2014年8月31日日曜日

【第331回】『民俗学の旅』(宮本常一、講談社、1993年)

 なぜ民俗学へと導かれたのか。自身のライフワークへの想いを、端的に冒頭で述べて、本書は始まる。

 私は柳田国男、渋沢敬三の二人のすぐれた先生によって目をひらかれ、またその指導と庇護によって今日にいたったのであるが、二人の学者が私に目をとめて下さったのは幼少時における祖父母や父母や郷党たちから得た教訓や体験に対してであると思う。(4頁)

 偉大な師たちに対する尊敬の念と共に、そうした存在に至るまでの家族や同郷の知人たちに対する敬愛の念が同居する、美しく尊い感情である。自身の半生を振り返って、こうした言葉が出てくるような人生というものに憧れると同時に、著者のこうした想いが本書をより魅力的なものにしているようだ。

 著者は日本の各地を対象にしたフィールドワークによって民俗学を興した一人である。フィールドワークというと聞こえはよいが、端的に記せば、歩いて聴く、ということである。ではなぜ、著者は歩いて聴いて回ったのか。

 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。(38頁)

 まず、父から残された言葉を守った、という点が挙げられている。ここで引用したものは、父から著者へと残された十のメッセージのうちの最後の言葉である。焦ることなく、かつ他者が歩んだ道で残していったものを丹念に見て行くということはなかなか言えるものではない。しかし、そうしたものの中に光る何かがあるということもまた真実であろう。

 私自身にとって歩くというのはどういうことだったのか。歩くことが好きだったのである。歩いていていろいろのものを見、いろいろのことを考える。(中略)人にあえば挨拶をした。そのまま通りすぎる人もあるが、たいてい五分なり十分なり立ち話をしていく。それがたのしかった。その話というのはごくありふれた世間話であった。要するに人にあい話をすることが好きだったのだろう。同時にまた人の営みを見るのが好きだった。(76頁)

 歩くこと自体が好きであったということに加えて、人と会い、人と話し、人の生活を見る、ということが好きだったという。ここには、人という存在に対する興味関心の強さが現れているようだ。しかし、見ず知らずの人と話すためには、工夫が要ることは想像に難くない。著者はどのように対応していたのであろうか。

 私自身はよく調査にいくとか調査するとか、調査地などといっているけれども、実は正真正銘のところ教えてもらったのである。だから話を聞く時も「一つ教えて下さい。この土地のことについては(あるいはこの事柄については)私は全く素人なのですから、小学生に話すようなつもりで教えて下さい」と言って話を聞くのが普通であった。(169頁)

 聴く上での前提として、まず「調査する」ではなく「教えてもらう」というマインドセットであったという点が凄い。何を言うかよりもどういった心意気で言うかということの方が、聴き手に与える影響は大きいものだ。さらに、「素人に対して話すようなつもりで教えてもらう」という発言をできるところが、人が好きであり、戦中戦後の農村の復興を目指すという志の高さの現れであろう。

 次に、歩いて聴いて回ることによって、著者は何を成し遂げようとしたのか。また、その探究の方向性はどこにあったのか。

 「君は師範学校しか出ていないので満州はいっても決して条件はよくない。そこで大学へいくまでの間に日本を一通り歩いて見ておくと、それが実績にもなり、君自身の役にも立つのではないかと思うから無理に上京させた。ただ君には学者になってもらいたくない。学者はたくさんいる。しかし本当の学問が育つためにはよい学問的な資料が必要だ。その資料ーーとくに民俗学はその資料が乏しい。君はその発掘者になってもらいたい。こういう作業は苦労ばかり多くてむくわれることは少ない。しかし君はそれに耐えていける人だと思う。」と、先生は私を大阪から呼び出したことの意味について話された。(97頁)

 著者が師と仰ぐ二人の存在のうち渋沢敬三から言われたことである。前半については著者の人生やキャリアのことを思った発言である一方で、後半はともすると酷い言い様にも捉えられよう。しかし、私には、学問を探究する上で、非常に価値のあることを師は弟子に伝えようとしていたように思える。「事件は会議室で起きているのではない」というお決まりのフレーズを出すまでもなく、事件は現場で起きている。しかし、普く存在する事象の中から取りあげるべき事件を見出すことによってはじめて、解決の糸口というものは見えてくるものだ。そのためには、現場を見て回ることが必要であるとともに、たしかな観察眼も問われる。そうしたものを併せ持つ存在であるが故に、師は酷な師事を弟子に対して敢えて行なったのではないだろうか。

 「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまなければならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要をみとめられないときはだまってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」(98頁)

 渋沢敬三からさらにこのように言われたことが印象に残っていると著者はしている。現場をつぶさに見て回るという先の引用に加えて、他者の喜びを自身の喜びにするという至言が加えられていることに着目するべきであろう。現場で観察することは仕事であるとともに、そうした観察対象の生活に寄り添い、その喜びをもって自身の喜びにすることこそが、現場における研究者の理想であろう。

 かしこくなるということは物を考える力を持つことであると思う。物を考えるには考えるための材料がなければならぬ。それは周囲にあるものをよく理解し、同時に、もっと広い世界を知らなければならぬ。そしてまず自分の周囲をどのようにするかをお互いに考えるようにしなければならない。(148頁)

 自分自身の周囲を理解すること。そのためにもより広い視野を持つために他の地域における実情を理解すること。そうして自他を理解することによって、物を考える力を持つことによってかしこくなる。そうしたかしこい人物を見出していくことによって、人と人を結びつけることもまた、著者のフィールドワークの目的の一つだったのである。

 著者は、民俗学の探究の旅を振り返りながら、後進や若者に対してメッセージを送っている。

 テレビも新聞も見なければ時代おくれになるように考え勝ちだが、時代におくれるというのは創意工夫を失って物まねだけで行きてゆくことではなかろうか。(215頁)

 情報の受発信が容易になっている現代において、この言葉の持つ価値はより高まっているように思える。ともすると、最新の情報をたくさん知っていることに満足を覚えてしまい、ものを考えるということに億劫になってしまう。しかし、そうした行動の結果としては創意工夫のないモノマネだけになってしまい、自分自身の特異な価値というものが薄まってしまうという事態になりかねない。

 学問をするということも、人が人を信頼する関係をうちたてていくためであり、どのようにすれば安んじて生活していくことができるかを見つけていくためのものであると思う。そしてそういうことについて、私にできることは何であろうかと考えた。今も考えつづけている。ただ戦争反対、軍備反対と叫んだだけで戦争はなくなるものではない。一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいってもはっきりと自分の是とすることを主張し、話しあえるような自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。(147頁)

 学問をするということは、他者との信頼関係を創ることや社会全体の生活の向上のために行なうものである。当たり前のことではあるが、自覚的であることは重要であろう。単にスローガンのように何かを訴えるのではなく、自分自身の目の前にある役割を全うしながら、大きな目的に資するように行動することに自覚的でありたい。

 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくとも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。
 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。(234頁)

 私たちは進歩にばかり目を向けがちであるが、そうでない領域をも含めて幅広く眺めることが大事であろう。そうした幅広い視点を持つためには、主流で進歩しつづけた存在ではなく、傍流で様々な現場を眺めて来た存在こそが担える役割であると言えるだろう。

『忘れられた日本人』(宮本常一、岩波書店、1984年)

2014年8月30日土曜日

【第330回】『忘れられた日本人』(宮本常一、岩波書店、1984年)

 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。(中略)気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。(16~17頁)

 遠い異国の地での見聞を著者が記したものではない。日本の、対馬で著者がヒアリングした内容であり、ほんの百年前に行なわれていたことである。本書を読んで、いかに<日本>や<日本人>という概念の持つ意味合いをステレオタイプに捉えているか、思い知らされた。

 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主ー藩士ー百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。(19~20頁)

 納得のいくまで数日間にわたって行なわれる村寄りあい。それは、全国各地ということではないようではあるが、いわゆる士農工商という身分制度の枠外で行なわれていた所も多いというから興味深い。私たちが義務教育で学ぶ<日本>の歴史とは、例外が捨象された姿にすぎない。

 私もそこで一息いれて、こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。(24~25頁)

 民謡がなぜ歌われたのか、私にはよく分からなかった。しかし、ここで述べられている情景を想像してほしい。明かりがなく、通信手段もない社会において、自分の位置を伝え、他者とコミュニケーションを取るために、声を出し、歌を歌うことが、自然な手段となったのである。

 寄りあいを成り立たせるための一つの制度が隠居制度であると著者は述べる。

 さて年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通であるが、隠居制度はその起源や起因についてはここにしばらくおくとしても、これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。そういう村では、村共同の事業や一世作業がきわめて多かった。(54頁)

 近代的な家族制度をもとにした考え方からは想像が甚だ難しいわけであるが、中世の<日本>においては、村共同体をもととにした社会が多かった。そうした社会においては、血縁に基づいた関係性よりも地縁に基づいた関係性が重視された。したがって、家族単位における事業というよりも、村単位における事業が主流だったのであろう。このように考えれば、村における共同作業が多かったということは納得的である。

 そこで、この共同作業や公役をできるだけ少くするためには戸主としての地位を早く去る事である。隠居すれば公役や共同作業はつとめなくてよくなる。そこでできるだけ早く子に嫁をもらい、後を子にゆずって自分は家の仕事に精出す方法が生れた。(54頁)

