2016年5月29日日曜日

【第583回】『罪と罰(上)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)

 小説の中には、全体の物語というよりは、部分に感銘を受けるものもある。私にとって本書はそうした小説である。もちろん、部分が活きるということは、全体の構成や物語性も優れているのであろうが、以下の箇所の印象が鮮烈だ。

 ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!(328~329頁)

 主人公ラスコーリニコフは、自らが犯した社会的殺人の罪の意識に苛まれ、自ずから罪を公にするか、自死するか、罪を隠して生き続けるか、の選択を自己に課す。その中で、最後の選択肢を選び、罪の意識に悩まされ苦しみながら生き続けることを選ぶ。こうした究極的な選択を私たちは下すことは少ないだろう。しかし、藤村の 『破壊』のエントリーでも書いたように、極端な生き様を想像し、仮想的に体験できるというのが小説の醍醐味である。ラスコーリニコフが苦しみながら生を選ぶことを決意したシーンがまた印象的だ。

 《幻影、仮想の恐怖、妄想よ、さらばだ!……生命がある!おれはいま生きていなかったろうか?おれの生命はあの老婆とともに死にはしなかったのだ!老婆の霊に冥福あれーーそれで十分だ。お婆さん、どうせお迎えが来る頃だったのさ!さあ、理性と光明の世界にたてこもるぞ……さらに意志と、力の……これからどうなるか!しのぎをけずってみようじゃないか!》彼はある見えない力にむかって挑戦するように、ふてぶてしく言った。《おれはもう二本の足がやっとの空間に生きる決意をしたのだ!》(393頁)

 罪を犯すことは、自分自身を苦しめることに繋がり、絶対に称揚できるものではない。しかし、それを大きく差し引いても、この箇所に力強さや生命の輝きを感じる。選択を下すということは、何かを捨てることであり、自らの手で可能性を狭めることによる苦しみと共に生きるということなのではなかろうか。


2016年5月28日土曜日

【第582回】『模倣と独立』(夏目漱石、青空文庫、1913年)

 先日訪れた神奈川近代文学館での特別展「100年目に出会う 夏目漱石」にて気づいた読み落としの一冊。勝手ながら、イギリス留学時に、西洋文学の学びと乗り越えにおける苦悩をどのように感じ、どのように昇華しようとしたのかという点で読み解くと興味深い。

 諸君と行動を共にしたいけれども、どうもそう行かないので仕方がない。こういうのをインデペンデントというのです。勿論それは体質上のそういう一種のデマンドじゃない、精神的のーーポジチブな内心のデマンドである。(Kindle No. 285)

 模倣と独立とは、どちらも大事なものであり、一人の人間に二つのものが同居するものであるが、変化の激しい時代においては独立の要素が必要になることが多い。では、独立とは何かと考察した時に、それは外形的なものではなく、内面から自ずと湧き出てくる何かであると著者は述べる。外面ではなく内面であり、強制ではなく自発性という点が指摘されていることに注目したい。

 インデペンデントの人というものは、恕すべく或時は貴むべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、徒にインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。(Kindle No. 379)

 内面から自ずと生じるインデペンデントの精神は、単純なものではない。他者からのフィードバックを受けても、それに対して主張でき得る背景や強い意志とが内包されているからである。反対に言えば、他者からなにか言われて取り下げてしまうようなものは、インデペンデントではないということであろう。では、成功とは著者にとって一体何を指すのであろうか。

 同じ事を同じように遣っても、結果に行って好ければ成功だというが、同じ事をしても結果に行って悪いと、直ぐにあの人の遣口は悪いという。その遣方の実際を見ないで、結果ばかりを見ていうのである。その遣方の善し悪しなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。それであの人は成功したとか失敗したとかいうけれども、私の成功というのはそういう単純な意味ではない。仮令その結果は失敗に終っても、その遣ることが善いことを行い、それが同情に値いし、敬服に値いする観念を起させれば、それは成功である。そういう意味の成功を私は成功といいたい。(Kindle No. 411)

 成功とは、結果ではなく行動、behaviourであると著者は指摘している。これは非常に重たい指摘ではないだろうか。私たちはともすると、成功や失敗を結果に関する尺度で画一的に評価してしまう。収入の多寡や、地位や名声の有無によって、ある人物が成功したかどうかを判断するように。しかし、他者から言われたことを糧にしながらも、自分自身の内側から生じてくる想いに基づいてやり遂げようとすること。こうしたインデペンデントの精神の重要性を、一世紀以上も前に述べられていたことに私たちは今一度思い返すことが重要であろう。

【第531回】『私の個人主義』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
【第567回】『こころ【3回目】』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

2016年5月22日日曜日

【第581回】『東大のディープな日本史2』(相澤理、中経出版、2012年)

 一般常識のような歴史を学び直すことも面白いが、一見して意外な史実を論理的に理解することもまた、歴史を学ぶことの意義の一つではないだろうか。前作に続き、本作でもそうした意外性のある楽しさに溢れている。

