2019年4月28日日曜日

【第951回】『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、清水一浩訳、講談社、2018年)


 哲学界のニュースターと言われる著者。わかりやすく書こうとしていることはわかるが、決して理解しやすくはない。しかし読み続けることで考えさせられる箇所が随所にある。冒頭では、なぜ哲学を学ぶのか、哲学の持つ可能性は何か、と著者は読者に対して問う。

 わたしたちにたいして現れている世界と、本当に存在している世界とはまったく違っていることがありうるということ、そのことをけっして忘れない態度を学ぶことができるのです。哲学はすべてを疑ってやむことがありません。そのさいには哲学自身も疑いの対象となります。そこまで疑うところにこそ、この世界全体とはそもそも何なのかを理解するチャンスもあるわけです。(31頁)

 疑うことが哲学である。こうした外界を疑う態度によって、著者は世界という存在の有無を疑う。

 存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。(105頁)

 科学に対する扱いも面白い。

 科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。こうなると科学は、同様に間違って理解された宗教に似た、疑わしいものになってしまいます。(198頁)

 宗教についての考察も考えさせられる。

 宗教の源となるのは、最大限の距たりから自身へと回帰したいという欲求です。人間は自身を放擲して、自分など無限なもののなかの些細な一点にすぎないと考えることさえできます。このような距たりから自身へと回帰するとき、わたしたちにはおのずからこんな問いが浮かんできます。わたしたちの人生にはそもそも意味があるのだろうか。それとも、意味があるようにと願うわたしたちの希望は、無限なものという大海のなかの水滴のように空しく消えゆくものなのか、と。かくして宗教とは、無限なものーーまったく思いどおりにならないもの、不変なものーーから、わたしたち自身への回帰にほかなりません。この回帰にさいして重要なものは、わたしたちが完全に失われてしまうわけではないということです。(230頁)
 わたしたちが神ないし神的なものに出会うのは、わたしたちが最大限の距たりに赴き、すべてが可能であることを経験するときだということです。わたしたち自身の人生経験のなかで、そのようなことが実存的に示されるのは、わたしたちが当たり前に思っていた拠り所を失ってーーわたしたち自身にたいして、まったく多様な態度をとることができる以上ーーきわめて多様な生き方を受け容れる可能性があることを実感するときでしょう。(235頁)

 著者は世界は存在しないと主張する。では世界が存在しないことは絶望なのか。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。さもなければ、現に存在しているいっさいのものは、存在することができていなかったに違いありません。(292頁)

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)

2019年4月27日土曜日

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)


 フッサールの思想を現代において改めて光を当てたと評価される本作。書かれている内容は決して平易ではない。論旨が取りづらい箇所も多い。しかし、考えが深まるあるいは深まりそうな示唆に富んだ記述が随所にあり、難しいのに癖になりそうな読後感のある本である。

 決定的に重要なのはエポケーの目的を誤解しないことである。エポケーを行うのは、実在を否定し、疑い、無視し、放棄し、研究から排除するためではなく、単に実在に対するある一定の独断的態度を遮断あるいは中立化するため、すなわち現象学的に与えられたものーー現出するがままの対象ーーに一層詳しく直接的に焦点を当てることができるためなのである。(69頁)

 フッサールといえばエポケーである、と私は理解している。判断停止とも訳されるこの概念について、フッサールの認識論が現れていると捉えられるのではないだろうか。

 エポケーは、注意を世界内的対象から背けさせるのではなく、世界内的対象を新しい光の下で、すなわち意識に対する対象の現出あるいは顕現において構成された相関体として吟味することを許すのである。(77頁)

 エポケーの可能性は対象をくっきりと理解することにある。ありのままをそのまま理解する、ということであろうか。

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)
【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)

2019年4月21日日曜日

【第949回】『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海、新潮社、2015年)


 ドラッカーを読み直そうと思っていた。しかしあまり時間がなかったために本書で代用したという側面はある。とはいえ、本書は再読であり改めて読み直そうと思わせる魅力が本書にはあるとも言える。実際、読み直してみて、改めて気づかされるものが多かった。

