前巻ではほとんど現れなかった顔回が、ここぞという場面で現れ、難題を解決する。しばらく鬱々とした展開だったからか、余計に顔回のかっこよさが際立つ。さらには、ここまで今ひとつ冴えない感のあった孔子も危地で活躍を魅せる胸のすくような展開である。
顔回とは一見するに何もしない男である。悪いことはしないし、とりたてて善いこともしない。陋巷に住んで独り沈思している。だが無為にして無事であり、知っていて何も言わないことが如何に有為なことか、分かる者には分かるのである。(16頁)
孔子の弟子の一人であり本巻で難に遭う公冶長による顔回評である。論語での印象からするとなんとなくわかる気がする。しかし、最後の文による形容の素晴らしさがすごい。
『朋友と交わりて信ならざるか』
つまりは信が足りなかったのだと反省するしかなかった。顔回も五六も、故旧であることに安んじて、お互いが本当に言わねばならぬことを忘れていたのである。(61頁)
自身の守役である五六が、敵の術にかかりかけていたにも関わらず関与することが遅れたことを悔やむ顔回。結果的に難は逃れられたとはいえ、故旧との関係を反省し失敗から学ぶ姿勢には恐れ入る。
顔回は脳中に引き起こされた混乱は混乱として素直に受け止めて、それと別に自分の意思を肚に据えている。様々な感情が渦巻いて点滅するが、肚に己を留めておけば感情の乱舞をある程度客観的に見ることが出来た。すると錯乱に陥ることはなく、それは媚蠱が侵入する隙を作ることはなかった。(91頁)
媚術を仕掛ける子蓉と再び合間見える顔回の態様。相手を圧倒するとか、相手に打ち克つという発想ではなく、受けるものはそのまま受け止めて、その上で自身の内面を客観的に捉える。飛躍を恐れずにいえば、現代におけるストレスマネジメントのヒントになりそうな気がする。
【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)
0 件のコメント:
コメントを投稿