 もともと祖は、農村における初穂儀礼に由来しています。「今年も無事に収穫できました」と村人みなで神に捧げる。つまり、共同体の結束を固める儀式だったのであり、律令政府はそれを税制に取り込んだということだったのです。(67頁)

 日本における主食=米というステレオタイプな図式からすると、十数世紀前の頃から、税の中心は祖としての米であると思ってしまいがちだ。しかし著者は、律令国家における税制の中心は祖ではなく、調や庸であったとしている。これは、庸と調が人頭税として班田農民が直接都に運んで納入していたことに現れているそうだ。

 寄生地主制は資本と労働力の供給源となるという形で、資本主義の発達の基盤となりました。しかし、それは戦前の日本経済の構造的な脆さを内包するものでした。すなわち、高額の小作料をせしめられているがゆえに、低賃金で働かされているがゆえに、購買力がない、つまり、国内市場が育たなかったのです。実際に、明治時代の資本主義勃興期の日本経済は、過剰生産による恐慌を繰り返しました。(218頁)

 ここでは明治から昭和初期における生産体制について指摘されている。寄生地主制が、日本に資本主義を定着させながらも、その限界をもたらしていたという点に着目するべきであろう。そうした恐慌の果てにあの戦争に至ったということを私たちは忘れてはいけないし、それこそが、歴史から学ぶ態度ということではないだろうか。


2016年5月21日土曜日

【第580回】『東大のディープな日本史』(相澤理、中経出版、2012年)

 受験勉強とはテクニックを学ぶだけで本質的な学びではない。このような言説を基にして、塾や予備校での授業が低く見られることがある。果たして本当にそうなのだろうか。私にとっては、大学以降の学びの面白さの萌芽を垣間見たのは予備校での現代文の授業であり、頭を使って事象に当たることは予備校の英語の授業で学んだ。教育のプロフェッショナルである予備校や塾の先生の授業を軽んじる理由は何もないように思え、むしろ、教科書をただ暗記させるしか能のない高校の先生と比べるのは失礼だ。

 面白いということは学びの原点であるし、受験生に成長感を持たせるというのは学びの継続性にとって必要な要素であろう。本書では、東大の問題を扱うというキャッチーな形式でありながら、日本史を古代から近代までつながりを持ちながら学び直すことができる。

 中国(唐)を模倣しながら中国(唐)からの自立を図るという、屈折したものだったのです。そしてその姿勢は、明治時代には列強(ヨーロッパ諸国)に、戦後はアメリカに置き換わる形で繰り返されます。(38~39頁)

 遣唐使の時代における日本と中国および朝鮮半島について、パワー・バランスの観点から捉え直している。つまり、唐と日本との冊封関係がありながらも、日本の朝廷としては日本を中心とした華夷秩序の形成という唐の政治体制を援用して唐からの自立を目指すという曲芸的な発想があったのではないか、という仮説である。さらに、こうした発想は、明治時代におけるイギリス・フランス・ドイツ等に引き継がれ、太平洋戦争後はアメリカに置き換わりながらも、形式は変わっていないのではないという興味深い主張がなされている。

 院政が始まった11世紀ころの日本社会は、朝廷による中央集権的な全国支配が機能不全に陥り、実力社会に移行しつつありました。それは、従来の法や慣例が通用しなくなったということです。自分の所領や財産は自分で守らなければなりません。
 中世とはつまり、そういう時代でした。そして、そこにこそ、院政が始まった要因も、武士が出現した要因も、やがて平氏や源氏が政権を奪取した要因もあったのです。(79頁)

 日本史を好んだ学ばれた方は、中世の始まりを源平の争乱の頃からとして記憶している方も多いだろうが、現在では白河上皇の院政期が中世の始まりと言われているそうだ。その理由として、京都の中央集権的な支配が難しくなり、院政の開始の頃から地方での実力社会への移行が始まったからであるとしているのである。

 実力社会に移行するなかで、上皇のような既存の枠組みに縛られない新たな秩序の建設者が求められました。そして、そうした上皇の下でこそ、武士(平氏)は政権を奪取することができたのです。(85頁)

 ここまで説明が進むとより理解することが容易くなるだろう。天皇の親という縁戚関係はありながらも、官位がないので公的な力は弱い。その力を補うために、武士を活用して、血縁と武力とで権力を握ったのが院政であり、そうした観点から、院政の始まりとともに中世が始まったと現在では考えられているのである。

 鎌倉後期から南北朝期にかけて、武家社会においても農村社会においても、従来の血縁的な結束が弱体化し、地縁的結合が形成される動きが見られました。
 鎌倉時代の武士は、惣領制という強い血縁的な紐帯の下にありました(中略)。しかし、その絆を保っていた分割相続の原則は、繰り返せば所領の細分化を招いてしまいます。鎌倉後期には、これに元寇の負担や貨幣経済の発達による支出の拡大などが重なって、武士は困窮していきました。
 そこで、分割相続から嫡子単独相続への移行が進み、その結果、惣領と庶子の対立が表面化して、血縁的な結束にほころびが生じたのです。(121頁)

