子蓉の兄・悪悦。悪意の塊として描かれる彼もまた、子蓉と同様に過酷な幼少期を過ごしていることが明かされる。子蓉とは異なり、悪意しか感じられない彼が、その大きな力をもって子蓉とは異なるアプローチで尼丘へと至る。
思えばそもそも力自体に倫理道徳的なものはないのである。力を善く使って福をなすことも出来るし、力を悪しく使って禍をなすことも出来る。使う者は仕合わせにもなれるし、その為に非業にして亡びることもある。しかし使われる力は同じものであり、ただ使う者の意図や目的により他者より道徳的評価が下されるにすぎない。実に単純なことなのである。神の力もそうなのかも知れない。(60頁)
力には悪も善もない。その保有する者の意思によって良き使い方と悪い使い方とが現れるだけである。先の大戦で多大な犠牲によって人類が学んだことがここでも描かれているようだ。
【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)
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