 ここで着目したいのは、村共同体としての仕事がありきであり、そこを踏まえた上でいかにして家における仕事を行なう工夫をするか、という発想形態である。その形態の一つが、早く隠居して公的な仕事を行なわずに家庭における仕事に注力するというものである。こうして、戸主としての息子と、隠居としての父による役割分担がなされた。

 こうしたことを通じてみて、年よりの村の中でしめる位置がはっきりする。年よりは村の政治的な公役から早く手をひくが、祭礼行事などにはたずさわる。そういう意味でなお村の公につながっている。そしてまた村の寄りあいなどにも戸主にかわって出ていくことが多い。(55頁)

 村における公の仕事から身を引いているからこそ、三日も四日も時間を気にせずに行なわれる寄りあいに、戸主に代わって隠居が出るケースがあったのであろう。過去の経験や智慧が生きた時代において、年齢というものは寄りあいにおける話し合いにおいて有益であったに相違ない。

 その立場からみれば、村の公事から身をひいているのであるからすでに隠者的な存在であるけれども、公事の拘束がないということによってはなはだ自由であり、物の考え方にも拘束せられない何物かがあったのである。
 日本中世の文学が隠者によって保持せられて来たことと、村々の隠居制度には共通するものが多分にあると見られる。村においては隠居たちが文化伝承の役割をになっていたのである。(55頁)

 寄りあいだけではない。共同体における公的な仕事や役割という制約から離れているということは、既存のものの考え方からも自由であった。そうした自由な態度によって、分化の伝承を隠居が為してきたのである。

 女性の役割もまた、非常に興味深い。

 娘たちにとって旅はそうした見習いの場であったのだが、それは島の者の持っていない知識をもっている事をほこりにしたのである。そうしてその一つとして他郷の言葉を身につけることであった。(116頁)

 共同体における公的な仕事に従事しないのは何も隠居だけではない。女性、特に若い女性もそうした存在の一つである。彼女らは、見習い修行として時間を限って他の地域に働きに出かける風習をもつところがあったようだ。そうしたところでは、他地域での見聞や、そこでの暮らしによって自分の村とは異なる言葉遣いをすることを誇りにしていたと著者はしている。そうした個人としての感情とともに、ある村と他の村における交流をする上での大きな手段ともなっていたことは想像に難くない。

『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』(小熊英二、毎日新聞社、2011年)
『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)

2014年8月25日月曜日

【第329回】『どのような教育が「よい」教育か』(苫野一徳、講談社、2011年)

 「よい」教育などというものは存在しないのではないか。より積極的に言えば、「よい」教育という考え方が、一つの教育スタイルの押しつけとなり、悪い影響を及ぼすのではないか。以前はこのように考えていた。しかし、本書のタイトルを目にした時に、そうした考え方は必ずしも正しくないのではないか、とどこかで思っている自分に気づいた。さらに、こうした正面切ってのタイトルを冠した本書に興味を持った。

 絶対に「よい」「正しい」教育などはない。しかしかといって、教育学はこれまでのように、絶対に「よい」「正しい」教育など決してないのだ、ということを、ただ主張し続けるに止まっていてよいのだろうか。私たちはそれでもなお、「なるほど、確かに教育とはこのような営みだし、またこうした教育であれば<よい>といえるのではないか」と、できるだけ広く深い共通了解を得られるような教育の考え方(原理)を、提示することができるのではないか。(16頁)

 志の高さと教育に賭ける著者の想いが凝縮された宣言文である。宣言のすぐ後で、著者は、教育の本質について「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」(28頁)と端的に定義している。この定義をもとにして、とりわけ公教育について詳しく述べているのが以下の箇所である。

 私たちが<自由>になるためには、どうしても相応の<教養=力能>を獲得する必要がある。したがって諸個人の側から見れば、教育とは自らが<自由>になるための<教養=力能>育成を保障してくれるものである。他方この<教養=力能>の根幹をなすのは、<自由の相互承認>の理解、つまりその内在化である。したがって社会の側から見れば、諸個人の<教養=力能>を育成することが、同時に社会における<自由の相互承認>をより実質化することに結びつく。それゆえ教育の本質を洞察する際、私たちは、それが諸個人にとって持つ意味本質と、社会にとって持つ意味本質の、双方を併せ持った言葉を紡ぐ必要がある。(140頁)

 ここで注目したいは教養という概念である。私たちは日常的に、教養の大切さを目にすることが多い。しかし、教養という言葉は、ともするとビッグワードとして、つまり曖昧な概念として捉えられてしまい、主体間で認識が異なってしまうことも多いだろう。著者は以下のように定義付けをしている。

 教育が育成獲得を保障すべき<教養=力能>の本質をまとめておこう。それはまず、義務教育段階においては、1.重要な「諸基礎知識」、2.「学び(探究)の方法」、そして3.「相互承認の感度(ルール感覚)」である。これらをまとめて「共通基礎教養」と呼ぶとするならば、この教養を土台とした、より専門的、より探究的、そして自らにとってこそ重要な<教養=力能>が、「自らの教養」である。社会は、義務教育終了後におけるこの多様な「自らの教養」を育むことのできる教育機会もまた、より豊富に充実させていく必要がある。(161~162頁)

 この三つの要素からすると、他者との自由なコミュニケーションや相互交渉を実現するために必要なものが教養には求められると著者は捉えているようであることが分かる。こうした教養が現在の日本における義務教育過程で涵養されるようになっているかどうかを考えると、極めて厳しい印象がある。では、私たちの社会における求められる<よい>教育とはどのようなものなのか。

 方法としての「経験」は、それが方法である限り、目的や状況に応じて使い分ければいい一つの方法である。つまり、その時々の状況に応じて、できるだけ直接的な「経験」を活かした方が有効な時もあれば、逆に、言葉はあまりよくないが、教え込んだ方が有効な時もあるのである。要するに「経験」と「教え込み」は、決して対立し合うものではなく、むしろ相補的な教育方法なのである。(186頁)

 ともするとアウトプットとしての経験を重視しインプットとしての知識を軽視する現代の教育の潮流に著者は警鐘を鳴らす。つまり、「経験」と「教えこみ」とは相補的な関係であり、目的や状況に応じてとりうるべき有効な選択肢なのである。こうした考え方を目的・状況相関的方法選択(186頁)という言葉で表現し、経験重視・知識軽視の考え方をデューイの誤読であると以下のように喝破する。

 デューイは、決して、一切の「教え込み」を排し教育のすべてを直接的な経験に基づいて行うべきだと論じたわけではない。むしろデューイは、「経験」と「教え込み」が対立するものではないということを、再三にわたって強調していた。より正確にいえば、デューイにおける経験主義教育の要諦は、たとえ「教え込み」という方法を採るのであったにせよ、それは、それが子どもたちの「経験」にとって意味ある「経験」とならない限り無意味である、ということを主張することにあったのである。(180頁)

 目的・状況相関的方法選択を土台とした教育を担う主体は教師である。では、教師には何が求められているのであろうか。

 教師が多様であるからこそ、多様な子どもたちが自分に合った教師に出会える可能性も開かれる。子どもたちはあの先生好きだとか、あの先生嫌いだとか、あの先生すごい、面白い、怖い、暗い、かっこいい、変人、だとか、そうやって色んなタイプの大人と出会って成長していくのだ。(199頁)

 まず前提として、多様な教師という存在自体が子どもの成長にとって大事であると著者はしている。子どもは、<本当の自分>なるイデアを生まれる前から知っているわけでもないし、そもそもそうした静態的な人間観は現実的ではないだろう。自分自身がどういった存在であり、どのような可変性を持っているのかについて探究するためには、身近なロールモデルである教師との関係性が鍵となる。そうであればこそ、多様な子どもの鏡となり得る存在として多様な教師が重要なのである。しかし、単に多様性という言葉で全ての存在を是とするのではなく、多様な存在としての教師だからこそ、重要な条件があると著者は以下のように述べる。

 まさに多様な教師がいるべきであるからこそ、私は「よい」教師の条件として、いや、むしろこの点についてはすべての教師に望みたい資質として、最後に深い「自己了解」を挙げたいと思う。それはつまり、自らの感受性と価値観を、深く了解することである。(中略)
 学校空間には多様な教師がいるべきではあるが、それぞれの教師は、絶えず、自身が独りよがりな感情や価値観をもって子どもたちと向き合ってはいないか、自らを振り返り続ける必要がある。(199~200頁)

 一人ひとりの教師が、ユニークな存在としての自分自身に自覚的であること。自分自身を内省的に把握することが、子どもとの関係性構築や自身の教育のスタイル選択に有効なのであろう。このように考えれば、著者の警句は、なにも学校教育における文脈においてだけではなく、企業における上司と部下の関係および教育についても応用可能なものであることに気づく。多様な上司との関係性が、部下としての自分自身の多様性への気づきが促される。上司や教育主体は、自己了解を更新し続けることによって、部下やトレイニーへの自身の関与の特徴に自覚的であることが重要だ。

 こうした自己了解を求める著者の提言は、現在の教育体制や教師に対してだけではなく、著者自身にもブーメランのように向かってくる。むろん、著者もそれを了解しており、それを踏まえて最後に記している覚悟は、簡潔にして潔い。