 中世からさらに時代を経て、鎌倉後期の社会の描写である。ここに、中国における血縁重視の社会から、地縁重視という独特な社会観の始まりが見られる。地縁が重視される背景には、経済状況も関連することとなり、また家族制度も関連していたのである。


2016年5月16日月曜日

【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

 前回本書を読んだ際にはざっと読んでしまったからか、さほど印象に残らなかった。今回、じっくりと取り組んでみたら面白く読めた。リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムについて、興味深い事例を引きながら丁寧に書かれている。

 われわれの議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが何を意味するのかについて見解の相違が表れている。また別の議論には、これらの理念同士が衝突する場合にどうすべきかについて意見の対立が含まれている。政治哲学がこうした不一致をすっきりと解消することはありえない。だが、議論に具体的な形を与え、われわれが民主的市民として直面するさまざまな選択肢の道徳的意味をはっきりさせることはできる。(29頁)

 「幸福の最大化」を目指すリベラリズム、「自由の尊重」を目的とするリバタリアニズム、「美徳の涵養」を至上命題とするコミュニタリアニズム。それぞれの意味合いがここに端的に現れているとともに、なぜ哲学的な議論が必要であるかが述べられている。つまり、何が正しいということではなく、われわれが日常において直面する選択肢の背景に、どういった考え方があるのかを自覚することができるのである。

 著者はコミュニタリアニズム的な考え方を取るため、他の二つに対する反論が多くなされているきらいはある。しかし、その反論の書き方も抑制の利いた筆致であり、それぞれの考え方のポイントがよく描き出されている。三つの考え方で惹かれた部分を抜き書きしてみたい。

 ベンサムは人命の価値を含め、われわれが大切にしている多種多様な物事を単一の尺度で厳密にとらえるために、効用という概念を考えだしたのだ。(59頁)

 まずはリベリズムの思想的な嚆矢ともなるベンサムの功利主義である。功利主義の画期的な捉え方は、単一の尺度という中立的な概念を用いた点であろう。ロールズのマキシミン_ルールにも繋がる「負荷なき自己」は、著者からの批判はもっともではあるが、一つの考え方として興味深い点もあると私には思える。

 自分を所有しているのは自分自身だという考え方は、選択の自由をめぐるさまざまな論議のなかに姿を現わす。自分の体、命、人格の持ち主が自分自身ならば、それを使って何をしようとも(他人に危害を及ぼさないかぎり)自由なはずだ。(94頁)

 リバタリアニズムに共感をおぼえるのはこの部分である。他者の自由に抵触しない範囲において、自身の自由を享受する。この考え方には、根強い魅力があるように私には思えるのだ。もちろん、この後に著者が述べる事例を検討すれば、他者の自由に抵触しない範囲での自由の享受という理念型の、現実的な難しさに思い至ることにはなるだろう。その難しさを踏まえた上で、このリバタリアニズムの考え方にも一定の理解をすることは有用なのではないだろうか。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(304頁)

 やはり、コミュニタリアニズムの内容には著書の力が入っている。しかし、それを割り引いても、この部分の主張には力強さを感じ、納得感をおぼえる。自国の歴史や、所属する組織の過去の行動に対して、現在の自分はいかに責任を負担し、行動するか。自由や効用も大事であるが、コミュニティに対する「負荷ありし自己」もまた、私たちにとって大事なものである。


2016年5月15日日曜日

【第578回】『脳と仮想』(茂木健一郎、新潮社、2004年)

 著者の初期の作品は、脳科学の知見を文学作品として描かれているようで、趣深く、かつ噛み締めながら読むことができる。久しぶりに読んで、改めて、考えさせられることが多かった。

 漱石が赤シャツであるということに気がつくことで、『坊っちゃん』は私の心をより深いところで傷つけ、それだけ印象深い芸術作品になったのである。
 身体の傷と同じように、すぐれた芸術作品による心の傷も、その傷が深ければ深いほど、その治癒のプロセスに時間がかかる。私はこれから長い間、『坊っちゃん』において漱石が赤シャツであることの痛みを感じ続けることになるだろう。(74頁)

 痛みとは、自分自身が経験するものに限らない。文学や芸術作品から痛みを受け、そこから治癒するプロセスにも意味があるという。作品に対して、受動的だけではなく、能動的に働きかけることで、そこで何らかの引っ掛かりを受けること。そうした引っ掛かりによって得た傷を治す過程が、個人に対して変容を与える。

 再編成の結果新しいものが生み出されるプロセスを、人は創造と呼ぶ。素晴らしい経験をすると、自らもそのような何かを生み出したくなる。適当な形で心が(脳が)傷つけられることで、その治癒の過程としての創造のプロセスが始まる。
 脳は、傷つけられることがなければ、創造することもできないのである。(76頁)

