込まれるように読み進められる。

 基本的な主張は、良い意味で前作と変わっていないと感じた。アドラー心理学を学んだ青年が、教育現場で実践しようとしてうまくいかなかった経験を基に対話がなされ、実践して得られる違和感へのフォローアップというところであろうか。仕事や教育といったテーマは、個人的には刺さるテーマであり、考えさせられるものが多かった。

 まずは教育について。

 自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料ーーたとえば知識や経験ーーがあれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。(123~124頁)

 小さな意思決定を、自覚的に幼い頃から行うことは大事である。もちろん、本作で述べられるように、ともすると子どもは親や周囲の期待を敏感に察して、生存戦略の一環として周囲に承認されることを目的として行動してしまう存在だ。だからこそ、周囲の大人である両親や教育者が、自己決定を子どもたちにさせることは、子どもたちを尊重することでもあり教育という文脈においても重要なのだろう。

 教育者が子どもの自律性に任せることが良いのだとすれば、放任すれば良いのかという疑問が出るだろうが、著者たちはそうした発想を明確に否定する。

 子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。(124~125頁)

 決断を尊重し、いつでも援助できる適度な距離感で見守ること。教育者の度量と力量が問われる難しい支援の有り様であるが、これが真実なのであろう。個人的には、学術上の恩師を思い起こさせられる内容である。(彼はユング心理学をベースにしていたはずであるが。。。)

 次に、仕事について。

 原則として、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことはむずかしくなりますからね。
 そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。(193頁)

 分業は人間疎外を招く元凶であり、人間を取り替え可能な存在と見做す否定的なシステムとして捉えられることがある。しかし、著者は、産業革命によってもたらされた分業というしくみには、他者と信頼し合うという側面があることを強調する。

 その上で、相互に信頼し合い助け合うためには、誠実に仕事に取り組む姿勢が必要不可欠であると述べる。ここには、仕事を通じて他者に貢献し、他者とともに協働しながらより社会に対して貢献するという発想までもが含意されているのではないか。

 アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
 ……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。(151頁)

 仕事を通じて他者に貢献し、社会に貢献するということによって、ここに私がいていい理由としての所属感を得ることができる。こうして、自分自身の存在を積極的に認めることができて初めて、他者をも積極的に認めて相互に信頼しあえる関係性を築ける、とアドラー心理学は捉えているのではないだろうか。

 最後に、本筋とはそれるが、本書では、カルト的な存在としての宗教に対する話や、メサイヤコンプレックスの話など、安易な自己啓発的な考えを否定するウィットに富んでいる。解説は抜きにして、興味深かった二つの話を引用して終えたい。

 ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。(30頁)
 他者を救うことによって、自らは救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする、心的な倒錯です。(162頁)

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第554回】『働くということ』(黒井千次、講談社、1982年)

2018年8月13日月曜日

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)


 半歩遅れどころか十歩か百歩くらい遅れて、このベストセラーをようやく読んだ。アドラー心理学の要点がコンパクトにわかりやすくまとめられており、対話形式でのストーリーも面白く、ストレスなく読み進められる。流行した理由がよくわかる気がする。

 アドラー心理学の定義から始めてそれを深掘りしていくという展開ではなく、序盤では、アドラー心理学の多様な側面が様々な観点から記される。キーワードを拾ってみると、アドラー心理学とは「人間理解の真理」(23頁)であり、「過去の「原因」ではなく、いまの「目的」」(27頁)を考える「勇気の心理学」(53頁)と言えそうだ。

 こうしたまとめだけではわかりづらいので、怒りという私たちが陥りがちな感情をどう扱っているのかを見てみたい。

 怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
 怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。(106頁)

 上述したまとめにある通り、アドラー心理学では、怒りは何らかの原因があって自動的に発露される感情とは捉えない。そうではなく、怒りを発露するという手段を用いることで何らかの結果を得ようとするという考え方を取る。

 このように考えれば、怒りという手段以外の有効なコミュニケーションツールを用いれば、異なる結果や他の存在へのインパクトを与えることができる。何より、怒りを用いるかどうかは自身の選択にある、という考え方は、私たちにとって救いとなるのではないだろうか。

 対話を通じて、最終的には行動面と心理面のそれぞれで私たち読者が意識する目標を以下の四つに端的にまとめられている。

行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識

 ①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は自己受容に関する話ですね。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。(242~243頁)