 問い続けることが学問である、とよくいわれる。その通りだ.しかしそれは、学問の本質の、まだ半分をいい表したに過ぎない。もう半分の、そしてより重要な学問の本質がある。
 それは答えを出し続けることである。
 「よい」教育とは何か。本書で私は、この問いに一定の答えを出すことができたと思う。それは今後批判的に吟味検証される必要があるし、私自身もその努力を続けたい。しかし私はそれと同時に、まさにここを出発点に、あらゆる実践知と学知を持ち寄って、よりよい教育を構想していきたいと思う。
 そのための出発点に、本書がなりうるとすればこれ以上の喜びはない。(214頁)

2014年8月24日日曜日

【第328回】『情報の文明学』(梅棹忠夫、中央公論社、1988年)

 著者の書籍は含蓄に富んだものが多い。情報産業に焦点を当てて、いくつかの論考をまとめたものが本書である。では、情報産業とは何か。そこには第一次産業・第二次産業に続く第三次産業の特徴として見出される。

 この虚業意識が、なんらかの意味で実業に対する劣等感を内包しているとすれば、それはつまらないことである。まさに、実質的なもの、あるいは商品はあつかわれないというところに、情報産業の特徴があったのだ。その特徴あるがゆえに、情報産業は、すべての工業的物質生産および商品的商業をむこうにまわして、独自の存在であることを主張しえたのである。(40頁)

 商品として扱われないものを商品とするのが情報産業であると著者はしている。こうした情報産業は、第一次産業や第二次産業とどのような関係を有しているのであろうか。

 人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。(43頁)

 産業の進展を、生命の進化の過程と結びつけて著者は捉えている。ここで情報産業を形容している外胚葉という言葉が専門的にすぎるという批判に対して、著者は後の論考で解説を加えている。

 もっとも単純化していえば、内肺葉からは消化器官系がつくられ、中胚葉からは筋肉がつくられ、外胚葉からは脳神経系、感覚諸器官がつくられる。「情報産業論」では、この三肺葉の分化を、人類史における産業の発展の三段階に対応させているのである。すなわち、最初は消化器官系の機能充足をはかる食料生産が主となる。つぎに、筋肉系の機能の充足をはかる物質・エネルギーの生産が主力となる。最後に、脳神経系、感覚諸器官の機能充足をはかる情報の生産が主力となる、という議論なのである。(62~63頁)

 こうしたアナロジーをもとにすることで情報産業の本質が分かり、従来の産業との差異が明確になる。第一次産業や第二次産業が古くて必要性が減衰しているということではないことは、このアナロジーを見れば明らかだ。情報産業という新しい産業が生まれることによって、従来の産業の意味付けが変化し、新しい意味合いを持つようになるということが変化の本質であろう。

 では、「ものではない」ものにどのように価格を付けるのか。情報産業における価格の論理に関して、著者の舌鋒はさらに鋭くなり、お布施をもとにその特徴を述べている。

 お布施の額を決定する要因は、ふたつあるとおもう。ひとつは、坊さんの格である。えらい坊さんに対しては、たくさんだすのがふつうである。もうひとつは、檀家の格である。格式のたかい家、あるいは金もちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつかない。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるのではけっしてない。(49~50頁)

 極端な例で言えば、前者については、情報の出し手が社会的に評価が高い人であれば、その情報は高く売買され、その逆も然りということになるのであろう。後者では、情報を活用する側は、他者の目を気にしながら価格を決定しようとするということを指摘していると言えるだろう。いずれのケースにおいても、同じ情報であっても価格が異なるということである。

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中央公論社、1974年)

2014年8月23日土曜日

【第327回】『韓非子』(西野広祥+市川宏訳、徳間書店、2008年)

 中国の古典思想が面白い。ここ数年、そうした書物やその解説書を下手の横好きで読み続けている。まだ読めていなかった韓非子を、今回は取りあげる。まず、韓非子とはいったいどのような書物なのか。

 ーーひとりの人間が絶対的な権力者となるには、どうすればよいか。
 韓非はこれをテーマに、君主に訴えかけた。その答えは法(機構)の確立であり、その運営のための徹底した人事管理であった。これあってこそ、君主の個人的徳に頼らぬ「現代的」統治が可能となる。これが富国強兵を実現し、戦国の乱世を収束する唯一の道であると韓非は主張したのである。(33頁)

 乱世を治めて平和を実現する絶対的な権力者をいかに養成するか。こうした壮大なテーマをもって韓非子は創り上げられたと訳者は述べる。現代的なコンテクストで言えば、リーダーシップについて述べられた古典書と言えそうだ。

 韓非は荀子に師事したと言われる。ために、荀子の性悪説の影響をたぶんに受けている。しかし、両者の間では、同じ性悪説でも内容が異なるという。

 荀子は、人間本来の性質は悪であるからこそ教育して矯正していくべきだという。すなわち人間性は努力しだいでは、善に変えることができるのであり、またそうすべきだというのだ。
 この点になると、韓非はまったく見解を異にする。人間を善に導くことなどは、韓非の念頭にない。大切なのは、人間が現実に欲望によって動くことを知り、それに対策を講ずることだ。その対策が法術である。韓非の目的は、君主による人民の統治であって、人民の教化ではなかった。(73頁)

 荀子は、悪としての存在であるからこそ教育・開発していくという道を説いたのに対して、韓非は悪としての存在をもとにして統治という発想を説いた。リーダーにとっての部下や臣民の悪性を是正するのではなく、悪性を前提にして法に因る統治を一貫して説いたのである。

 中でも、君主が臣下をコントロールするために七つのポイントを指摘した七術について以下から取りあげたい。

 一、臣下のことばを事実と照合すること<参観>
 臣下のことばを聞いても、それを事実と照らし合わすことをしなければ、真実はつかめぬ。またひとりのことばだけを信用していると、君主の耳や目はふさがれてしまう。(361頁)

 徒に部下の言葉を鵜呑みにすることはいけない。むろん、信頼し信用することは大事であろうが、彼らの言葉を事実と照合することを怠ると、その報いは自分自身に対して起こることを覚悟する必要があるのだろう。

 二、法を犯した者は必ず罰して、威光を示すこと<必罰>
 愛情が多すぎると、法は成り立たず、威光をはたらかせないと、下の者が上の者を侵す。刑罰をきびしくしなければ、禁令は行きわたらない。(369~370頁)

 法による治世を貫徹するためには、ときに愛や情による想いとは異なる決断を下す必要がある。守るべきものを守る姿勢を示すことによって、組織に範を示すことが可能となる。

 三、功労者には必ず賞をあたえ、全能力を発揮させること<賞誉>
 賞が薄く、かつあてにならないならば、臣下は働こうとしない。賞が厚く、かつ確実に行なわれるならば、臣下は死をもいとわない。(372頁)

 ここにおける賞とは、現代の文脈で考えれば、なにも外的な報酬、つまりは給与や社会的ポジションといったものに限定する必要はないし、そうするべきではない。内的な報酬、たとえば次のチャレンジングな職務を与えることで、部下の欲求に訴えたり、部下への信頼を示すことで意欲を高めることは可能である。

 四、一人ひとりのことばに注意し、発言に責任を持たせること<一聴>
 一人ひとりのことばを個別に聞きわければ、臣下の有能無能の区別ができる。臣下の言に責任を持たせなければ、確実な比較はできない。(376頁)

 部下の一人ひとりに発言をしてもらうためには、発言できる環境をリーダーが整えることがまず大事であろう。そうした環境を整備することによって、責任を持った自発的な発言が出てくるのではないか。

 五、詭計を使うこと<詭使>
 たびたび面接しながら、しばらく登用しないでおけば、奸臣たちはさっさと退散する。臣下に対しては、思わぬことをたずねてみると、相手はごまかすことができなくなる。(378~379頁)

 意外なことを唐突に問われると、私たちは自分たちの発言を虚飾することが難しくなる。だからこそ、そうした質問を用いることによって、相手の本音を引き出すことができる。

 六、知らないふりをして相手を試すこと<挟智>
 知っていることでも知らないふりをしてたずねてみると、知らなかったことまでわかってくるものだ。ひとつのことを熟知すると、他のかくされていることが次つぎとわかってくる。(381頁)

 自分が知っていると思っていることは、あくまで自分自身の狭い視野の中のものでしかないことに自覚的であること。そうした意識で他者に尋ねることによって、思いもよらない意見が引き出させる。

 七、嘘やトリックを使って相手を試すこと<倒言>
 嘘やトリックを使って、相手の疑わしい点をためすと、かげの悪事がわかる。(382頁)

 ここまでしなければいけないとは思いたくないが、部下や組織のマネジメントという点でも、必要な観点の一つなのかもしれない。


2014年8月18日月曜日

【第326回】『考えるヒント2』(小林秀雄、文藝春秋、2007年)

 エッセイというものは、同じ著者のものであっても、はまるものとはまらないものとがあるようだ。本書の場合、「学問」というタイトルのエッセイが非常に面白かった。

 私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮ばぬし、進展もしない。(38頁)

 稀代の随筆家である著者をして、書いてみないと考えがまとまらない、と言わしめている。書くことによって、私たちは文字を見ることができ、見たものに刺激を受けて自分の考えがかたちになっていく。さらには、手を動かすこと自体が快感であり、そうした作業によって書き続けることを促進することにも繋がるのだろう。

