2016年5月21日土曜日

【第580回】『東大のディープな日本史』(相澤理、中経出版、2012年)

 受験勉強とはテクニックを学ぶだけで本質的な学びではない。このような言説を基にして、塾や予備校での授業が低く見られることがある。果たして本当にそうなのだろうか。私にとっては、大学以降の学びの面白さの萌芽を垣間見たのは予備校での現代文の授業であり、頭を使って事象に当たることは予備校の英語の授業で学んだ。教育のプロフェッショナルである予備校や塾の先生の授業を軽んじる理由は何もないように思え、むしろ、教科書をただ暗記させるしか能のない高校の先生と比べるのは失礼だ。

 面白いということは学びの原点であるし、受験生に成長感を持たせるというのは学びの継続性にとって必要な要素であろう。本書では、東大の問題を扱うというキャッチーな形式でありながら、日本史を古代から近代までつながりを持ちながら学び直すことができる。

 中国(唐)を模倣しながら中国(唐)からの自立を図るという、屈折したものだったのです。そしてその姿勢は、明治時代には列強(ヨーロッパ諸国)に、戦後はアメリカに置き換わる形で繰り返されます。(38~39頁)

 遣唐使の時代における日本と中国および朝鮮半島について、パワー・バランスの観点から捉え直している。つまり、唐と日本との冊封関係がありながらも、日本の朝廷としては日本を中心とした華夷秩序の形成という唐の政治体制を援用して唐からの自立を目指すという曲芸的な発想があったのではないか、という仮説である。さらに、こうした発想は、明治時代におけるイギリス・フランス・ドイツ等に引き継がれ、太平洋戦争後はアメリカに置き換わりながらも、形式は変わっていないのではないという興味深い主張がなされている。

 院政が始まった11世紀ころの日本社会は、朝廷による中央集権的な全国支配が機能不全に陥り、実力社会に移行しつつありました。それは、従来の法や慣例が通用しなくなったということです。自分の所領や財産は自分で守らなければなりません。
 中世とはつまり、そういう時代でした。そして、そこにこそ、院政が始まった要因も、武士が出現した要因も、やがて平氏や源氏が政権を奪取した要因もあったのです。(79頁)

 日本史を好んだ学ばれた方は、中世の始まりを源平の争乱の頃からとして記憶している方も多いだろうが、現在では白河上皇の院政期が中世の始まりと言われているそうだ。その理由として、京都の中央集権的な支配が難しくなり、院政の開始の頃から地方での実力社会への移行が始まったからであるとしているのである。

 実力社会に移行するなかで、上皇のような既存の枠組みに縛られない新たな秩序の建設者が求められました。そして、そうした上皇の下でこそ、武士(平氏)は政権を奪取することができたのです。(85頁)

 ここまで説明が進むとより理解することが容易くなるだろう。天皇の親という縁戚関係はありながらも、官位がないので公的な力は弱い。その力を補うために、武士を活用して、血縁と武力とで権力を握ったのが院政であり、そうした観点から、院政の始まりとともに中世が始まったと現在では考えられているのである。

 鎌倉後期から南北朝期にかけて、武家社会においても農村社会においても、従来の血縁的な結束が弱体化し、地縁的結合が形成される動きが見られました。
 鎌倉時代の武士は、惣領制という強い血縁的な紐帯の下にありました(中略)。しかし、その絆を保っていた分割相続の原則は、繰り返せば所領の細分化を招いてしまいます。鎌倉後期には、これに元寇の負担や貨幣経済の発達による支出の拡大などが重なって、武士は困窮していきました。
 そこで、分割相続から嫡子単独相続への移行が進み、その結果、惣領と庶子の対立が表面化して、血縁的な結束にほころびが生じたのです。(121頁)

 中世からさらに時代を経て、鎌倉後期の社会の描写である。ここに、中国における血縁重視の社会から、地縁重視という独特な社会観の始まりが見られる。地縁が重視される背景には、経済状況も関連することとなり、また家族制度も関連していたのである。


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