半歩遅れどころか十歩か百歩くらい遅れて、このベストセラーをようやく読んだ。アドラー心理学の要点がコンパクトにわかりやすくまとめられており、対話形式でのストーリーも面白く、ストレスなく読み進められる。流行した理由がよくわかる気がする。
アドラー心理学の定義から始めてそれを深掘りしていくという展開ではなく、序盤では、アドラー心理学の多様な側面が様々な観点から記される。キーワードを拾ってみると、アドラー心理学とは「人間理解の真理」(23頁)であり、「過去の「原因」ではなく、いまの「目的」」(27頁)を考える「勇気の心理学」(53頁)と言えそうだ。
こうしたまとめだけではわかりづらいので、怒りという私たちが陥りがちな感情をどう扱っているのかを見てみたい。
怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。(106頁)
上述したまとめにある通り、アドラー心理学では、怒りは何らかの原因があって自動的に発露される感情とは捉えない。そうではなく、怒りを発露するという手段を用いることで何らかの結果を得ようとするという考え方を取る。
このように考えれば、怒りという手段以外の有効なコミュニケーションツールを用いれば、異なる結果や他の存在へのインパクトを与えることができる。何より、怒りを用いるかどうかは自身の選択にある、という考え方は、私たちにとって救いとなるのではないだろうか。
対話を通じて、最終的には行動面と心理面のそれぞれで私たち読者が意識する目標を以下の四つに端的にまとめられている。
行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は自己受容に関する話ですね。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。(242~243頁)
本書では、自己受容を語る際に自己肯定感を否定的に捉えているが、必ずしもそうした見方を取る必要はないのではないか。自己効力感と対比して、自己肯定感を「限界も含めて、どのような情況のどのような自分であっても認めることができる」というように捉えれる考え方がある。このような考え方に基づけば、自己肯定感は、本書で捉えられる自己受容と近しいもののように思えるが、いかがだろうか。
②で扱われている社会や仲間という意識については以下の箇所が参考になる。
あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。(188頁)
与えられるではなく与える、という言葉はやや使い古された言い回しではあるが、だからこそ真理の一面を捉えているとも言えるのだろう。本書では、与えることによって見返りを期待するような承認欲求が強く否定され、与えることだけにフォーカスすることが説かれている。
見返りを期待して何かを与えると、それが得られない時に落胆を感じ、与えたこと自体を後悔するということは多くの人が経験しているのではないだろうか。このように考えれば、いま目の前の他者に何かを与えることに集中するという姿勢は潔いだけではなく、現実的な心の持ち様なのかもしれない。
【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)
【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)
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