 新興学問の雄は、皆読書の達人であった、と前に書いたが、これには今日の読書という通念からすれば異様なものがあるので、読書するとは、知識の収集ではなく、いかに生くべきかを工夫する事であった。(49頁)

 読書を知識や情報を収集するために行なうことはむしろ一般的と言えるだろう。しかし、江戸時代における新しい学問の創始者は、自分自身の生き方を工夫するために本を読んだ、と著者はしている。では、具体的に、どのように読んでいたのか。伊藤仁斎をもとに著者は述べる。

 仁斎の読書法では、文章の字義に拘泥せず、文章の語脈とか語勢とか呼ぶものを、先ず掴め、と教える。個々の動かぬ字義を、いくら集めても、文章の語脈語勢という運動が出来上るものではない。先ず、語脈の動きが、一挙に捕えられてこそ、区々の字義の正しい分析も可能なのだ。(50頁)

 内容を正しく理解するというのではなく、書かれているテクストの勢いを感じながら、全体を掴むことが重要だ、と仁斎は述べた。こうした全体の勢いや流れを理解することが、翻ってそれぞれの言葉の内容を正しく分析することができるとしている。

 この姿は、或る現実の人間の内的経験を象徴或は暗示しているものであり、これを「心目の間に瞭然たらしむる」心法を会得しなければ、真の古典批判は出来ぬ、と仁斎は考えた。心法が何処に書いてあるわけではなし、一ったん覚えたらそれでよいという性質のものではなし、得ては失い、失っては得て、論語を読むのに五十年もかかった次第であるが、大事なところは、今日、主観的とか客観的とかいう言葉は、まことに曖昧に使われているが、その凡その意味でも、彼の心法を主観的方法と片付けられない点である。(50頁)

 決められた読み方というものがあるのではない。一度読んで内容を理解したと認識しても、もう一度読み直して新たな理解を得る。そうした作業の繰り返しを、仁斎は心法と読んでいるのであろう。こうした仁斎を例にとった新しい学問の創始者の読書に対して、今日における読書とはどのようなものか。

 今日の学問は、書物の観察を主眼とし、精神的事実も、一応事物化してから仕事にかかる、という建前になっているが、そういう今日の学問の通念から離脱して見てみる事が、必要であろう。そういう通念を透して眺めたがるから、視線が屈折し、仁斎の学問の姿が、歪んで了う。(51頁)

 今日における読書は客観的な読み方をした上で、考察を加えるというプロセスを重視する。しかし、それでは既存の知識の収集や整理といったところに留まざるを得ないと言えよう。むろん、そうした読み方も、知識の習得という目的のためには適している。ただし、自分自身の人生や生き方を考え出すためには、著者が指摘するように、そうした読み方を離れて、仁斎のような読み方を試みることが有効だ。

 仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。(51~52頁)

 ここで著者が述べているのは、読書とは個人に閉ざしたものではなく、他者に対して開いたものであるという点である。お互いに学び合うということだけではなく、そうした交流自体が楽しみだとしている。こうした開かれた読書という点は、SNSが盛んな現代的な学びにも通ずると考えられるべきではなかろうか。



2014年8月17日日曜日

【第325回】『考えるヒント』(小林秀雄、文藝春秋、2004年)

 著者の舌鋒鋭いエッセイ集は、読んでいて心地が良い。

 現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実情ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無知蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。(16頁)

 1959年に書かれたエッセイであるが、現代の私たちをもはっとさせる文章である。専門分化は進み、私たちに求められる専門性は高度化するため、こうした動きに対応する必要はあるだろう。しかし、それと同時に、自分の専門性とは異なる幅広い領域をケアすることによって、視野を拡げることもまた、私たちにとって大事なことである。それが教養というものであろう。

 自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオンの感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。(48頁)

 自分を部外者の位置に置き、起こっている事象に対して傍観者として批評を加える存在は評論家として揶揄される。こうした傍観者としての有り様は、批判を受ける対象から逃れられるという旨味があるために、私たちは評論家という立ち位置に魅力をおぼえてしまうことがある。しかし、著者が鋭く指摘するように、傍観者ではなく当事者としての立ち位置に立って、苦闘しながら拙い表現を試みることが批評精神の発露なのであろう。

 歴史的意識は解放された意識である。何から解放されたか。昨日を思い、明日を目指し、二度と繰返せぬ一生を生きて育て上げた、誰も知っている歴史感情から解放された。そのような曖昧な個人的な主観性から解放された。歴史はもう他人事のようにしか書かれない。客観的と呼ばれている一種の優越感と侮辱とをもってしか書かれない。これも亦奇妙な現代的な自負であり、これが、歴史に現れる個性的人物というやっかいな問題を片附けて了う。偉人も愚人も、歴史的展望と呼ばれる機構の単なる部分品になる。(84頁)

 日本人の歴史意識を端的に指摘している箇所である。歴史を客観的な存在として把握するということは、積み上げられた現実から距離を置いて把捉することである。それは、無機質で現代を生きる自分とは関係のないものとして事実を位置づけることになる。こうした歴史に対する態度が、記憶としての歴史として捉える諸外国の方々と日本人との歴史認識に対する摩擦を生み出す土壌として存在しているように私には思える。

 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。(180頁)

 伝統とは、私たちが日常的に感じるものではないのだろう。<日本人>であれば、月見をはじめとした自然の現象に対するちょっとした感情を共有する感覚が、伝統というものを形成する何かなのであろう。このように考えれば、伝統とは、何かの主体が意識的に形成したり変化させたりするというものではなく、良くも悪くも中長期にわたって自然と形成されるものである。こうした文化を「生き物」と形容する著者の言語感覚には恐れ入る。

2014年8月16日土曜日

【第324回】『「このままでいいのか」と迷う君の明日を変える働き方』(金井壽宏、日本実業出版社、2014年)

 キャリアの理論を研究してきた者として、久しぶりに日本語のキャリアに関する書籍を読むというのは、新鮮な気持ちになり、自分の港に戻るような感覚になる。

 どんな仕事でも、制限がある中で楽しみを見出し、自分なりの個性を出すことができるのではないか。
 そしてその工夫と努力が、「つらいだけの仕事」から「面白くてやりがいのある仕事」に変化する糸口になるのではないか。そんなふうに考えることもできるのです。(31頁)

 仕事に好き嫌いがあるのはしかたがない。合わない上司もいるだろうし、付き合いたくない顧客もいるだろう。横やりが入らなければもっと自分の個性を出せるのにと愚痴を言いたくなるときもある。しかし、制限がなければ、一緒に働くメンバーを自由に決められれば、仕事が楽しくなるのであろうか。そうではなく、むしろ制約がある中で、工夫をこらし、努力を積み重ねることで、結果的に自分らしさを創り上げることができるのではないか、と著者はする。私には、こうした考え方に、キャリアをすすめていくしたたかな姿勢があるように思える。

 大事なことは、自分の「軸」が持てるかどうかだと思います。働き方は人それぞれですが、そこにはっきりとした「軸」があって、納得できているのであれば、それはその人にとって正しい働き方だといえるでしょう。(46頁)

 正しいキャリアというものは存在しない。人によって異なるし、人のキャリアステージやライフステージによって選択肢は異なるし、そうした選択肢が必ずしも一つに絞り込めるわけではない。したがって、仕事で自己実現を目指すものも、仕事をプライベートとを切り分けて仕事は仕事と割り切るというのも、それぞれ一つの軸であると著者は受容する。実際、以下のような言動をとるインタビュイーも、キャリアに関するしっかりとした軸を持っているとしている。

 彼女に「あなたにとっての仕事を、一言で表すと?」という質問をすると、「電球のようなもの」という答えが返ってきました。
 仕事を電球にたとえた理由は、「スイッチを入れるまでは、仕事は自分の人生にとってないも同然だから」だそうです。(38~39頁)

 非常にうまい喩えであると感服する。上述したように、こうした発言もキャリア観の一つの発露であると著者はしている。私も、著者のこのスタンスに賛成である。というのも、こうした発言を目にすることで、私はこうした仕事の捉え方をしないな、ということに気づかさせられるからである。他者の、キャリアに関する軸を見ることで、自分の軸に気づく。このように考えれば、キャリアというものは自分一人で考え続けるものではなく、他者と話しながら自分のキャリア意識を明らかにするということも大事なのだろう。

 ポジティブ心理学について、私は自分が尊敬する松岡正剛さんと対談していたときに、とても印象に残る反応をもらったことがあります。それは私が「経営学でもポジティブ心理学に注目されていますよ」と話したところ、正確な引用ではありませんが、「人の信念や暗いところまで見据えて考えずに、ポジティブな側面にばかり注目していると、能天気で底が浅い論考になりかねませんよ」という趣旨のご意見をいわれたのです。これは対談の記録には入っていませんが、確かに一理あると思います。(55頁)

 どのような事象でもポジティブに考えることで、ポジティブなエネルギーを生み出すようにする。こうした考え方が物事を前に進める上でプラスに作用することもたしかにあるだろう。しかし、松岡正剛さんの言葉として引用されているように、一見してネガティヴに捉えられる事象を深掘りすることで自分自身の価値観への気づきを得られることもあろう。さらに、著者は以下のように続ける。