 本書では、自己受容を語る際に自己肯定感を否定的に捉えているが、必ずしもそうした見方を取る必要はないのではないか。自己効力感と対比して、自己肯定感を「限界も含めて、どのような情況のどのような自分であっても認めることができる」というように捉えれる考え方がある。このような考え方に基づけば、自己肯定感は、本書で捉えられる自己受容と近しいもののように思えるが、いかがだろうか。

 ②で扱われている社会や仲間という意識については以下の箇所が参考になる。

 あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。(188頁)

 与えられるではなく与える、という言葉はやや使い古された言い回しではあるが、だからこそ真理の一面を捉えているとも言えるのだろう。本書では、与えることによって見返りを期待するような承認欲求が強く否定され、与えることだけにフォーカスすることが説かれている。

 見返りを期待して何かを与えると、それが得られない時に落胆を感じ、与えたこと自体を後悔するということは多くの人が経験しているのではないだろうか。このように考えれば、いま目の前の他者に何かを与えることに集中するという姿勢は潔いだけではなく、現実的な心の持ち様なのかもしれない。

【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)
【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)

2018年3月25日日曜日

【第821回】『ファスト&スロー(下)』(ダニエル・カーネマン、村井章子訳、早川書房、2012年)


 上巻に続き、私たちの<当たり前>が揺さぶられる、刺激的で示唆に富んだ内容である。判断や評価に日常的に接する機会の多い身として、身につまされる思いがすると共に襟を正される思いもする。著者が長年の研究で明らかにしてきたエッセンシャルな内容を、私たち一般の読者がわかるように噛み砕いて説明してくれる贅沢な書籍である。

 個人的に興味深かった点を中心に内容を見てみたい。まずは、プロフェッショナルの直感について。

 専門的スキルの限界を認識していないことが、エキスパートがしばしば自信過剰になる一因だと考えられる。(20頁)
 直感が十分に規則性の備わった環境に関するものであって、判断をする人自身にその規則性を学習する機会があったのなら、連想マシンがすばやく状況を認識して正確な予想と意思決定を用意してくれるだろう。この条件が満たされているなら、あなたはその人の直感を信用してよい。(21頁)

 著者が明確に述べているのは、プロフェッショナルによる正しい直感と、そうでない直感とを峻別せよ、ということである。プロフェッショナルの卓越したスキルを重視する研究者との共同研究の結果として、直感が正しく機能する条件を明らかにした上記の引用箇所は非常に示唆的である。

 判断の根拠となる状況を認識・予想できる条件下での直感的な判断であれば正しく機能する可能性がある一方で、そうでない場合には留意が求められる。プロフェッショナルと呼ばれる人々の意見を私たちは盲信するのではなく、どのような条件で提示された意見であるかを検討することが有効なのである。

 次に興味深いのは、参照点、感応度逓減性、損失回避性という私たちの意思決定時の三つの基準に基づいていること(76頁)を明確にしたプロスペクト理論である。この理論を用いた現実的な意思決定の基準を噛み砕いて書いてくれているのがありがたいものである。以下の図13(126頁)のまとめが非常にわかりやすい。


利得 損失
高い確率
確実性の効果
95%の確率で1万ドルもらえる
万一の落胆を恐れる
リスク回避
不利な調停案も受け入れる
95%の確率で1万ドル失う
なんとか損を防ぎたい
リスク追求
有利な調停案も却下する
低い確率
可能性の効果
5%の確率で1万ドルもらえる
大きな利得を夢見る
リスク追求
有利な調停案も却下する
5%の確率で1万ドル失う
大きな損を恐れる
リスク回避
不利な調停案も受け入れる

 パフォーマンス・マネジメントにおいて目標をいかに設定し合意を得るかということは肝であるとともに難しい点である。その際に、被評価者側と評価者側がお互いにどのように目標を検討するか、ということは上記のマトリクスに現れているように思える。

【第819回】『ファスト&スロー(上)』(ダニエル・カーネマン、村井章子訳、早川書房、2012年)
【第729回】『人材開発研究大全』<第3部 管理職育成の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第701回】『人事評価の総合科学【2回目】』(高橋潔、白桃書房、2010年)
【第425回】『人事評価の「曖昧」と「納得」』(江夏幾多郎、NHK出版、2014年)