 傷つけられたという主観的な経験を基にして、脳は、再編成を試みる。そうした再編成のプロセスを続けることが、私たちに当初は思い浮かばなかった新たな気づきを与える。そうした気づきは、自分自身にとって新しいものであるばかりではなく、ともすれば、他者にとっても新しい価値を創造することにつながる。

 仮想によって支えられる、魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができるのである。それが、意識を持ってしまった人間の本性というものなのである。(82頁)

 傷つけられて、再編成を行うことで、創造的に仮想を描き出すことができる。そうした仮想によって、私たちは、時に厳しい現実に対処するヒントを得られることができるのであろう。

 この世界は、お互いに絶対的にのぞき込むことのできない心を持った人と人とが行き交う「断絶」の世界である。世界全体を見渡す「神の視点」などない。あるのは、それぞれの人にとっての「個人的世界」だけである。これらの「個人的世界」は、原理的に、絶対的に断絶している。その断絶の壁を超えて、私たちはかろうじてか細い人を結ぶ。その時、他者の心は、断絶の向こうにかろうじて見える仮想として立ち上がる。(159頁)

 仮想とは、自分自身がこの世で生きるためのみに必要なものではない。そうではなく、事実として分かり得ない他者と共有する何かを紡ぎ出すためにも重要なものである。共通の事実を積み上げるだけではなく、共有できる仮想をお互いに創り出そうとする努力が、自身と他者の相互に安心をもたらすものなのかもしれない。

 一つ一つの言葉にまとわりついている「思い出すことのできない記憶」に思いをはせるとき、そこには、夏目漱石が好んだという、「父母未生以前本来の面目」という禅の公案と同じ世界が開かれる。私たちが言葉を使うということ自体が、過去の膨大な人類の体験の総体に思いをはせる行為でもある。
 だから、未来志向であることと、過去の歴史を尊重するということは、矛盾することではなく、一つの生きる態度になり得るのだ。(182~183頁)

 自己と他者という空間軸の広がりに加え、時間軸においても仮想は重要だ。とりわけ、未来を思い描くということも大事ではあるが、そのためにも、過去の歴史を尊重するという謙虚な態度が大事であるという視座を持ちたいものだ。過去を謙虚に振り返ることが、翻って、私たちの未来を描き出すことに繋がるのではないだろうか。


2016年5月14日土曜日

【第577回】『キャリアショック』(高橋俊介、東洋経済新報社、2000年)

 自分自身のキャリアをどうするか、思いあぐねていた私を、人事の領域、もっと言えばビジネスの領域へ誘ったのは著者の授業であった。論理整合性のあるモデルの提示と示唆に富んだ事例の数々。コンサルティングとは面白いビジネス領域だと思ったし、学部を出た後の最初のキャリアに選んだのは良かったと思う。その後、大学の研究者や事業会社における人事といったキャリアチェンジを行った際の意思決定の要素には、本書でのポイントがあったのだなぁと本書を再読して思い返させられた。

 本書のタイトルとなっているキャリアショックについて著者は以下のように端的に述べている。

 「キャリアショック」とは、自分が描いてきたキャリアの将来像が、予期しない環境変化や状況変化により、短期間のうちに崩壊してしまうことをいい、変化の激しい時代に生きるビジネスパーソンの誰もがそのリスクを背負っている、きわめて今日的なキャリアの危機的状況をいう。まさに、キャリアのクライシスといってもいい。(2頁)

 この定義だけを目にすると、私たちが直面する時代の厳しさばかりを意識してしまうかもしれない。しかし、ショック療法という言葉があるように、ショックとは、それを基にしていかようにも変化を自らに課せられるものであり、価値中立的な言葉である。ショックをいかに自分のキャリアの糧にできるかについて、インタビュー調査の結果から四つのキャリアコンピタンシー(117頁)として以下の四つを導き出している。

 行動パターン(1)仕事を膨らませる
 行動パターン(2)布石を打つ
 仕事パターン(3)キャリアを進める
 仕事パターン(4)キャリアを振る

 いずれの行動パターンをとっても、行動の起点は自分にあり、その上で行う先として職務や社内外の顧客を意識していることに着目すべきだろう。特定の他者を相手にしながら、自分自身のたのしさを職務としてかたちにしていく。このように捉えれば、キャリアをデザインしていくということは、自分にとって興味深く面白いことに思えて来ないだろうか。


2016年5月13日金曜日

【第576回】『働く過剰』(玄田有史、NTT出版、2005年)

 修士課程に進む決意を下した要素にはいくつかあるが、本書はその一つである。世代や格差といった論点への興味・関心を喚起させられ、キャリアやモティベーションを研究しようとしたきっかけとなったことは間違いない。それ以降、数年ぶりに読み直してみて、今でも新鮮な主張が含まれていることに驚いた。事実を様々な角度からデータ化し、分析を加えることで、示唆に富んだ考察を行うという、研究活動の素晴らしさに改めて感じ入った。