 主人公である野球部マネジャーのみなみがドラッカーの『マネジメント』を座右の書として部および部員に貢献しようとする一連の動きは興味深い。理に適っているとも思えるし、ストーリーとしても違和感がない。

 安富氏が『ドラッカーと論語』で言及しているのと同感で、最後にヒロインが亡くなる展開は安っぽいドラマのようで今ひとつではあるがそれ以外は読み応えがある展開だ。それでいてドラッカーを学べるのであるからお得な一冊であることは間違いない。

「働く人たちに成果をあげさせる」ことは、マネジメントの重要な役割だった。そのためみなみは、「どうやったら部員たちに成果をあげさせられるか」ということを、ずっと考えてきた。(94頁)

 企業組織における社員を部活動における部員に置き換えて考える。簡単なようでいて難しいことであり、それを愚直に繰り返すことは至難の業であろう。しかしこれをみなみはやりきり、かつ自分の親友である夕紀に援用した。

 みなみは夕紀の仕事を設計していったのだ。
 まず、彼女の仕事を生産的なものにしようとした。だから、マネジメントにとって最も重要な仕事の一つである「マーケティング」を、彼女に一任した。
 次に、フィードバック情報を与えた。面談が終わると反省会を開き、自分の評価や感じたことを率直に伝えた。また、部員たちからも感想を聞き、それらも全て伝えるようにした。
 最後に、夕紀自身が学習を欠かさないよう気を配った。彼女にも『マネジメント』を読んでもらったのはもちろん、どうやったらもっと部員たちの本心を聞き出すことができるか、話し合ったり、それ以外の本を読んでもらったりもした。また、親や病院の人たちにも相談してもらうなどして、幅広く情報を蓄えさせた。
 そうやって、みなみは夕紀の仕事に責任を持たせようとしたのだ。(95~96頁)

 下手なマネジメント本よりも本質を簡潔に押さえている。自分自身を省みても気づきの深まる箇所である。

【第662回】『ドラッカーと論語(2回目)』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年4月20日土曜日

【第948回】『When 完璧なタイミングを科学する』(ダニエル・ピンク、勝間和代監訳、講談社、2018年)


 著者の書籍はいつも面白い。新しい視点を我々読者に提示してくれる。提示された主張がその後数年を経て敷衍し、ビジネス界の常識となることも多い。2002年の『フリーエージェント社会の到来』では企業組織に正規社員として勤務しないフリーエージェントという働き方を提示し、2010年の『モチベーション3.0』では内発的動機づけを論じた。

 本作では、これらで論じられてきた何をなすかというWhatを扱うのではなく、いつ行うべきかというWhenがテーマである。以前の著作を包含しながら、また新たな視点を加えてくる発想は流石である。

 何かを始める時の留意点もあるし、何かを終える時にも重要なヒントはある。しかし、私が興味深く思ったのは中間におけるポイントである。

 中間地点は、人生の現実であり自然の力であるが、だからといってその影響を変えられないということはない。不振を刺激に変える最善の策としては、次の3つがある。
 1つ目は、中間地点を意識すること。気づかないままにしておいてはいけない。
 2つ目は、あきらめるきっかけではなく、目を覚ます機会としてそれを用いること。「ああ、しまった」とあきらめるのでなく、「おっと大変だ」と意をもむ機会として使うことだ。
 3つ目は、中間地点で、ほんの少しだけ自分がリードされている、または後れを取っていると考えてみることだ。これによって、モチベーションが活性化される。もしかすると、全国大会で優勝できるかもしれない。(168頁)

 中だるみという言葉があるように、中間地点ではともするとやる気が減衰したりミスが多くなるものであると考えがちだ。しかし、中間地点をポジティヴにするかネガティヴにしてしまうかは個人の工夫次第のようだ。

 まず、特定の地点を自分で設定することが重要ということは納得だ。いわば、自分で途中段階で締め切りを設けることで、その仮説的な締め切りに向けてやる気を高めることができる。