2018年3月21日水曜日

【第819回】『ファスト&スロー(上)』(ダニエル・カーネマン、村井章子訳、早川書房、2012年)


 本書で対比的に述べられている私たちの二つの思考は、本書の原題「Thinking, Fast and Slow」に端的に現れている。つまり、瞬間的に意思決定を下す迅速な思考と、時間をかけて考えた上で意思決定を下すゆっくりとした思考とである。

 本書では、前者がシステム1として、後者がシステム2と呼称されている。いかに私たちの日々の思考がシステム1によって為されているか、またシステム2と思っている判断がシステム1に影響を受けているかが詳らかにされ様は見事だ。

 私たちは、情報を取捨選択し、多様な選択肢を見据え、よく考えた上で意思決定を下すことが多いと思いがちだ。しかし、このようなシステム2よりもシステム1の影響が大きいという本書の指摘は新鮮であり面白い。単に興味深いだけではなく、人事に携わる身として、身につまされる箇所が随所にある。

 あるタスクに習熟するにつれて、必要とするエネルギーは減っていく。脳に関する多くの研究から、何らかの行動に伴う脳の活動パターンは、スキルの向上とともに変化し、活性化される脳の領域が減っていくことがわかっている。(54頁)

 この点は、業務への習熟とそれに伴う成長の鈍化として読み解けるだろう。当初はシステム2が作動していた業務であっても、時間の経過とともに習熟すればシステム1が作動する業務へと変容する。特定の業務に習熟すると、仕事が迅速かつ正確に進み、達成感や心地よさを感じるものだ。しかし、それが自身の成長や、可能性の開発に繋がるわけではない。いかにして、業務の効率性の追求と新しいチャレンジの付与とのバランスを取るか、が職務のアサインメントおよび個人のディベロップメント上の課題である。

 バイアスを自分の力でコントロールする可能性に関して、私はおおむね悲観的なのだが、この利用可能性バイアスは例外である。というのも、バイアスを排除する機会が存在するからだ。たとえば報酬を分け合う場合などは、露骨にちがいが出るため、複数の人が「自分の貢献は適切に評価されていない」と感じると、チーム内で軋轢が起きやすい。そんなときには、各自の自己評価に従ったら貢献度の合計が一〇〇%以上になってしまうことを示すだけで、問題が解消することがよくある。あなたはもしかすると、自分に配分された報酬以上の貢献をしたのかもしれない。だがあなたがそう感じているときは、チームのメンバー全員も同じ思いをしている可能性が高い。(194~195頁)

 マネジメント研修でぜひ伝えたい考え方である。メンバーは不満を抱くことが多いし、それはメンバーとしての自身の経験からもそう思える。自分自身の貢献を個人の視点から高く捉えるということは、相対的に他者の貢献度合いを低く見積もっているということである。となると、モティベーション理論の公平理論に照らせば、自身の貢献に対して報酬が不当に低いという不満を抱くことになるのではないか。引用箇所で述べられている通り、メンバー全員に特定のプロジェクトの貢献度合いを評価してもらい、その結果を匿名で全員にシェアして納得してもらう、ということを行うのが効果的なのでは思うが、いかがだろうか。

 代表性は、システム1による日常モニタリングの結果と密接に関連づけられている。最も代表的に見える結果と人物描写が結びつくと、文句なしにつじつまの合ったストーリーができ上がる。つじつまの合うストーリーの大半は、必ずしも最も起こりやすいわけではないが、もっともらしくは見える。そしてよく注意していないと、一貫性、もっともらしさ、起こりやすさ(確率)の概念は簡単に混同してしまう。(234頁)

 いやはや、採用、昇進・昇格、異動、といった場面で留意しなければならないポイントである。人事的な意味合いで、特定の社員を評価しなければならない情況は時にある。限られた情報の中でいかに評価内容を形成するか。非常に重たいテーマであるが、謙虚に自分の意見を創り上げる必要があるのではないか、と思った。

【第821回】『ファスト&スロー(下)』(ダニエル・カーネマン、村井章子訳、早川書房、2012年)
【第701回】『人事評価の総合科学【2回目】』(高橋潔、白桃書房、2010年)
【第425回】『人事評価の「曖昧」と「納得」』(江夏幾多郎、NHK出版、2014年)
【第729回】『人材開発研究大全』<第3部 管理職育成の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第713回】『ワーク・ルールズ!(2回目)』(ラズロ・ボック、鬼澤忍・矢羽野薫訳、東洋経済新報社、2015年)