 ニートという概念の提唱者の主要な一人である著者が、問題意識の一つとして警鐘を鳴らしているのが、企業が学卒新卒に求める即戦力志向である。人事部門に勤める身としては、新卒に対して即戦力を求める企業が多いというのは都市伝説の類の一つであると信じたい。しかし、新卒社員に対する期待値が年々上がっていることは、肌感覚として合っているように感じる。新卒に対するあまりに過剰な期待を持つ際には、以下の言葉を噛み締めて今一度考え直す必要があるだろう。

 即戦力志向とは、つまるところ、育成軽視の別表現にすぎない。(8頁)

 繰り返すが、ほとんどの日本企業では新卒社員に即戦力を期待していない(と信じている)。しかし、期待が高すぎることもまた、彼(女)らを苦しめることにつながることを、人事も現場も心する必要がある。さらに言えば、そうした即戦力人材として思い描かれる人材像は画一化されたものである。多様な背景を持った多様な人材が集まることが、チームとして機能するためには必要なのであるから、画一化された人材像を求めているかのようなメッセージを発することも問題である。ではどういったメッセージの発信があり得るべきなのであろうか。

 逆説的ではあるが、企業として明確に決められた人事観を確立し、社員と共有することが必要になる。多様性はバラバラとは違う。社員が組織に対して共感し、個人がその共感を前提としながら状況に応じて、自分を表現し行動する。本当の多様化は、すべての社員が共有できる価値観を保有する企業にしか生まれない。(28頁)

 一言で言えば、ダイバーシティ&インクルージョンということであろう。つまり、多様性という前提に立った上で、社会や組織として大事にする価値観を共有するということである。だからこそ、画一化された即戦力という基準で新卒社員を測り採用しようとすることは、健全な企業組織を創り上げるという観点からも機能しない。

 こうした即戦力志向に対する問題意識の基に、現代の日本における企業で起きている事象を若者(本書では「基本的に一五歳以上三五歳未満」を若者と呼称している(39頁))に焦点を当てて、データの分析と考察を行っている。以下からは、労働時間についての考察を見てみよう。

 三〇代男性ホワイトカラーの長時間労働の普遍化は、企業にとって、三つの意味での「喪失」につながる。一つは、能力開発機会の喪失である。二つは、労働者の会社に対する信頼感の喪失である。三つは、企業が事業再構築をしようとしても、労働者に過度の負担を強いることによって、結局は業務改革に取り組む意欲が喪失されることである。(93頁)

 まずは長時間労働に対する警鐘である。本書では概ね週60時間以上が長時間労働として捉えられている。週60時間の労働時間とは、月60時間を超える法定時間外労働とほぼ同じであるため、考察すべき時間としては妥当であろう。こうした長時間労働に三つの問題が挙げられており、議論となりそうな一つ目の点についてコメントを述べる。

 能力開発機会の喪失については異論が出てきそうだ。たとえば、「多様な業務経験を積ませてもらうことで能力は向上するものであり、業務以外の能力開発は必ずしも必要ではない」というものだ。実際、私が十年前に本書をはじめて読んだ際にはそのように考えた。私自身としては、週70時間以上の労働時間を毎月続けるという初期キャリアの約三年間を経験したことで、その後のキャリアのベースとなる能力が開発されたと今でも思っている。しかし、それは上司による経験の付与や、チャレンジングな案件や顧客を与えられるコンサルティングという特殊な業態であったことが作用していることを付言したい。こうした能力開発が可能な職務でない場合には、疲弊だけしか生じない長時間労働が発生してしまうのである。これが俗に「ブラック企業」と呼ばれる企業で起きている事象であろう。

 もう一つ、著者の指摘が興味深いのは、短時間労働がいたずらに賞揚されていない点である。

 ただし、労働時間は短ければいいというものでもないことも、データは同時に語っている。短時間の労働者の多くは、技術変化や事業の変化が進むことに強い不安を感じている。自分の職業能力の汎用性にも自信が持てず、そもそも能力開発の態勢が多くの場合、整備されていないのが現状なのだ。(94頁)

 もちろん、家庭や育児との両立のために短時間労働を工夫して行なっている方々がいらっしゃり、そうした働き方が賞揚されることは間違いない。もっと促進できるように企業としてサポートするべきであろう。しかし、上記で示唆的なのは、そうしたワーキングマザーや介護しながら働く人々以外に対する指摘である。統計で出てくる傾向として、あまりに短い労働時間で働く人々の傾向として、面白い職務をアサインされず、仕事に手応えを感じることなく、成長しないというグループが見出せるのである。私たちは、こうした現象に着目するべきであろう。

 次に職を持たない若者に対する考察について見てみよう。

 ニートは不透明で閉塞した状況のなか、働くことの意味を、むしろ過剰なほど考えこんでしまっていたりする。ニートが象徴するのは、個性や専門性が過剰に強調される時代に翻弄され、働く自分に希望が持てなくなり、立ち止まってしまった若者の姿だ。だから私たちはニートを「働く意欲のない若者」とせず、「働くことに希望を失った若者」と書いた。ニートは「働かない若者」ではなく「働けない若者」と表した。
 それにニートは共通して人間関係に疲れている。(中略)コミュニケーション・スキル(意思疎通を円滑にする技能)の重要性が学校でも職場でも、やはり過剰なほどに強調され、多くの若者が人間関係に疲れきってしまっている。(125頁)

