著者の舌鋒鋭いエッセイ集は、読んでいて心地が良い。
現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実情ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無知蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。(16頁)
1959年に書かれたエッセイであるが、現代の私たちをもはっとさせる文章である。専門分化は進み、私たちに求められる専門性は高度化するため、こうした動きに対応する必要はあるだろう。しかし、それと同時に、自分の専門性とは異なる幅広い領域をケアすることによって、視野を拡げることもまた、私たちにとって大事なことである。それが教養というものであろう。
自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオンの感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。(48頁)
自分を部外者の位置に置き、起こっている事象に対して傍観者として批評を加える存在は評論家として揶揄される。こうした傍観者としての有り様は、批判を受ける対象から逃れられるという旨味があるために、私たちは評論家という立ち位置に魅力をおぼえてしまうことがある。しかし、著者が鋭く指摘するように、傍観者ではなく当事者としての立ち位置に立って、苦闘しながら拙い表現を試みることが批評精神の発露なのであろう。
歴史的意識は解放された意識である。何から解放されたか。昨日を思い、明日を目指し、二度と繰返せぬ一生を生きて育て上げた、誰も知っている歴史感情から解放された。そのような曖昧な個人的な主観性から解放された。歴史はもう他人事のようにしか書かれない。客観的と呼ばれている一種の優越感と侮辱とをもってしか書かれない。これも亦奇妙な現代的な自負であり、これが、歴史に現れる個性的人物というやっかいな問題を片附けて了う。偉人も愚人も、歴史的展望と呼ばれる機構の単なる部分品になる。(84頁)
日本人の歴史意識を端的に指摘している箇所である。歴史を客観的な存在として把握するということは、積み上げられた現実から距離を置いて把捉することである。それは、無機質で現代を生きる自分とは関係のないものとして事実を位置づけることになる。こうした歴史に対する態度が、記憶としての歴史として捉える諸外国の方々と日本人との歴史認識に対する摩擦を生み出す土壌として存在しているように私には思える。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。(180頁)
伝統とは、私たちが日常的に感じるものではないのだろう。<日本人>であれば、月見をはじめとした自然の現象に対するちょっとした感情を共有する感覚が、伝統というものを形成する何かなのであろう。このように考えれば、伝統とは、何かの主体が意識的に形成したり変化させたりするというものではなく、良くも悪くも中長期にわたって自然と形成されるものである。こうした文化を「生き物」と形容する著者の言語感覚には恐れ入る。
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