2017年9月2日土曜日

【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)

 フローという現象は、ビジネスの領域で使われることもあるが、一般的にはスポーツの領域で目にすることが多いのではないだろうか。ゾーンに入るという言葉もあるが、乱暴に言えば、そうしたものも含めて、本書で扱われるフローに該当するように思える。

 フローとは何か。簡単に定義ができないと著者は予め断った上で、八つの構成要素を上げている。

 第一に、通常その経験は、達成できる見通しのある課題と取り組んでいる時に生じる。第二に、自分のしていることに集中できていなければならない。第三、および第四として、その集中ができるのは一般に、行われている作業に明瞭な目標があり、直接的なフィードバックがあるからである。第五に、意識から日々の生活の気苦労や欲求不満を取り除く、深いけれども無理のない没入状態で行為している。第六に、楽しい経験は自分の行為を統制しているという感覚をともなう。第七に、自己についての意識は消失するが、これに反してフロー体験の後では自己感覚はより強く現れる。最後に、時間の経過の感覚が変わる。(62頁)

 こうした要素を考えれば、スポーツや趣味の領域においてフローを体験することを想起しやすいだろう。何かに集中し、他の雑音が全く聞こえてこず、結果が即座にフィードバックされること。フローは大げさなものということではなく、私たちの日常においても為されることである。

 スポーツやビジネスといった世界においてフローは肯定的に捉えられることがほとんどである。フローの状態は、私たちにとって望ましい結果をもたらすことが多いからである。

 しかし、フローそれ自体は必ずしもポジティヴな意味を持つものとは限らないと著者は言う。本書で示されているケースは、日本における暴走族の事例である。彼(女)らは、走りに集中し仲間との一体感を得ているが、近隣住民や他の車にとって少なくとも望ましい存在ではなく。また、多くの賭博行為もフローを伴いやすく、だからこそフローが及ぼす常習性に著者は指摘しているのであろう。

 留意すべき事項はありながら、私たちの生活の中でいかにフロー体験が生じることを促していけるのか。特に思考におけるフローという観点から、著者は以下のような示唆を提供している。

 過去を記録することは、生活の質を高めるのに大きく貢献できる。それは我々を現在の抑圧から解放し、昔を意識にのぼらせることができる。それはとくに喜ばしく意味のあるできごとを選んで記憶に残すことを可能にし、そのことによって未来に対処するのに役立つ過去を「創造」する。(166頁)

 著者が指摘しているのは、過去を記録することである。書くことによって、その対象となる過去の一時点に私たちの意識はフォーカスすることができる。そうして過去の一時点に意識を傾けて思考に没頭することが、過去を将来に役立たせる一つの準備となるのである。


 このように考えると、フローという経験がキャリアという現象と近いもののように感じられた。キャリアのワークショップでも、ほぼ必ず過去の振り返りから行うことが多い。過去に一回焦点を当てることによって、現在から将来の時点において何を大事にし、どのような行動に重きを置くかが見えてくるのである。


2015年10月12日月曜日

【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)

 内発的動機づけについて丁寧に述べられた本作。修士時代の研究テーマとも関連するものであり、今回で読むのは実に四回目を数えるが、未だに新しい気づきを得られる。単に失念していただけの部分もある一方で、取り組んでいる課題に応じて学べるポイントが異なるということも言えよう。

 内発的動機づけとは、活動それ自体に完全に没頭している心理的な状態であって、(金を稼ぐとか絵を完成させるというような)何かの目的に到達することとは無関係なのである。(28頁)

 内発的動機づけを著者はこのように端的に定義づけた上で、自律と有能感という二つの要素から成り立つと述べる。まず自律から見ていく。

 ある行動が自律的だ、その人が偽りのない自分を生きていると言えるのは、その行動を開始して調整してゆくプロセスがその人の自己に統合されているときだけである。(5頁)

 結果ではなくプロセスが対象となっていること、加えて、そのプロセスを自身のあり様に合わせて自身で調整していることの二点が、自律的であるということの条件である。

 制限の設定は責任感を育てるうえでも非常に重要である。問題はそのやり方なのである。自律性を支えるしかたで制限を設けることによって、つまり相手を操作する対象、統制する対象と見なすことなく、制限される側の立場に立ち相手が主体的な存在であることを認めることによって、偽りのない自分であることを損なわずに責任感を育てることができる。(58頁)