 「やる気の自己調整」の研究からわかったことは、危機感もそれに押しつぶされなければ、がんばりを生み出すということです。ネガティブの中にポジティブなものを見出すこともできるし、最初はポジティブだったものが、いつしかネガティブなものに転化していくこともあります。(55~56頁)

 ネガティブな意識をもとにしてエネルギーを創り出すという反作用が生じることもある。さらにいえば、ネガティブとポジティブとはあくまで相対的なものである。したがって、両者を対立的に捉えるのではなく、自分自身の中にある多様な感情をそのままのかたちで受け容れるということの方がより現実的であり、ゆたかな選択と言えるのではないだろうか。

 最後に、自分自身のキャリアを考えることは重要であるが、それだけではなく、他者のキャリアについて考えることもまた、私たちにとって重要である。とりわけ、後輩や部下といったメンバーのキャリアについてケアすることは組織にとって、相手にとって大事なことであろう。

 入社してすぐに「やりたい仕事をやらせてもらえない」「イメージしていた仕事内容と違った」と不満をため込む前に、この加入儀礼にあたるものを自分はクリアできているか、考えてみてください。(121頁)

 若手社員であればあるほど、入社や配属直後に不満をため込むことが多いだろう。そうした若手社員が周囲にいる場合は、フェルドマンを引きながら著者が述べているように(120頁)、その相手が、集団への加入(グループ・イニシエーション)と仕事上の加入(タスク・イニシエーション)のどちらか、もしくは両者をクリアできているかどうかをチェックしてみたいものである。

『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)

2014年8月14日木曜日

【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 狂の精神を現実的に体現する高杉晋作のドラマが完結する本巻。当時においても早世と呼ばれる部類に入る年齢での死を迎える彼が、生きるということをどのように捉えていたのか。伊藤俊輔(後の博文)との問答の中に彼の死生観が垣間見える。

 「伊藤、生とは何か」
 と、このとき晋作はひどく哲学的なことをいっている。かれはかつて萩の政府員だった毛利登人にあてた手紙にも、同然のことを書いているが、その晋作自身の文章を借りると、
 生とは天の我れを労するなり。死とは天の乃ち我れを安んずるなり。
 ということになる。晋作にとっての生とは、天がその生に目的をあたえ、その目的のために労せしめるという過程であるにすぎず、死とは、天が彼に休息をあたえるというにすぎない、ということであった。(151頁)

 大戦略を描き、革命のためのステップを入念に描き出す彼をして、こうした言葉を言わしめる。自力と他力の高位均衡こそが、高杉晋作という日本における稀代の革命家を革命家たらしめたのであろう。続けて、創設して間もない奇兵隊のトップの座を後進に引き継ごうとする彼の発言に驚嘆する。

 「天は、人に役割をあたえている。わしの役割は、たとえば数カ月前、長府功山寺前の雪を蹴って下関に進撃し、藩役所を襲撃して長州の正気をふるいたたせた。ただあの一事で御役が御免になっている。そのあと絵堂・大田で快勝したのは、わしではない。わしに続いた者たちの役割であり、功績である。つまり一人の名をあげれば、山県狂介の功だ」(151~152頁)

 創業者としての天命を持っている自分への自負とともに、組織を持続させる者としての天命を持っていないという潔い感覚を併せ持っている。自分の才能と、自分の限界とを見極めることができるからこそ、自分自身としてのベストを尽くし、藩や新しい日本というかたちに貢献できるのであろう。尚、ここで挙げられている山県狂介とは日本陸軍の礎を築いた後の山県有朋であり、組織マネジメントに長けた人物であったことは間違いないだろう。

 おもしろき こともなき世を おもしろく(306頁)

 あまりにも有名な、高杉晋作の辞世である。上の句で終わっているところが、彼の志半ばでの早世を表しているようにも思える。若干、二十七歳と八ヶ月という生涯。彼の人生よりも数年長く生きている自分が何をできているのか、何に貢献ができているのか。日本は、彼が思い描いた状態とどの程度ギャップがあるのか。いろいろなことを考えさせられる作品である。


2014年8月13日水曜日

【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 吉田松陰から高杉晋作へと受け継がれる狂の精神。しかし、その意図する内容は、時代の変遷と関連して、二人で異なる。

 藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大鑑をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかの刀槍をふるっても、敵うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
 (ならねばならぬのだ)
 というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。(88~89頁)

 松陰が既存の江戸幕藩体制のもとで狂の思想を体現しようとしたのに対して、晋作は、狂という思想に基づいた現実的な大戦略を構想する。そのためには、幕藩体制を括弧に括り、愛する藩を犠牲にするという断腸の思いに基づいた戦略構想を練っている。いたずらに思想に殉じようとするのではなく、犠牲精神や現実志向や主義主張といった様々な自分の中の観念を統合した、いわば偉大な起業家のような驚くべき発想である。上で引用した箇所に続けて、大戦略をアクションへと落とす具体的な方策を晋作は講じている。

 敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに縋ろうとするにちがいない。
 (事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
 と、晋作はおもっている。それまでは、藩は敗戦の連続になる(いまは連戦連勝だが)にちがにない。そういう敗軍のときに出れば、敗戦の責めをひっかぶる役になり、人々は晋作を救世主とはおもわなくなるだろう。ひとに救世主と思わせなければ何事もできないことを、晋作はよく知っていた。(89頁)

 どのタイミングで藩の中心人物として登場するか、というところまで入念に考えている。ここで大事なのは流れや方向性の仮説を見通している点であり、個別具体的なアクションまでは定義していないという点であろう。(事後的な表現とはなるが)幕末という変化に富んだ時代においては、方向性というやや抽象度の高いレベルでの仮説検証が重要であったのだろう。

 松陰も自分を、
 「狂」
 と規定し、狂でありつづけようとした。晋作はその「狂」の思想をひきつぎ、松陰が言いつづけたように狂のみが至誠至純の行動をつなぬきうると信じた。狂の思想家は自分の人生を自分でやぶらねばならない。松陰は、そのために刑死した。晋作もそのために死ぬことを念願としてきた。
 が、その時代がおわった。集団の時代がきた。集団というものの生物的整理が発狂状態へ騰るとき、個々の「狂者」などはない。狂であるための個人的危険性もなかった。発狂状態のなかにいればかえって安全であった。(中略)すでにそれは狂の栄光を背負った思想者としての行動ではなく、集団のもつ生理現象のようなものであった。(138頁)

 松陰が個人で狂を体現しようとしたのに対して、晋作は集団で体現しようとした。正確には、公的な藩令に基づきながらも奇兵隊という狂の集団を創り上げ、集団として動ける素地を自分の手で用意したのである。こうした、大戦略の構想、抽象度を残したアクションの方向性の提示、それらを共有した集団の構築、といった点は、現代のビジネスにも通じる含蓄に富んだあり方ではないだろうか。

 しかし、こうした晋作が革命しようとした長州藩の有り様は、良くも悪くも満州事変から太平洋戦争へと至る日本の精神へと堕しかねない要素も含んでいる。

 われわれは日本人ーーことにその奇妙さと聡明さとその情念ーーを知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩ーーつまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩ーーが、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とはなにものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。(158頁)

 一つの思想に殉じること、そうした思想に基づいた方向性に集団として感染し易いこと。これらは担ぎ上げられた思想が善であれば問題がないのであろうが、それが誤っていても無批判に染まってしまうために集団として問題を起こしてしまう。思想が中心であり、人物が集団の中心に存在しないために責任を問うことができず、事後における反省も充分に為されない。こうした問題点を私たちは深い部分に内包しているということに自覚的であることは重要であろう。

 井上らは、やぶれた。
 次いでこの藩の藩主と重臣たちがとった手段は、その後の日本において繰りかえしおこなわれるようになった事柄にきわめて似ていた。藩主以下重臣たちは井上のいうことがよくわかっていながら、三十日には、
 「攘夷をあくまで断行する。決戦の覚悟肝要なるべき事」
 という大布告が発せられた。発した政治の当為者はこの大布告の内容をもはや信じてはいない。しかしこれを出さねば、井上帰国によっておこった藩内の疑惑と同様と沸騰がしずまらないのである。国際環境よりもむしろ国内環境の調整のほうが、日本人統御にとって必要であった。このことはその七十七年後、世界を相手の大戦争をはじめたときのそれとそっくりの情況であった。これが政治的緊張期の日本人集団の自然律のようなものであるとすれば、今後もおこるであろう。(181~182頁)

 下関での攘夷活動の後に起こる四カ国戦争の直前に、そうした諸外国の動きを外遊先および横浜で掴んだ、後の井上馨の死を賭した建議を入れなかった藩の行動。これは、恐ろしいほどに、私たちが先の戦争の過程で体験した軍部や行政機関の意思決定を見ているようである。とりわけ、著者が最後の一文に記した警句を、私は肝に銘じておきたい。


2014年8月12日火曜日

【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 引き続き、前半では吉田松陰に焦点が当たりながら、次第に高杉晋作へとこの小説の主人公は移行して行くのが、この第二巻である。

 「余はむしろ、人を信ずるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」
 かれはその「失点」の上にひらきなおってそのような自分をつくりあげてきた。人を信ずる以上、相手に見さかいがあってはならない。ついには幕府の取調役人までを信じてしまい、訊かれもしていない自分の罪状を大いにのべてしまうあたり、もはやこの若者が常人であるのかどうか、うたがわしくなってくる。(156~157頁)

