「よい」教育などというものは存在しないのではないか。より積極的に言えば、「よい」教育という考え方が、一つの教育スタイルの押しつけとなり、悪い影響を及ぼすのではないか。以前はこのように考えていた。しかし、本書のタイトルを目にした時に、そうした考え方は必ずしも正しくないのではないか、とどこかで思っている自分に気づいた。さらに、こうした正面切ってのタイトルを冠した本書に興味を持った。
絶対に「よい」「正しい」教育などはない。しかしかといって、教育学はこれまでのように、絶対に「よい」「正しい」教育など決してないのだ、ということを、ただ主張し続けるに止まっていてよいのだろうか。私たちはそれでもなお、「なるほど、確かに教育とはこのような営みだし、またこうした教育であれば<よい>といえるのではないか」と、できるだけ広く深い共通了解を得られるような教育の考え方(原理)を、提示することができるのではないか。(16頁)
志の高さと教育に賭ける著者の想いが凝縮された宣言文である。宣言のすぐ後で、著者は、教育の本質について「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」(28頁)と端的に定義している。この定義をもとにして、とりわけ公教育について詳しく述べているのが以下の箇所である。
私たちが<自由>になるためには、どうしても相応の<教養=力能>を獲得する必要がある。したがって諸個人の側から見れば、教育とは自らが<自由>になるための<教養=力能>育成を保障してくれるものである。他方この<教養=力能>の根幹をなすのは、<自由の相互承認>の理解、つまりその内在化である。したがって社会の側から見れば、諸個人の<教養=力能>を育成することが、同時に社会における<自由の相互承認>をより実質化することに結びつく。それゆえ教育の本質を洞察する際、私たちは、それが諸個人にとって持つ意味本質と、社会にとって持つ意味本質の、双方を併せ持った言葉を紡ぐ必要がある。(140頁)
ここで注目したいは教養という概念である。私たちは日常的に、教養の大切さを目にすることが多い。しかし、教養という言葉は、ともするとビッグワードとして、つまり曖昧な概念として捉えられてしまい、主体間で認識が異なってしまうことも多いだろう。著者は以下のように定義付けをしている。
教育が育成獲得を保障すべき<教養=力能>の本質をまとめておこう。それはまず、義務教育段階においては、1.重要な「諸基礎知識」、2.「学び(探究)の方法」、そして3.「相互承認の感度(ルール感覚)」である。これらをまとめて「共通基礎教養」と呼ぶとするならば、この教養を土台とした、より専門的、より探究的、そして自らにとってこそ重要な<教養=力能>が、「自らの教養」である。社会は、義務教育終了後におけるこの多様な「自らの教養」を育むことのできる教育機会もまた、より豊富に充実させていく必要がある。(161~162頁)
この三つの要素からすると、他者との自由なコミュニケーションや相互交渉を実現するために必要なものが教養には求められると著者は捉えているようであることが分かる。こうした教養が現在の日本における義務教育過程で涵養されるようになっているかどうかを考えると、極めて厳しい印象がある。では、私たちの社会における求められる<よい>教育とはどのようなものなのか。
方法としての「経験」は、それが方法である限り、目的や状況に応じて使い分ければいい一つの方法である。つまり、その時々の状況に応じて、できるだけ直接的な「経験」を活かした方が有効な時もあれば、逆に、言葉はあまりよくないが、教え込んだ方が有効な時もあるのである。要するに「経験」と「教え込み」は、決して対立し合うものではなく、むしろ相補的な教育方法なのである。(186頁)
ともするとアウトプットとしての経験を重視しインプットとしての知識を軽視する現代の教育の潮流に著者は警鐘を鳴らす。つまり、「経験」と「教えこみ」とは相補的な関係であり、目的や状況に応じてとりうるべき有効な選択肢なのである。こうした考え方を目的・状況相関的方法選択(186頁)という言葉で表現し、経験重視・知識軽視の考え方をデューイの誤読であると以下のように喝破する。
デューイは、決して、一切の「教え込み」を排し教育のすべてを直接的な経験に基づいて行うべきだと論じたわけではない。むしろデューイは、「経験」と「教え込み」が対立するものではないということを、再三にわたって強調していた。より正確にいえば、デューイにおける経験主義教育の要諦は、たとえ「教え込み」という方法を採るのであったにせよ、それは、それが子どもたちの「経験」にとって意味ある「経験」とならない限り無意味である、ということを主張することにあったのである。(180頁)
目的・状況相関的方法選択を土台とした教育を担う主体は教師である。では、教師には何が求められているのであろうか。
教師が多様であるからこそ、多様な子どもたちが自分に合った教師に出会える可能性も開かれる。子どもたちはあの先生好きだとか、あの先生嫌いだとか、あの先生すごい、面白い、怖い、暗い、かっこいい、変人、だとか、そうやって色んなタイプの大人と出会って成長していくのだ。(199頁)
まず前提として、多様な教師という存在自体が子どもの成長にとって大事であると著者はしている。子どもは、<本当の自分>なるイデアを生まれる前から知っているわけでもないし、そもそもそうした静態的な人間観は現実的ではないだろう。自分自身がどういった存在であり、どのような可変性を持っているのかについて探究するためには、身近なロールモデルである教師との関係性が鍵となる。そうであればこそ、多様な子どもの鏡となり得る存在として多様な教師が重要なのである。しかし、単に多様性という言葉で全ての存在を是とするのではなく、多様な存在としての教師だからこそ、重要な条件があると著者は以下のように述べる。
まさに多様な教師がいるべきであるからこそ、私は「よい」教師の条件として、いや、むしろこの点についてはすべての教師に望みたい資質として、最後に深い「自己了解」を挙げたいと思う。それはつまり、自らの感受性と価値観を、深く了解することである。(中略)
学校空間には多様な教師がいるべきではあるが、それぞれの教師は、絶えず、自身が独りよがりな感情や価値観をもって子どもたちと向き合ってはいないか、自らを振り返り続ける必要がある。(199~200頁)
一人ひとりの教師が、ユニークな存在としての自分自身に自覚的であること。自分自身を内省的に把握することが、子どもとの関係性構築や自身の教育のスタイル選択に有効なのであろう。このように考えれば、著者の警句は、なにも学校教育における文脈においてだけではなく、企業における上司と部下の関係および教育についても応用可能なものであることに気づく。多様な上司との関係性が、部下としての自分自身の多様性への気づきが促される。上司や教育主体は、自己了解を更新し続けることによって、部下やトレイニーへの自身の関与の特徴に自覚的であることが重要だ。
こうした自己了解を求める著者の提言は、現在の教育体制や教師に対してだけではなく、著者自身にもブーメランのように向かってくる。むろん、著者もそれを了解しており、それを踏まえて最後に記している覚悟は、簡潔にして潔い。
問い続けることが学問である、とよくいわれる。その通りだ.しかしそれは、学問の本質の、まだ半分をいい表したに過ぎない。もう半分の、そしてより重要な学問の本質がある。
それは答えを出し続けることである。
「よい」教育とは何か。本書で私は、この問いに一定の答えを出すことができたと思う。それは今後批判的に吟味検証される必要があるし、私自身もその努力を続けたい。しかし私はそれと同時に、まさにここを出発点に、あらゆる実践知と学知を持ち寄って、よりよい教育を構想していきたいと思う。
そのための出発点に、本書がなりうるとすればこれ以上の喜びはない。(214頁)
『新編 教えるということ』(大村はま、筑摩書房、1996年)
『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)
『活動理論と教育実践の創造』(山住勝広、関西大学出版部、2004年)
『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』(苅宿俊文ら編著、東京大学出版会、2012年)
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