 自律性の条件が自己に内在していることを考えると、自律性を他者によってサポートすることはできないように一見すると思える。しかし、著者はそうした考えを退け、他律的に他者に関与するのではなく、相手の主体性を前提に置いた上で関与することが大事であるとしている点に注目するべきであろう。

 有能感は、自分自身の考えで活動できるとき、それが最適の挑戦となるときにもたらされる。(89頁)

 第二の要素である有能感については、行動の背景にある考えや意志に自分が関与していることと、その内容が挑戦しがいがあり実行可能なものであること、という二点が挙げられている。企業における目標設定を考えれば、分かりやすいだろう。こうした点にも、内発的動機づけの基礎的な考え方は、本来、反映されているのである。

 では、こうした個人に根ざした内発的動機づけの概念が、他者や社会とどのように関わっているのか。

 人間の発達とは、生命体がより大きな一貫性を獲得していきながら、たえず自分自身と周囲の世界に対する内的な感覚を精緻化し、洗練するプロセスなのである。このように、われわれ一人ひとりにとって、自分はいったい何者なのかという問題の中心には、統合された自己という感覚を発達させようとする衝動があるのであり、こうした自然な発達の道すじにとってーー身体的にも精神的にもーー必要な活動が、内発的に動機づけられるのである。(108頁)

 自律と有能感とは、自分自身を主体に置きながら、環境との連続的な相互作用が求められる。こうして、自分自身に閉じることなく、謙虚に他者から影響を受け、また社会に貢献するという活動へと繋がることができる。他者や周囲に開いたフィードバックループを紡ぎ出す点が、内発的に動機づけられた行動の特徴なのである。

 こうした内発的動機づけにネガティヴな影響を与えるものとして、二点を取り上げておこう。

 心理学の用語に、自我関与(ego involvement)ということばがある。これは、自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているようなプロセスのことを指す。(中略)
 研究によれば、自我関与は内発的動機づけを低減するだけでなく、だれもが予想するように、学習や創造性を損ない、柔軟な思考や問題解決を必要とするあらゆる課題での作業成績を低下させる傾向がある。自我関与している人は融通がきかず、効果的な情報処理が妨げられ、問題に対する思考が浅く表面的なものになる。
 要するに、自我関与とは希薄な自己感覚のうえに構築されるものであり、自律的であることを妨げるように作用する。したがって、より自律的で自己決定的であるためいは、自我関与から距離をおかなければならない。あるいは、少しずつ自我関与を減らしていく必要がある。(160~162頁)

 一つめは自我関与である。特定の結果、通常は肯定的な結果が得られることを前提にしてプロセスに関与する自我関与は、私たちがよく陥りやすいものであろう。ある試合に勝つことだけを前提にしてそのプロセスにおける練習に取り組むことは、その結果が肯定的であれば良いが、否定的な帰結の場合にはその競技自体に対する興味を減衰しかねない。もしくは、終わった後に疲労感に襲われてやる気が起こらなくなるということもあるだろう。

 異常に強い外発的意欲は、偽りの自己の一側面として理解することができる。そうした意欲がそんなにも猛威をふるうのは、その目標を達成できるかどうかによって随伴的自尊感情が生じるからである。(183頁)

 自尊感情には、真の自尊感情と随伴的自尊感情という二つのものがある。真の自尊感情には「統合された価値や規範が伴っている」(165頁)のに対して、随伴的自尊感情は、ある物事の結果に左右する。したがって、結果がうまくいかない場合には、自尊感情を得ることはできない。

 ではどのようにすれば内発的に動機づけることが可能なのか。そのヒントとして、感情の統制を著者は最後に挙げている。

 感情を生起させる刺激の解釈を変えて感情を調節することは、感情を自己に統合し、また自律的になるために必要な二つのステップのうちの一つであり、その過程で、統制的な力を克服するための手段を手に入れることができる。もう一つは、感情が動機づける行動を、うまく調整するための柔軟性を得ることである。(260頁)