 松陰が死罪になる際の幕吏とのやり取りを、著者はこのように総括する。狂に生き、狂に死ぬ。憧れはするものの、こうした生き方は私にはできない。今の時点ではこのように思っている。

 「僕は去年の冬以来、死というものが大いにわかった。死は好むべきものにあらず、同時に悪むべきものでもない。やるだけのことをやったあと心が安んずるものだが、そこがすなわち死所だ、ということである。さらにいまの私の心境は決して不朽の見込みあらばいつでも死んでいい。生きて大業の見込みあらばいつでも行くべし」(163~164頁)

 狂に生きるとは、徒に死を求めるということではない。やるべきことをやったら、あとは生き死には関係がないという死生観は現実的であり、それと同時にやることはやるという強い自負でもある。

 その松陰が、死んだ。松陰が死んでやっと三月しか経たず、時代情況も変っていないのに、その志の継承者をもって任ずる晋作は、松陰の死から出発した。かれは無造作に飛躍し、
 (幕府など、倒してしまうべきだ)
 と、感情として思い、論理によらずして決意するにいたっている。継承というもののふしぎさというべきものかもしれない。(196頁)

 松陰が刑死し、その倒幕の思想は、理論付けがないにも関わらず高杉晋作へと継承される。この小説の主人公も松陰から晋作へと移るのであるが、松陰の思想が晋作を、そして長州藩を死した後も影響を与えることとなる。では、なにが晋作をして幕末の活動家として表舞台へ導いたのか。

 思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者であろう)が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるにはそれを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は、体質なのである。松陰が「久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質を見ぬいたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。
 が、高杉晋作という人物のおかしさは、かれが狂信徒の体質をまるでもっていなかったことである。(中略)
 晋作は思想的体質でなく、直感力にすぐれた現実家なのである。現実家は思想家とちがい、現実を無理なく見る。思想家はつねに思想に酩酊していなけれならないが、現実家はつねに醒めている。というより思想というアルコールに酔えないたちなのである。(199~200頁)

 狂に生きる思想家としての松陰を継いだのが久坂玄瑞であり、現実家として引き継いだのが高杉晋作であった、と著者は対比的に論じている。狂という意識を継ぎながらも、狂を醒めながら実践する。思想というアルコールのような存在に酔えずに、現実的に生きるという姿勢に、感銘を受ける。

 ーーおれに一体、なにができるのか。
 という、自問することすらおそろしい課題についてである。というより、自分は何事もこの世で為すことのない不能の人物ではないかというおそれと不安と懐疑とが、晋作を、叫びだしたいような心境にさせている。(215頁)

 狂心的な思想に酔える性質の人々は持たないであろう、現実家ならではの苦悩の発露と言えるだろう。現実的に対応できるというのは、現実に合わせるということと近いように一見思える。したがって、現実ばかりを見ていて、自分自身の内奥にある想いがないのではないか、という悩みを持つことになる。特に、周囲にそうした狂信的な存在がいれば、そうした悩みは大きくなる。松陰のもとで、玄瑞とともに学ぶという環境を考えれば、現実家である晋作の悩みは想像に難くない。しかし、現実家であったからこそ、明治維新へと繋がる革命を起こす推進力となった。

 「攘夷。あくまで攘夷だ」
 といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。開国は、上海を見ればもはや常識であった。しかし常識からは革命の異常エネルギーはおこってこないのである。(294~295頁)

 晋作は、攘夷という思想に狂うのではなく、狂信的な勢いを持てる攘夷という思想を革命のエネルギーに変えるという冷静な戦略を構想していた。現実家であるからこそ、狂を手段として用いるという構想ができたのであろう。

 この男は、上海から帰ってきて早々、日本革命の大戦略をたてた。その大戦略の基本には、
 ーー長州藩はほろんでもいい。
 という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。(300~301頁)

 まず前提として、高杉晋作は長州藩、とりわけ藩主に対する忠誠心が非常に強い人物である。藩主に近い位置で代々仕えてきた高杉家の矜持を多分に引き継いだ存在なのである。そうであるにも関わらず、愛着が人一倍強い長州藩をつぶしてでも、革命を起こそうという大戦略を構想していたというのだから、現実家と言えども単なる現実迎合派ではない。狂を現実に落とし込むという類い稀な戦略家であったと言えるだろう。

『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2014年8月11日月曜日

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 いわゆる幕末期における歴史小説は何冊か読んできた。それらは、薩摩、土佐、幕府側に焦点を当てたものばかりであり、長州は何をやらかすか分からない危険因子としての印象しかなかった。第一巻では吉田松陰が主に描かれる。

 「大器をつくるにはいそぐべからざること」
 松陰の生涯の持説である。「速成では大きな人物はできない。大器は晩く成る」と、松陰はいう。(41頁)

 決して長い人生を歩んだわけではない松陰が大器晩成を説いているというのは意外な心持ちもするが、非常に勇気づけられる発言である。

 古に仿えば今に通ぜず
 雅を択べば俗に諧わず
 その意味は、
 「古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる。また、格調の正しい学問ばかりやっていると、実際の世界のうごきにうとくなる」
 ということであり、これは松陰がかねておもっていたことをみごとに定則化したものであると思い、膝を打つおもいで感嘆した。松陰がおもうに、学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり、もしくは専門馬鹿、または役たたずの物知りにすぎず、おのれを天下に役だてようとする者は、よろしく風のあらい世間に出てなまの現実をみなければならない。(73頁)

 魏源による「聖武記附録」の一節に松陰が感動をおぼえたシーンである。こうした二つの相剋関係は、現代でいえば理論と実践というものが該当するだろう。両者を均衡させようという意識が強すぎてしまうと、低位均衡になってしまいがちだ。そうではなく、相矛盾するものをどちらも極めようとすることで、高位均衡の実現や新しい発想へと至れるのではないだろうか。

 自分は謹直なたちでそうはいかなかったが、それだけに、物事に熱中し、ついに人生そのものを入れあげてしまうような節斎の生活態度にあこがれるところがあり、そのことを松陰の用語でいえば、
 「狂」
 であった。松陰は、狂がすきであった。人間の価値の基準を、狂であるか狂でないか、そういうところに置くくせが松陰にはあった。(233~234頁)

 著者が、佐久間象山との対比で吉田松陰を描いている。なにか一つのものに人生じたいをコミットさせることを狂という表現で著している。松陰にとってそれは、勤王攘夷であり、そうした思想を藩という単位でコミットさせたのが長州藩の特異な特徴であろう。

 松陰はこの時期、気づいていなかったが、かれの無意識の志向やら性格やらは、専門技術を習得したり、それに熱中したりすることにはまったくむいていなかったらしい。(中略)
 頭では重要であるとおもいながら、気持のなかでは、魚河岸の隠語や符牒をおぼえているようで無意味のようにおもわれ、自分が志向している方角に対して直線的にはむすびつかないようにおもえる。
 要するに、この時期の松陰自身は気づかなかったが、専門者でなく総合者であるようだった。そのするどい総合感覚からあらゆる知識を組織し、そこから法則、原理、もしくは思想、あるいは自分の行動基準をひきだそうとした。(270~271頁)

 松陰と同じだとは言えない。しかし、彼の考え方にはとても共感ができる。細かな暗記や作業の繰り返しは飽きてしまう。そうではなく、自分が持っている様々な知識や経験を統合させ、そこから自分の現状に合った最適解を創り出す。松陰のようにありたいものである。

2014年8月10日日曜日

【第319回】『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)

 社会学を学んできた、と私自身は思っていた。しかし、本書を読まずして、社会学を学んだと言ってよいものだったのであろうか。社会学の大家による社会学を基礎から定義づける本書は、興味深く読むとともに反省させられる一冊であった。

 「社会学」という言葉は、非常に多くの意味で用いられているが、本書においては、社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学を指す。そして、「行為」とは、単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動を指し、活動が外的であろうと、内的であろうと、放置であろうと、我慢であろうと、それは問うところではない。しかし、「社会的」行為という場合は、単数或いは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為を指す。(8頁)

 この定義の中で、「説明」という言葉が使われている。著者がこの言葉に用いている定義付けが興味深い。

 行為の意味を研究する科学にとっては、「説明」とは、その主観的に考えられた意味から見て、直接に理解され得る行為を含むところの意味連関を把握することにほかならない。(16頁)

 社会学的な研究において、なんらかの事象を説明するということは、複数の行為の間に介在する意味の関連性を把握するということである、と著者はする。そうした意味連関の一つには因果関係が挙げられるだろう。

 或る具体的行為の正しい因果的解釈というのは、外的過程や動機が的確に認識されるだけでなく、同時に、その連関の意味が理解されるように認識されることである。類型的行為(理解可能な行為類型)の正しい因果的解釈というのは、類型的と思われる過程が或る程度まで意味適合的に見えると同時に、或る程度まで因果適合的と認め得る場合である。(20頁)