 学校や企業からの過剰な期待をそのまま真面目に受け取ると、自分なんて社会で貢献できない存在であり、働くことが強くなるのも納得的である。なんとなく、そうしたことを就職活動中に感じたことも容易に思い出せる。少なくとも私にとっては、上記のようなニートの像はあり得た自分像として切実に感じてしまう。では、ニートにならないために、またそうした状態からどのように脱却することができるのか。

 失望してみなければ見えないやりがいがある。希望が失望に変わるプロセスのなかで、個人の思考や行動が変わり、ひいては個人と社会の関係に修正が生じることもある。その結果として、希望を持つという行為やそこから派生するプロセスが、希望を持たなかった場合に得られなかった、より高次の充足を実現する確率を高めていくことになるのだ。その意味で、良き失望を経験するためにこそ、希望は必要となる。(117頁)

 周囲からの期待というものは外から与えられるものであるのに対して、希望は自分の内側から生じるものである。何を希望しても個人の自由であり、それを他者に言明することは必ずしも必要ない。だからこそ、希望に対して落胆を得ても自分自身のものであり、それは恥ずかしいものではない。自分自身の糧を得るためにも、ちょっとした希望を創り出し、それを基にして外で得られるフィードバックを踏まえて修正を施していく。そうした調整の繰り返しが、若者だけではなく現代を生きる私たちに求められているのではないだろうか。


2016年5月8日日曜日

【第575回】『揺れる大欧州』(アンソニー・ギデンズ、脇阪紀行訳、岩波書店、2015年)

 グローバリゼーションの進展により国境という概念が薄れることによって、様々な意味での機会が増えるとよく言われる。しかし、それはその現象の半面しか述べておらず、もう半面にはリスクの増大が挙げられると著者は指摘する。

 グローバル化の加速とインターネットの台頭によって、人類全体は、ごく近い過去の時代と社会的、技術的に異なるシステムの中で生きているのではないだろうか。私はこれを「高機会・高リスク社会」と呼ぼう。一方で地球規模での相互依存、他方で広範な科学技術革新によって、私たちが手にする機会とリスクは過去の歴史に前例がないほど密接に絡まっている。(15頁)

 こうしたインターネットの台頭と連関して加速するグローバリゼーションの結果として、多文化主義という考え方が既に古くなってしまったという。

 超多様性が行き渡るようになると、多くの個人、つまり大多数の人々は、もはや、一つのアイデンティティを感じないだろう。彼らの忠誠心は単純ではなく流動的で、行動パターンは国勢調査の質問項目のチェック印から正確に予測できるような代物ではない。(154頁)

 私たちは、グローバリゼーションという現象を、国家を超えるものとして考える。つまり、そこには近代国民国家を前提として考えるという思考のパラダイムが存在している。しかし、現代においては、<私たちの国家>に対するナショナリズムの威力は弱くなっているのかもしれない。

 国のアイデンティティには、周知のように、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」と呼んだもの、すなわち、神話として再統合された歴史が今なお関わっているのかもしれない。ただ、そこには、互いに対立しあうような、将来の選択肢がますます増えてきている。(159頁)

 国民国家を形成する基盤として物語があることに、依然として違いはない。しかし、ある時点において有効な物語は、将来まで永続的に続く神話として語り継がれる保証はないのである。その書き換えのスピードが増してきているのである。

 世界中の国々、そして、EUを構成する国々も、自らのアイデンティティを懸命に再考し、さまざまな解釈を生み出しつつある。そのことを考えれば、EUの単一の物語をつくろうとしても無駄かもしれない。むしろ大事なのは、市民の関心を引き寄せつつ、異なるテーマを議論できる多彩な空間をつくり出すことである。アイデンティティは、他の世界と共鳴するものであって、単に一つの政治体制を語ることに拠っているのではない。(164頁)

 国民国家の集合体であるEUという単位で考えれば、物語の構築の難しさはなおさらである。そこに求められる物語は、単一のものを想起するものではなく、多様な解釈が可能なものとされる。これが超多様性によって形成される現代社会において求められることは理解可能ではあるが、では具体的にどのような物語が可能なのか。にわかには想像しづらい難しい課題にEUは直面しているのであろうし、異なる社会間の垣根が低いグローバルな現代社会においては、それは決して他人事ではない。


2016年5月7日土曜日

【第574回】『ユーロ消滅?』(ウルリッヒ・ベック、島村賢一訳、岩波書店、2013年)

 ギリシア危機や、域内の経済格差が喧伝されているEU。ヨーロッパにおけるリスクとはどのようなもので、ドイツはなぜヨーロッパの守護者となっているのであろうか。まずはリスクについての著者の考察を見てみよう。