改めて、キャリアについて考える。

2013年6月1日土曜日

【第162回】『隠れた脳』(S・ヴェダンタム、渡会圭子訳、インターシフト、2011年)


 biasという言葉は通常「偏見」と訳され、何に対して自分が認識の偏りを持っているかについて自覚的であると捉えることが多い。しかし、最近の行動経済学における「無意識のバイアス」という概念によれば、その人の行動と意図とはともすると相反する状況が頻繁に起こるという。本書では、この無意識のバイアスに焦点を当てていくつかの興味深い事例を説明している。

 本書が主張する基本的な考え方は、私たちは自分自身の判断で行動していると思いがちであるが、存外にも他者の行動に影響を受けている、ということである。無意識で行動していることにすら気づかない行動を、隠れた脳の起こす行動と本書では定義づけられている。したがって、他者の隠れた脳との間でのネットワークを介して私たちの隠れた脳が影響を受けて、無意識に行動しているということが多い、とも言えるだろう。

 このような事実から私たちが認識すべきことは、隠れた脳のネットワークによる無意識の行動が、メリットにもなりデメリットにもなるという両面性である。メリットとしては、組織風土やカルチャーといった不文律に無意識に従えることで、社会性のある行動を取ることができるという点であろう。その裏返しを考えれば自ずとデメリットは明らかになるだろう。すなわち、他者の非合理的な行動を隠れた脳が感受することで自分自身も非合理的な行動を取ってしまうことである。このデメリットについて、いくつかのポイントにまとめて描かれている。

 第一に、自分が属する以外の集団への差別意識である。意識的に差別的言動を繰り返す方々はさておき、多くの人々は差別意識を持っていないと考えている。しかし、それにも関わらず五輪やW杯といった国際的なスポーツ大会において「思わず暴言を吐く」のは隠れた脳の為せる業である。さらに、他の多くの<同胞>がそうした言動を取ることに対して私たちの隠れた脳が反応することで、そうした差別的言動は増幅するということも起こってしまう。いわゆる民族的感情がエスカレートする背景には、隠れた脳のネットワークが存在する。

 第二に、いわゆるジェンダー差別である。企業における昇進昇格などにおいて女性であるから昇進できなかったということを証明することは難しい。パフォーマンスが至らなかったために昇進できなかった、という反証をするためには、一つの要件を探し出しさえすれば良く、比較的容易だからである。しかし著者は、トランスジェンダー、すなわち性転換を行った方が、その前に受けていた言動と、後における性転換の事実を知らない他者からの振る舞いとのギャップから、差別が実際に存在していることを示唆する。たしかにこの発見事実の持つ意味は大きい。しかし、結局のところ他の性を経験しなければ性差別に気づけないという限界をも意味し、性差別を多数の人間がどう認識できるかは今後の検討課題とならざるを得ない。

 第三は災害時の対応における隠れた脳のはたらきである。他の人の行動を相互に真似し合うという隠れた脳のネットワークが、トラブル時に顕在化し易いということである。そうであるからこそ、複数の出入り口があるのに一つの出入り口にほとんどの人が殺到してしまうという非合理的な行動を私たちは取ってしまう。9・11の際に、WTCの88階にいた人々は他の人が階段を下りたから一人を除いて全員が助かり(その一人は他のフロアの人間を非常階段に誘導しようとして逃げ遅れてしまった)、89階にいた人々は誰も逃げないからその場に留まってしまい全員が死亡した、という著者の例示は重たい。3・11の「釜石の奇跡」で著名な片山教授の「大地震の際は真っ先に自分が逃げること。それを他者に示すことが他者を救うことに繋がる。」とう教えは、行動経済学にも説明できる真理である。

 第四は原理主義やカルトといった排他的なクラブがなぜ成立するのか、である。排他的なクラブは、多額のお布施を前提としたり身体的条件を絞り込んだりして、入り口を制限することが多いという。そうすることで、そこに所属することのエリート意識を涵養するためだ。そうしたエリートばかりがいる集団の中で、他の人が自爆テロをするから自分も自爆テロに参加することが「当たり前」という空気を醸成できる。この「当たり前」という空気感は、他の世界と隔絶されているという排他的クラブの特徴によって中長期によって維持される。排他的クラブの外側にいる人々からすれば異様な言動であっても、その内側にいる人々にとっては、疑う必要もない自明の言動なのである。

 自分は合理的であると誰もが思いたいものであろうが、その合理性が隠れた脳の為せる業かどうか。日常的にモニタリングすることはあまりに煩わしいが、ときに注視することは必要であろう。

2013年5月5日日曜日

【第155回】“Thinking, Fast and Slow”, Daniel Kahneman


The author says that there are two main functions in human brain. He calls them System 1 and System 2, and defines them as below.