 意味の連関が認識されると共に、外的過程や動機が認識されることが因果的解釈には求められる。では、そもそもこうした社会学が想定する社会的関係とは何か。

 社会的「関係」とは、意味内容が相互に相手を目指し、それによって方向を与えられた多数者の行動のことを指す。従って、社会的関係というのは、偏えに、意味の明らかな方法で社会的行為が行なわれる可能性ということであって、この可能性が何に基づくかは、差当っては問題でない。(42頁)

 ここでも意味連関が要素として挙げられ、そうした意味がお互いに影響を与え合う複数人間の関係が社会的関係であるとしている。社会的関係がこうした定義となれば、企業における経営も社会的関係として捉えることは想像に難くないだろう。

 「経営」とは、或る種の永続的な目的的行為を指し、「経営団体」とは、永続的な目的的行為を営む行政スタッフを有する利益社会関係を指す。(85頁)

 行政という言葉が出てくるところが、現代における企業の経営とは異なる考え方であろう。しかし、ここで私たちが刮目したいのは、経営とは「永続的な目的的行為」であり、経営団体は「永続的な目的的行為を営む」組織であるという点である。私たちは、私企業における経営を時に営利を絶対的な目的として捉えてしまう現代の潮流を括弧に括るためにも、著者のこの指摘に改めて目を向けるべきであろう。


2014年8月9日土曜日

【第318回】『愛国・革命・民主』(三谷博、筑摩書房、2013年)

 本書は、日本の歴史、とりわけ江戸末期から明治へと至る過程におけるナショナリズムの高揚と近代化に焦点を当てて、その一般化を試みる意欲作である。まず、アイデンティティとナショナリズムとの関係性を論じた興味深い部分の引用からはじめよう。

 アイデンティティというものは、元来は、我々がよく想定しがちなように、「私は私だ」という形で固定されているのではありません。むしろ、我々はたくさんの「私」を無意識のうちに切り替えながら暮らしているのです。
 ところが、この瞬時に切り替わる流動的なアイデンティティが、その文脈を抜けだして、固定された、いわばモノとして我々を拘束しているかのように見えることがあります。
 その典型例が、実は「国民」というアイデンティティなのです。(33~34頁)

 アイデンティティが多様な他者との複数の関係性からなる「私」の統合体であるという考え方はジンメル(『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年))をはじめとした社会学者の著書を読めば明らかだろう。そうした複数のアイデンティティの中において、ナショナル・アイデンティティ、つまりはナショナリズムのみが固着化し切り替わらない特徴を有していると著者は言う。これは興味深い指摘であり、実感知としても納得的である。

 日本における近代以降のナショナリズムの源泉には、江戸時代からの識字率の高さが指摘されることが多い。しかし、中国を見れば分かるように、識字率がたとえ高くても、地域における言語の差異が大きければ、同じ<国民>同士であってもコミュニケーションを取ることは難しい。日本ではなぜ、地域の細かな差はあれども、遠く離れた人々がコミュニケーションを取れたのであろうか。

 村芝居の分布は意識的に日本人という枠組みをつくったわけではありません。しかし、無意識のうちに遠隔地に住む人々が共通の文化要素を共有するようになり、特に話し言葉を理解できるようになった。日本という想像力を担う都の言葉を、あちこちに暮らす地方人、それも読み書きのできるお金持ちだけでなく、庶民までがある程度は分かるようになっていた可能性があるわけです。いざ必要となると、話を交わし、直ちに協同行動に入れるような基礎条件が生まれ、それが同時に日本の外部との境界をつくっていたということです。(62頁)

 コミュニケーションを行なう上での基礎となる口語について、村芝居という形態が広い地域に伝播していることによって共有されていた。ベネディクト・アンダーソンが述べるように、私たちは言語を共有することによって「想像の共同体」を自然に無意識に創り上げる。日本においては、西洋における活版印刷術によって各言語に翻訳された聖書が国境を創り上げたのと同じ作用を、村芝居がもたらした。

 さらに、ナショナリズムを構成するためには、<外>との境界が必要となる。<外>に対する境界を創り上げるのには、鎖国という制度が寄与したことは想像に難くないだろう。しかし私たち現代の日本人が習うのとは異なり、鎖国という現象は家光の時代に完成した事象ではなく、松平定信の時代に完成したと著者はする。さらに、定信が完成させた鎖国へと至る歴史的経緯が、幕末における当初の排外的な姿勢を生み出したと述べる。

 定信が外国は一般的に来てはいけないと決めてしまったために、幕末に大問題になった。その後、一九世紀前半の日本人は、事件が起きる度に世界から孤立してゆく道を選んでゆきました。そして、この「鎖国」はほんの少し前に定信が決めたことだったのに、徳川家康が決めたことだと思い込むようになりました。我々は、江戸時代初めからずっと閉じ籠もってきたのだと思い込んだのです。
 ペリーはこの狭く、硬直した部分を直撃しました。軍事的圧力をかけて、外からこじ開けようとした。これは武士にとって許し難い侮辱です。戦士が最も不名誉な形で付き合いを強要された。拒絶するに足る軍事力がないのが分かっていたので、仕方なく付き合わざるをえなかったのですが、国内には強烈な屈辱感が生まれた。ご存じのように、それが徳川幕府が権威を失う重要な出発点になりました。(212頁)

 家光は交易可能な国家を限定しただけであり、それを外国全般との交易を禁止したのが定信であり、その意思決定を以て鎖国が完成した、と著者はしているのである。外国全般とのやり取りを自ら制限しているという意識があった当時の日本人、特に武士層にとって、武力を以て開国を逼られたのが屈辱に感じられたのは容易に想像できよう。

 幕末の日本には、ナショナリズムが成立するためのいろいろな条件が熟しており、そこにペリーが来た。いわば過飽和溶液ができていたところに、外から小さな刺激が加わった。小さな種が放り込まれて、あっという間にナショナリズムが結晶してゆく。(64頁)

 <内>における言語の共有と、鎖国による<外>との境界線の明確化という二つの条件がある中で、ペリーという外からの刺激によって日本におけるナショナリズムが誕生した。こうした日本における現象は、ヨーロッパにおけるナショナリズム発生と共通する部分があると著者は述べる。

 一般化すると、文明の中心にはナショナリズムが起きにくい、むしろそれは周辺部から始まるという傾向が指摘できます。中心部は最後です。もう一つ例を挙げると、オスマン帝国では、周辺部のエジプト、ギリシア、さらにセルビアが独立してゆき、二〇世紀の初めに帝国が解体する頃になってようやく、トルコ人のトルコをつくろうという青年トルコ党が出現する。中国でナショナリズムの出現が遅かったのもオスマン帝国によく似ていると思います。(106頁)

 中心ではなく周辺からナショナリズムは起こり易い。東アジアで考えれば、なぜ中国ではなく日本でナショナリズムが高揚する時期が早かったのか、を説明する上で説得的な一つの仮説と言えるだろう。


2014年8月8日金曜日

【第317回】Michael B. Arthur Denise M. Rousseau et al, “The Boundaryless Career”

This book has already been one of the established classics about life and career. In the introduction, Michael B. Arthur and Denise M. Rousseau explain the meaning of boundaryless career.

The boundaryless career does not characterize any single career form, but, rather, a range of possible forms that defies traditional employment assumptions. Accordingly, the term boundaryless distinguishes our concept from the previous one -- the “bounded,” or organizational, career. (kindle ver No. 78)

The old typed career was “bounded” in the organization which an employee belongs to. Of course, there were many career changes before 1990s, many employees didn’t think their career across companies. On the other hand, new career which was seen after 1990s has not been “bounded”. Whether we like it or not, we have to be faced on the boundaryless career in order to seek for our career opportunities.

It is said that the boundaryless career was born in Silicon Valley. In chapter 2, Annalee Saxenian explains it precisely. The viewpoint from individuals is cited as below.

The region’s engineers developed loyalties to each other and to advancing technology, rather than to individual firms or even industries. In the words of the cofounder of LSI Logic: “Here in Silicon Valley there’s far greater loyalty to one’s craft than to one’s company. A company is just a vehicle which allows you to work. If you’re a circuit designer it’s morst important for you to do excellent work. If you can’t in one firm, you’ll move on to another one.” (kindle ver No. 450)

It is necessary for employees to seek for their boundaryless career in Silicon Valley. And also, such boundaryless career is important for Silicon Valley to be enriched as a labor market. Then, it is beneficial for the companies to take boundaryless career policy.

The blurring of the boundaries between firms provides a regional advantage for Silicon Valley. Open labor markets allow individuals and firms to experiment and to learn by continually recombining local knowledge, skills, and technology. And the resilience of the regional economy suggests that the learning advantages of open labor markets -- when embedded in a rich fabric of social relationships -- outweigh their costs. Silicon Valley’s professional networks minimize the search and switching costs incurred by high rates of interfirm mobility. (kindle ver No. 597)

What is recommended in this new coming situation? Karl E. Weick tells us one of the assumptions in chapter 3.

Career success comes to be defined in terms of things like amount of learning accumulated; meaningfulness of continuities constructed; ability to create and manage organizing; comfort in returning to the novice role over and over; ability to explicate what had previously been known only tacitly; tolerance for fragmentary experience; skill in making sense of fragments retrospectively in ways that help others make sense of their fragments; willingness to improvise, and skill at doing so; persistence; compassion for others struggling with the uncertainties of a boundaryless life; and durable faith that actions will have made sense, even though that sense is currently not evident. People skilled in these ways are likely to find a series of challenging projects that, when strung together, simulate traditional advancement. (kindle ver No. 886)

It is also important for us to think about what Philip H. Mirvis and Douglas T. Hall suggest in chapter 14.

