2016年5月7日土曜日

【第574回】『ユーロ消滅?』(ウルリッヒ・ベック、島村賢一訳、岩波書店、2013年)

 ギリシア危機や、域内の経済格差が喧伝されているEU。ヨーロッパにおけるリスクとはどのようなもので、ドイツはなぜヨーロッパの守護者となっているのであろうか。まずはリスクについての著者の考察を見てみよう。

 近代のリスク社会は、いわばそれ自体が非知と不可視性をもたらしている。それらに直面している私たちに方向性を示すために、今日では専門家集団が存在する。危機について見解を表明する経済学者たちは、確かに世界に見通しを与えるが、グローバルな金融市場の複雑性を奇妙な仕方で「資本の理解者」へと還元してしまう。彼らはセラピーで用いられるような、ある状態を示す用語を合理的な為替市場で使用される言語に取り入れることで、次のように市場の出来事を擬人化し、感情的なものにする。市場は「非常にナーバスになっている」、市場は「だまされない」、市場は「臆病である」、「不安である」、「パニックに陥った反応をしている」などの表現である。(17頁)

 多様なリスクから成る社会に見通しを与える専門家の存在は、リスクの種類と程度が増している現代社会においてより大きくなってきているようだ。起きている事象を理論的に解釈するだけではなく、そこに感情的な言葉遣いを入れるという指摘は興味深く、言われてみればそうであるが、なかなか気づかない視点である。

 ドイツ人の教育上の使命は今日、歴史から説明されている。つまり、第二次大戦後、軍事的にも、道義的にも決定的に破滅した時代に、共通の欧州という理念が生まれたのであった。このヴィジョンに活力を与えたのは当初、欧州全体の利害関心だったのではない。ドイツの近隣諸国がドイツを囲い込み、さらに血を流すことと新たな破壊を防ぐために戦争の欲望を抑えることに強い利害関心を持っていたために、活力が与えられたのである。(76頁)

 欧州の統合とは理念的に始められたものではない。第二次大戦時におけるファシスト国家であるドイツの再来を防ぐために、ドイツを封じ込めるための施策の一つであったと著者は指摘する。ドイツを含めた、当事者としての諸外国が共通する想いで、一つの欧州という概念を創り出そうとしたのである。

 ドイツ人は、時の経過と共に自らの教訓を学習した。彼らは民主主義の看板を背負うことになった。脱原発の看板も、緊縮の看板も、平和主義者の看板も背負うこととなった。彼らは、長くて時折困難な道を歩んできた。(中略)明らかなことはドイツが変わったということである。これまでのドイツの歴史に照らしてみると、現在がもっとも良いドイツであろう。(76頁)

 理想としての欧州の理念を内面化するべく、ドイツの人々は第二次大戦以降に努力を積み重ねてきた。価値観の内面化は、他者から見て分かりづらいものであるために、過剰にそれを入れ込む絶え間ない努力が求められる。少しずつそうした努力が形となって現れ、理念を体現する存在として認められるようになるのである。

 この背景から、多くのドイツ人の自意識において今日、自らは異常ではなく、正常でありたいと切望することが理解されよう。公的に罪を告白し続けてきた数十年の後、つまり半世紀以上「二度とナチズムを繰り返さない」ということを掲げてきた後、メディアや政治や世論において反対方向の運動が示されている。私たちは次のような新たな「二度とないように」のため息を耳にするのである。「二度と贖罪のレッテルを貼られなくてよいように」ということである。ドイツ人はもはや人種差別主義者や好戦的であるとは見なされてくないのである。彼らは自らを欧州の教師で、道義上の啓蒙家であると理解したいのである。(76~77頁)

 こうした価値観の内面化によって、ドイツをしてリスク社会としての欧州の守護者の位置に為らしめた。ドイツも他のヨーロッパ諸国も、ドイツをこのような存在に意識してさせたということではないだろうが、理想的な役割を徐々に担っていく中で現在の存在になることは必然とも言えよう。

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

0 件のコメント:

コメントを投稿