System 1 operates automatically and quickly, with little or no effort and no sense of voluntary control.

System 2 allocates attention to the effortful mental activities that demand it, including complex computations. The operations of System 2 are often associated with the subjective experience of agency, choice, and concentration.

These two definitions are related to the title of this book. “Thinking fast” is from System 1. System 1 is impulsive and intuitive, that is to say, it is basically rooted into nature of human. 

Then “Thinking slow” is from System 2. System 2 controls System 1, and it is capable of reasoning. It is in charge of doubting and unbelieving. It takes System 2 much time to think deeply. So, when there are more problems than System 2 can solve, we have to depend on System 1 however complicated the situation is.

In chapter 26th, he explains one of his most famous theories, prospect theory. According to prospect theory, we tend to turn down very favorable opportunities because we suffer from extreme loss aversion. If you want to understand it precisely, check Figure 10 in chapter 26th.

2013年1月19日土曜日

【第133回】『ブレイン・ルール』(ジョン・メディナ、小野木明恵訳、NHK出版、2009年)


 脳は柔軟性を重んじる存在である。ポッツ教授の変動選択理論を引きながら、人類の祖先は、進化の過程において柔軟性のない人間を嫌うようになっていったと著者は言う。そうであるにも関わらず、進化のプロセスを無視するかのような学校や職場における丸暗記を強いる学習環境に対して著者は警鐘を鳴らす。そうした学習は、学校のテストで良い点を取るためには有用であろうが、現実の仕事や生活において役に立つという意味での学習としては適していない。

 では学習とはそもそも何か。著者は端的に、脳の配線が変わること、と定義している。このように考えると柔軟性がなぜ大事かという点と繋がる。すなわち、何かをインプットしてそのままアウトプットさせる丸暗記は、著者の定義する学習に該当せず、いわば作業とでも呼ばれよう。学習とはそれまでの自身の知識・経験と新たなインプットが相乗効果を生み出すためのスループットを経ることが重要であり、それが脳の配線が変わることなのであろう。

 学習の定義をこのように捉えるのであれば、それに合わせて学習のスタイルも考える必要があるだろう。著者は、一夜漬けではなく徐々に知識を積み込む学習を是とする。基礎的な脳科学の知見でも明らかなように、記憶には長期記憶と短期記憶とがある。一夜漬けは短期記憶にポジティヴな影響を与えるのではあるが、一定期間を空けて学び直すよりも非効率であることが本書でも指摘されている。したがって、あたかも予防接種を追加で定期的に接種させるように、同じことを一定期間を空けて常に学び直し続けることが重要である。

 さらには、そうした学習スタイルの方が学んでいてたのしいものではないだろうか。おそらく、学ぶことが嫌いという人の中には、丸暗記型の無機質な学習スタイルのみしか知らないというタイプではないだろうか。もしそうであるのであれば、日本の学校教育のあり方に問題があると言わざるを得ないだろう。むろん、学校や学校教育という外部の問題だけではなく、丸暗記型以外の学習スタイルを試みようとしない個人の意識や意思の問題も極めて大きいことは言うまでもない。

 こうした考え方に関する著述の他に、具体的な実行のためのアイディアも本書では紹介されている点が特徴的である。職業柄、講義計画に関する著者の極めて具体的な指摘は興味深かった。まず教育に携わる人間として愕然とする前提として、著者によれば人間の集中力は十分間しか続かないという。その上で、大学の五十分間の授業を例にとれば、五つの中心概念を十分間ずつ取り扱うべきであるそうだ。さらに著者は、中心概念を大きな概念、一般的な概念、要約といったモジュールで構成して、それぞれのモジュールは一分間で説明するべきという。企業での研修における感覚的な知見としても、人間の集中力の持続は驚くほど短いため、こうした考え方はぜひ参考にしたい。

 本書の冒頭には、○○すれば頭が良くなるという断定的な主張に対しては疑う目を持つことが重要であるという著者の指摘がある。こうした指摘は大事であろう。本書をはじめとした脳科学に関する「きちんとした」書籍を読めば分かる通り、脳の構造はそれほど単純なものではない。したがって行動と記憶とを一対一対応させるかのような関係性は存在しない。