The practical and psychological benefits of seeing careers in terms of repeated developmental cycles could be substantial. (kindle ver No. 3725)
Clearly, it will be important to study how and when people learn to adapt to change in a career marked by several cycles. (kindle ver No. 3745)
The boundaryless career challenges people to make sense of and integrate many more stimuli and experiences into their sense of self. (kindle ver No. 3783)

2014年8月4日月曜日

【第316回】『職業としての学問』(マックス・ウェーバー著、尾高邦雄訳、岩波書店、1936年)

 学問を職業として選ぶということはどういうことか。本書は、社会学の大家が晩年にそのテーマについて語った講演録である。

 いやしくも学問を自分の天職と考える青年は、かれの使命が一種の二重性をもつことを知っているべきである。というのは、かれは学者としての資格ばかりでなく、教師としての資格をももつべきだからである。このふたつの資格は、けっしてつねに合致するものではない。(18頁)

 研究を行なうことと、教えること。研究をすすめることで新しい成果を教えることができるようになる。他者に教えることで、自分自身の研究への着想が生まれる。このように両者は相互に影響を与え合うものではあるが、それぞれに求められる能力はいささか異なる。ために、学問を職業とするためには、両者が求められるという著者の指摘は、心しておくべきことであろう。

 作業と情熱とがーーそしてとくにこの両者が合体することによってーー思いつきをさそいだすのである。だが、思いつきはいわばその欲するときにあらわれる。それはわれわれの意のままにはならない。(中略)とにかくそれは、人が机に向かって穿鑿や探究に余念ないようなときにではなく、むしろ人がそれを期待していないようなときに、突如としてあらわれるのである。とはいえ、こうした穿鑿や探究を怠っているときや、なにか熱中する問題をもっていないようなときにも、思いつきは出てこない。(25頁)

 どのようなときに着想が生まれるのか。ここでは、アンビバレントな、しかし現実の一側面を掬いとるような指摘がなされている。結局は着想が生まれるのは運であるという現実が示唆されつつも、その運が来た時に掴むためには、なにかに熱中したり探究を進めているという前提条件が必要なのである。

 自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広く見られる現象であるが、然しその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落すのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。(28~29頁)

 学問であれ何であれ、自分で為したことを誇大に捉えることを私たちはしてしまうことがある。成果を出すために、浅薄な個性とありきたりの体験とを重視することを著者は強く否定する。虚栄心をなくし、仕事に集中すること。

 学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(30頁)

 学問を職業とすることは厳しい現実を受け容れることである。一つの成果を出したとしても、それは新たな成果を自身を含めた誰かが見出すための手段となる。自身の成果による自身への還元を第一に考えるのではなく、社会への還元作用に喜びを見出すことが、学問を職業とすることなのであろう。


2014年8月3日日曜日

【第315回】『活躍する組織人の探究』(中原淳/溝上慎一編、東京大学出版会、2014年)

 学生時代の経験と社会人になってからの経験との間にはどのような関係があるのか。本書は、こうしたリサーチ・クエスチョンに基づいて行なわれた調査に関する考察をまとめた学術書である。変数があまりに多い事象の間の関係性を導出しようとしているため、クリアな結論が出ているわけではない。しかし、学生や企業に対して、必要なアクションを提示するためのたしかな一歩を踏み出す、意欲作とは言えるだろう。

 その中でも、立教大学の舘野泰一助教による第6章「入社・初期キャリア形成期の探究:「大学時代の人間関係」と「企業への組織適応」を中心に」が印象的であった。以下からはその論文について考えさせられた点について触れてみたい。

 本章で得られた知見から考えるに、大学時代に「異質な他者」とつながる行為は、一種のプロアクティブ行動とよぶことができると考えられる。現在の日本の大学は、同質性が比較的高いコミュニティだと考えられる。そのなかで、自分の成長に影響を与えてくれる「異質な他者」と出会うためには、受け身的に大学生活を過ごすのではなく、積極的に人間関係を構築する行動をする必要があると考えられる。大学時代に、異質な他者とつながる行動が取れるものは、入社後もプロアクティブ行動をおこなうことで、不確実性を減少させることができ、スムーズな組織社会化を達成すると推測できるのではないだろうか。(131~132頁)

 同質性の高い日本の大学という環境下において、異質な他者とコミュニケーションをとろうとする行動は、多様性の高い企業において求められるそうした行動の予期的行動となる。対話の重要性が昨今では言われることが多いが、柄谷行人氏が『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)で述べるように、対話とは既知の存在と忌憚なく話し合うということではなく、異質な存在との話し合いである。そうした訓練を学生のうちに行なえるかどうか、は石山恒貴氏の『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』(石山恒貴、日本生産性本部、2013年)にもあるような越境学習による成長とも関連する。

 本章の成果は、企業の採用担当者にとって意義のある知見であると考えられる。なぜなら、「人間関係の構築」や「コミュニケーション」に関わることは、採用時に重視される項目だからである。(中略)採用において「コミュニケーション能力」を重視することは方向性としては間違っていないと考えられる。(133~134頁)

 採用担当者が読んだら喜ぶ箇所であろう。人事の採用担当者が新卒採用で重視する項目が、入社後の活躍度合いと相関していると著者はしているのである。ただし、大きな方向性として間違いがないという示唆の後で、的確かつ実践的な示唆を以下で述べている。

 ただし、そこで指すコミュニケーション能力の中身について考える必要がある。組織適応という視点から考え、本章の知見をもとに検討すると「文脈を共有しない異質な他者とコミュニケーションができること」が重要であると考えられる。自分とは所属や立場が異なる人と、積極的に人間関係を構築できることは、入社してからもプロアクティブ行動をおこなうことで、組織適応における不確実性を減少できる可能性がある。(134頁)

 単に仲の良い仲間や閉じた環境の中におけるコミュニケーションが長けているかどうかを見極めれば良いのではない。異質な他者とのコミュニケーションを仕掛けられているかどうか、が入社後のプロアクティブ行動の出現率と関係するのである。したがって採用担当者は、そうしたプロアクティブなコミュニケーション行動の質について、インタビューをすることが有用であろう。

2014年8月2日土曜日

【第314回】Number858「真夏の絆。」(文藝春秋、2014年)

 甲子園を特集した本号。同い年の松坂大輔が巻頭を飾るのであれば、買わない手はない。横浜高校が春夏連覇を果した年は、私は高校三年生であり、とにかく集中して勉強をした。今思い返せば、どうしても行きたい大学・学部を目指す自分自身を、甲子園での優勝を目指す彼らに投影したかったのかもしれない。

 まずは、その松坂と桑田との対談から。私にとって、桑田はプロになってからのイメージが強く、PLでの桑田に関する記憶はない。しかし、この対談記事を読んで、二人の天才の感性に魅了された。特に興味深かったのが、集中力に関する相反する反応だ。

桑田 僕はビンチになると、広く全体を見ていたのがスーッと一点にフォーカスしていける感じだったな。スッと寄っていくとき、音もピシャーンと切れる。
松坂 僕は逆ですね。僕は集中すると、何でも聞こえるようになるんです。
桑田 へーっ、おもしろいな。
松坂 だから相手の応援歌もよく聞こえるのかもしれません。集中すればするほど、よく聞こえてくるんです。(21頁)

 集中すると自分の世界だかにフォーカスされるのか、それとも俯瞰して全体を見られるようになるのか。ともすると、私たちはどちらかに意識を傾けてしまうが、ここで大事なのは、人によって集中したときの感覚が異なることである。さらに大事なのは、そうした自分を集中させるルーティンに自覚的になることで、厳しい場面でも自分自身を目の前の事象に対して集中させることができるということであろう。

松坂 僕はマウンドの上でよく相手の応援歌を口ずさんでました。PLの応援歌とか好きだったんで、ピンチになって向こうが盛り上がると、僕も一緒になって盛り上がってました。(21頁)

 松坂の凄みに唸らされるのは、意識を集中させて全体が見えるようなピンチの状態において、相手の応援歌を口ずさんで自分自身を鼓舞していることである。相手の力を自分の力に変えて、自分自身を集中させてベストを尽くすということが習慣化されているのであろう。

「頂点を極めた人というのは挫折に弱いと聞いたことがあるんですけど、アイツが凄いのは、挫折してもそれで終わらないところだと思うんです。挫折しても弱いところを見せないし、どん底からでも這い上がってくる。僕もケガに泣かされて、もうダメだと烙印を押されて、それでも這い上がってきたという自負がある。それは、僕は他の誰よりも、這い上がってきた松坂の影響を受けているからなんです。昔もすごかったけど、僕は今の松坂が一番強いと思ってます」(25頁)

 横浜高校の同級生であり、現在でも唯一の現役のプロ野球選手である後藤武敏による松坂評である。挫折から、這い上がる。頂点を極めた存在がそうした苦しみの中から蘇生することは難しいように一般的には捉えられるものだが、果たしてそうであろうか。逆境の中でこそ真価は問われるものであり、そうした状況化で愚直に自己を動機付け、新しい自分の可能性を見出せるからこそ、プロフェッショナルなのではないだろうか。