 そうして設定した中間の締め切りの時点を意識することで、建設的に焦りを生み出すことができる。冷静にその時点での達成度合いを把握することで、本当の締め切りに向けた計画に意識を向けるのである。

 そうすることで、少し自分が当初設定していた理想的な自分自身に負けているという感覚を持つことでより自分を高めようとやる気になると考えてみても面白いだろう。

【第818回】『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010年)

2019年4月14日日曜日

【第947回】『陋巷に在り 13 魯の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)

 大作がついに大団円を迎える。尼丘での一件が終わり、魯における孔子の政争へと舞台は移る。やや静かな展開の中であればこそ、孔子や顔回の意志が色濃く現れているように思える。クライマックスに近づき、孔子は魯を出る決意を固める。その孔子に従って魯を出ることを、顔回は即決する。

「潰えたものをただ見守るだけでは将来はありません。わたくし回は先生に学ぶ者です。どうして陋巷に残り、一人楽しむことが出来ましょう」(588頁)


 孔子にとって最愛の弟子と言われる顔回は、ひたすらに孔子を尊敬する存在であった。師弟関係の理想として、微笑ましいとともに羨ましくも感じる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月13日土曜日

【第946回】『陋巷に在り 12 聖の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 子蓉の兄・悪悦。悪意の塊として描かれる彼もまた、子蓉と同様に過酷な幼少期を過ごしていることが明かされる。子蓉とは異なり、悪意しか感じられない彼が、その大きな力をもって子蓉とは異なるアプローチで尼丘へと至る。

 思えばそもそも力自体に倫理道徳的なものはないのである。力を善く使って福をなすことも出来るし、力を悪しく使って禍をなすことも出来る。使う者は仕合わせにもなれるし、その為に非業にして亡びることもある。しかし使われる力は同じものであり、ただ使う者の意図や目的により他者より道徳的評価が下されるにすぎない。実に単純なことなのである。神の力もそうなのかも知れない。(60頁)

 力には悪も善もない。その保有する者の意思によって良き使い方と悪い使い方とが現れるだけである。先の大戦で多大な犠牲によって人類が学んだことがここでも描かれているようだ。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月7日日曜日

【第945回】『陋巷に在り 11 顔の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 戦いの舞台は顔儒の総本山である尼丘へと移行する。そこには顔儒に壊滅的なダメージを与える展開が予感される。尼丘へと向かう子蓉の描写は、禍々しいものを描いているかのようでもあるが、神聖なものを描いているようにも受け取れる。向かってくる顔儒を惨殺するシーンにもどこかもの悲しさが現れる。

 子蓉はきちんと復讐してから、故郷を出たはずであった。しかし記憶は残っていた。子蓉をいつでも縛り付けようとするものの正体は自分の中にいる。記憶を殺さねば、まだ何も清算されないのである。子蓉に潜む底無しの残虐性、瞬時に現れる凶暴さはその記憶に由来するものであった。(206頁)

 顔回とともにこのシリーズの主人公に近い存在にもなりつつある子蓉の内にある残虐性が説明される。なぜ人は残虐な行動が取れるのか。それにもかかわらず、通常の状態では「普通の人」のような人物であり得るのか。幼少期からの人格形成について考えさせられる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月6日土曜日

【第944回】『陋巷に在り 10 命の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔氏の太長老が、自身の娘であり孔子の母親である顔徴在について、妤に対して語り聞かせる。孔子の謎に包まれた誕生における大胆か仮説の提示に魅了されながら一気に読み進められる。以下の引用は、その間に挟まれた顔回と医とのやりとりから。

 秘鍵は問われるものではなく、自ら摑むべきものである。他者の秘匿を考え無しに問うのは非礼である。(324頁)

 一見すると礼に基づいて顔回が医に医術を尋ねただけなのであるが、医はそれに対して怒りを表す。徒に他者に対して尋ねるのではなく、自分で考えて自分で行動してみて会得する。そうした過程を経た上で尋ねるということが礼なのであろうか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)