私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。(中略)気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。(16~17頁)
遠い異国の地での見聞を著者が記したものではない。日本の、対馬で著者がヒアリングした内容であり、ほんの百年前に行なわれていたことである。本書を読んで、いかに<日本>や<日本人>という概念の持つ意味合いをステレオタイプに捉えているか、思い知らされた。
日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主ー藩士ー百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。(19~20頁)
納得のいくまで数日間にわたって行なわれる村寄りあい。それは、全国各地ということではないようではあるが、いわゆる士農工商という身分制度の枠外で行なわれていた所も多いというから興味深い。私たちが義務教育で学ぶ<日本>の歴史とは、例外が捨象された姿にすぎない。
私もそこで一息いれて、こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。(24~25頁)
民謡がなぜ歌われたのか、私にはよく分からなかった。しかし、ここで述べられている情景を想像してほしい。明かりがなく、通信手段もない社会において、自分の位置を伝え、他者とコミュニケーションを取るために、声を出し、歌を歌うことが、自然な手段となったのである。
寄りあいを成り立たせるための一つの制度が隠居制度であると著者は述べる。
さて年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通であるが、隠居制度はその起源や起因についてはここにしばらくおくとしても、これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。そういう村では、村共同の事業や一世作業がきわめて多かった。(54頁)
近代的な家族制度をもとにした考え方からは想像が甚だ難しいわけであるが、中世の<日本>においては、村共同体をもととにした社会が多かった。そうした社会においては、血縁に基づいた関係性よりも地縁に基づいた関係性が重視された。したがって、家族単位における事業というよりも、村単位における事業が主流だったのであろう。このように考えれば、村における共同作業が多かったということは納得的である。
そこで、この共同作業や公役をできるだけ少くするためには戸主としての地位を早く去る事である。隠居すれば公役や共同作業はつとめなくてよくなる。そこでできるだけ早く子に嫁をもらい、後を子にゆずって自分は家の仕事に精出す方法が生れた。(54頁)
ここで着目したいのは、村共同体としての仕事がありきであり、そこを踏まえた上でいかにして家における仕事を行なう工夫をするか、という発想形態である。その形態の一つが、早く隠居して公的な仕事を行なわずに家庭における仕事に注力するというものである。こうして、戸主としての息子と、隠居としての父による役割分担がなされた。
こうしたことを通じてみて、年よりの村の中でしめる位置がはっきりする。年よりは村の政治的な公役から早く手をひくが、祭礼行事などにはたずさわる。そういう意味でなお村の公につながっている。そしてまた村の寄りあいなどにも戸主にかわって出ていくことが多い。(55頁)
村における公の仕事から身を引いているからこそ、三日も四日も時間を気にせずに行なわれる寄りあいに、戸主に代わって隠居が出るケースがあったのであろう。過去の経験や智慧が生きた時代において、年齢というものは寄りあいにおける話し合いにおいて有益であったに相違ない。
その立場からみれば、村の公事から身をひいているのであるからすでに隠者的な存在であるけれども、公事の拘束がないということによってはなはだ自由であり、物の考え方にも拘束せられない何物かがあったのである。
日本中世の文学が隠者によって保持せられて来たことと、村々の隠居制度には共通するものが多分にあると見られる。村においては隠居たちが文化伝承の役割をになっていたのである。(55頁)
寄りあいだけではない。共同体における公的な仕事や役割という制約から離れているということは、既存のものの考え方からも自由であった。そうした自由な態度によって、分化の伝承を隠居が為してきたのである。
女性の役割もまた、非常に興味深い。
娘たちにとって旅はそうした見習いの場であったのだが、それは島の者の持っていない知識をもっている事をほこりにしたのである。そうしてその一つとして他郷の言葉を身につけることであった。(116頁)
共同体における公的な仕事に従事しないのは何も隠居だけではない。女性、特に若い女性もそうした存在の一つである。彼女らは、見習い修行として時間を限って他の地域に働きに出かける風習をもつところがあったようだ。そうしたところでは、他地域での見聞や、そこでの暮らしによって自分の村とは異なる言葉遣いをすることを誇りにしていたと著者はしている。そうした個人としての感情とともに、ある村と他の村における交流をする上での大きな手段ともなっていたことは想像に難くない。
『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
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