 近代のリスク社会は、いわばそれ自体が非知と不可視性をもたらしている。それらに直面している私たちに方向性を示すために、今日では専門家集団が存在する。危機について見解を表明する経済学者たちは、確かに世界に見通しを与えるが、グローバルな金融市場の複雑性を奇妙な仕方で「資本の理解者」へと還元してしまう。彼らはセラピーで用いられるような、ある状態を示す用語を合理的な為替市場で使用される言語に取り入れることで、次のように市場の出来事を擬人化し、感情的なものにする。市場は「非常にナーバスになっている」、市場は「だまされない」、市場は「臆病である」、「不安である」、「パニックに陥った反応をしている」などの表現である。(17頁)

 多様なリスクから成る社会に見通しを与える専門家の存在は、リスクの種類と程度が増している現代社会においてより大きくなってきているようだ。起きている事象を理論的に解釈するだけではなく、そこに感情的な言葉遣いを入れるという指摘は興味深く、言われてみればそうであるが、なかなか気づかない視点である。

 ドイツ人の教育上の使命は今日、歴史から説明されている。つまり、第二次大戦後、軍事的にも、道義的にも決定的に破滅した時代に、共通の欧州という理念が生まれたのであった。このヴィジョンに活力を与えたのは当初、欧州全体の利害関心だったのではない。ドイツの近隣諸国がドイツを囲い込み、さらに血を流すことと新たな破壊を防ぐために戦争の欲望を抑えることに強い利害関心を持っていたために、活力が与えられたのである。(76頁)

 欧州の統合とは理念的に始められたものではない。第二次大戦時におけるファシスト国家であるドイツの再来を防ぐために、ドイツを封じ込めるための施策の一つであったと著者は指摘する。ドイツを含めた、当事者としての諸外国が共通する想いで、一つの欧州という概念を創り出そうとしたのである。

 ドイツ人は、時の経過と共に自らの教訓を学習した。彼らは民主主義の看板を背負うことになった。脱原発の看板も、緊縮の看板も、平和主義者の看板も背負うこととなった。彼らは、長くて時折困難な道を歩んできた。(中略)明らかなことはドイツが変わったということである。これまでのドイツの歴史に照らしてみると、現在がもっとも良いドイツであろう。(76頁)

 理想としての欧州の理念を内面化するべく、ドイツの人々は第二次大戦以降に努力を積み重ねてきた。価値観の内面化は、他者から見て分かりづらいものであるために、過剰にそれを入れ込む絶え間ない努力が求められる。少しずつそうした努力が形となって現れ、理念を体現する存在として認められるようになるのである。

 この背景から、多くのドイツ人の自意識において今日、自らは異常ではなく、正常でありたいと切望することが理解されよう。公的に罪を告白し続けてきた数十年の後、つまり半世紀以上「二度とナチズムを繰り返さない」ということを掲げてきた後、メディアや政治や世論において反対方向の運動が示されている。私たちは次のような新たな「二度とないように」のため息を耳にするのである。「二度と贖罪のレッテルを貼られなくてよいように」ということである。ドイツ人はもはや人種差別主義者や好戦的であるとは見なされてくないのである。彼らは自らを欧州の教師で、道義上の啓蒙家であると理解したいのである。(76~77頁)

 こうした価値観の内面化によって、ドイツをしてリスク社会としての欧州の守護者の位置に為らしめた。ドイツも他のヨーロッパ諸国も、ドイツをこのような存在に意識してさせたということではないだろうが、理想的な役割を徐々に担っていく中で現在の存在になることは必然とも言えよう。

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

2016年5月6日金曜日

【第573回】『経営戦略を問いなおす』(三品和広、筑摩書房、2006年)

 再読してみて、非常に面白く読んだ。戦略に関する三つの誤解をまとめた第一章の冒頭で、三つの節を要約した以下の箇所が秀逸である。

 第一節は、戦略の汎用性に疑義を唱えます。本当の戦略は、戦略の限定性を認識するところから始まる、そんなストーリーです。
 第二節は、成長戦略という概念を俎上に載せます。本当の戦略は、売り上げを伸ばすことを目指すものではなく、売上を選ぶもの、そんな視点です。
 第三節は、戦略に客観性と普遍性を求める発想を打ち砕きます。本当の戦略は主観に基づく特殊解、という話です。(20頁)

 まず、戦略は普遍的なものではないとしている。これはよく考えてみれば当たり前のことで、普遍性のあるものが戦略であるとすれば、戦略を立てることに意味はなくなる。なぜなら、普遍的であるということは、他社と比較して差異がなくなってしまうことを意味するからである。

 次に、戦略とは売り上げを選ぶものであるということが指摘される。これは、売り上げを伸ばすのではなく利益を伸ばすことが企業にとってより大事であり、そのためには投資対効果の優れない売り上げは追わないことが求められる。

 最後に、そうした決断をするためには、客観的な分析だけでは普遍的なものしか生まれない。客観的な分析も必要ではあるが、それと同等にもしくはそれ以上に主観に基づいたその企業独自の解の創出が必要なのである。


