2014年8月4日月曜日

【第316回】『職業としての学問』(マックス・ウェーバー著、尾高邦雄訳、岩波書店、1936年)

 学問を職業として選ぶということはどういうことか。本書は、社会学の大家が晩年にそのテーマについて語った講演録である。

 いやしくも学問を自分の天職と考える青年は、かれの使命が一種の二重性をもつことを知っているべきである。というのは、かれは学者としての資格ばかりでなく、教師としての資格をももつべきだからである。このふたつの資格は、けっしてつねに合致するものではない。(18頁)

 研究を行なうことと、教えること。研究をすすめることで新しい成果を教えることができるようになる。他者に教えることで、自分自身の研究への着想が生まれる。このように両者は相互に影響を与え合うものではあるが、それぞれに求められる能力はいささか異なる。ために、学問を職業とするためには、両者が求められるという著者の指摘は、心しておくべきことであろう。

 作業と情熱とがーーそしてとくにこの両者が合体することによってーー思いつきをさそいだすのである。だが、思いつきはいわばその欲するときにあらわれる。それはわれわれの意のままにはならない。(中略)とにかくそれは、人が机に向かって穿鑿や探究に余念ないようなときにではなく、むしろ人がそれを期待していないようなときに、突如としてあらわれるのである。とはいえ、こうした穿鑿や探究を怠っているときや、なにか熱中する問題をもっていないようなときにも、思いつきは出てこない。(25頁)

 どのようなときに着想が生まれるのか。ここでは、アンビバレントな、しかし現実の一側面を掬いとるような指摘がなされている。結局は着想が生まれるのは運であるという現実が示唆されつつも、その運が来た時に掴むためには、なにかに熱中したり探究を進めているという前提条件が必要なのである。

 自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広く見られる現象であるが、然しその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落すのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。(28~29頁)

 学問であれ何であれ、自分で為したことを誇大に捉えることを私たちはしてしまうことがある。成果を出すために、浅薄な個性とありきたりの体験とを重視することを著者は強く否定する。虚栄心をなくし、仕事に集中すること。

 学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(30頁)

 学問を職業とすることは厳しい現実を受け容れることである。一つの成果を出したとしても、それは新たな成果を自身を含めた誰かが見出すための手段となる。自身の成果による自身への還元を第一に考えるのではなく、社会への還元作用に喜びを見出すことが、学問を職業とすることなのであろう。


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