2016年5月5日木曜日

【第572回】『アイデアのつくり方』(ジェームズ・W・ヤング、今井茂雄訳、TBSブリタニカ、1988年)

 著名な広告制作者が明らかにする「アイデアのつくり方」と聞くと、斬新な発想や方法論が詳らかにされているのではないかと私たちの多くは考える。しかしそうした期待はいい意味で裏切られ、自明に思えることの蓄積が大事であることを改めて理解することになる。

 アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないということである。(28頁)

 全く新しい何かはゼロから生み出されるということは幻想に過ぎない。新しいものは、既存の要素の組み合わせで生み出されるのである。では、どうすれば組み合わせによって新しい価値を生み出すことができるのか。言葉を恐れずに言えば、非常につまらない、しかし真実と呼べる内容が以下で語られる。

 既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。(28頁)

 つまらないとも言えるが、勇気付けられる言葉とも言える。なぜなら、天賦の才能が求められるのではなく、事物と事物の関連性を見出すという努力で後天的に身につけられる才能だからである。

2016年5月4日水曜日

【第571回】『新しい労働社会【2回目】』(濱口桂一郎、岩波書店、2010年)

 法律を法律の視点からだけで捉えると無味乾燥なものになってしまう。しかし、現実に起こっている事象と法律との関連が述べられると、そこに切実なストーリーを見出せることがある。本書はまさにそうした書籍であり、労働法が企業やそこで働く人々にとってどのような影響を与えてきたのかに思いを巡らせてくれる。

 雇用契約それ自体の中には具体的な職務は定められておらず、いわばそのつど職務が書き込まれるべき空白の石版であるという点が、日本型雇用システムの最も重要な本質なのです。こういう雇用契約の法的性格は、一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約と考えることができます。日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップなのです。(3~4頁)

 日本企業における企業と働く個人との関係性をメンバーシップに置いている点が、本書を通底する主張である。日系の企業でキャリアを始め、現在外資系企業に勤めている身として、日系の企業がメンバーシップを雇用の根幹に置いているという点は納得的であり、身をもって理解できる。

 日本型雇用システムにおいては、メンバーシップの維持に最重点がおかれるので、特にその入口と出口における管理が重要です。メンバーシップへの入口は採用であり、メンバーシップからの出口は退職ですが、いずれも極めて特徴的な制度を持っています。すなわち、採用における新規学卒者定期採用制と退職における定年制が日本の特徴となっています。(8頁)

 メンバーシップを根幹に置くと、人事システムの入口では、先達に迎えられる要素を持つ人物か否かが問われることになる。それは長期にわたって安定的に働く長期雇用を前提とした新卒一括採用となり、職務における専門性ではなく人間的な総合性が重視される。その帰結として、ゲマインシャフトとしての企業組織の中で、メンバーとしての社員は終身雇用されることとなる。こうした日本企業の来し方を法的な観点から読み解いていけば、現状の日本企業において起こっている事象と、今後の変化の方向性を考えることができるのではないだろうか。

2016年5月1日日曜日

【第570回】『オシムの言葉』(木村元彦、集英社、2005年)

 数年ぶりに紐解き、オシムの言葉に触れてみる。すると、その奥深い言葉が、改めて輝いて見える。

「システムは関係ない。そもそもシステムというのは弱いチームが強いチームに勝つために作られる。引いてガチガチに守って、ほとんどハーフウェイラインを超えない。で、たまに偶然1点入って勝ったら、これは素晴らしいシステムだと。そんなサッカーは面白くない。
 例えば国家のシステム、ルール、制度にしても同じだ。これしちゃダメだ。あれしちゃダメだと人をがんじがらめに縛るだけだろう。システムはもっとできる選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮出来るシステムを選手が探していくべきだ」(121頁)
 企業組織におけるシステムを考えて、思わずハッとさせられる言葉である。何かを変えるために、もっと言えば、何かを変えようとしていることをわかりやすく伝えるために、企業ではシステムつまり組織を変えようという誘因が働きやすい。しかし、システムを変えることは、企業の戦略とのアラインメントを取るためであり、そうであればこそ、戦略実現の前提となる人に合わせたものが求められるのではないか。

 ただ、それより重要なのは、ミスを叱っても使い続けるということだ。選手というのは試合に出続けていかないと成長しない。どんなに悪いプレーをした時でも、叱った上でそれでも使う。ミスをした選手を、それだけで使わなくなったら、どうなる?その選手はもうミスを恐れてリスクを冒さなくなってしまうだろう。いつまでも殻を破ることができない(126頁)

 怒ると叱るの違いを管理職研修ではよく扱う。しかし、叱るには、相手を信頼し、辛抱強く待ち続けることが前提条件として求められる。信頼し続けているからこそ、叱った後に同じ人材を使い続ける。叱ることによって、相手が今後望ましい方向に変わることを信じているのである。叱るのにはエネルギーがかかるものであり、相手を信頼していたり、相手に対する敬愛の情がなければ、叱るということはなかなかできるものではない。