2014年8月31日日曜日

【第331回】『民俗学の旅』(宮本常一、講談社、1993年)

 なぜ民俗学へと導かれたのか。自身のライフワークへの想いを、端的に冒頭で述べて、本書は始まる。

 私は柳田国男、渋沢敬三の二人のすぐれた先生によって目をひらかれ、またその指導と庇護によって今日にいたったのであるが、二人の学者が私に目をとめて下さったのは幼少時における祖父母や父母や郷党たちから得た教訓や体験に対してであると思う。(4頁)

 偉大な師たちに対する尊敬の念と共に、そうした存在に至るまでの家族や同郷の知人たちに対する敬愛の念が同居する、美しく尊い感情である。自身の半生を振り返って、こうした言葉が出てくるような人生というものに憧れると同時に、著者のこうした想いが本書をより魅力的なものにしているようだ。

 著者は日本の各地を対象にしたフィールドワークによって民俗学を興した一人である。フィールドワークというと聞こえはよいが、端的に記せば、歩いて聴く、ということである。ではなぜ、著者は歩いて聴いて回ったのか。

 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。(38頁)

 まず、父から残された言葉を守った、という点が挙げられている。ここで引用したものは、父から著者へと残された十のメッセージのうちの最後の言葉である。焦ることなく、かつ他者が歩んだ道で残していったものを丹念に見て行くということはなかなか言えるものではない。しかし、そうしたものの中に光る何かがあるということもまた真実であろう。

 私自身にとって歩くというのはどういうことだったのか。歩くことが好きだったのである。歩いていていろいろのものを見、いろいろのことを考える。(中略)人にあえば挨拶をした。そのまま通りすぎる人もあるが、たいてい五分なり十分なり立ち話をしていく。それがたのしかった。その話というのはごくありふれた世間話であった。要するに人にあい話をすることが好きだったのだろう。同時にまた人の営みを見るのが好きだった。(76頁)

 歩くこと自体が好きであったということに加えて、人と会い、人と話し、人の生活を見る、ということが好きだったという。ここには、人という存在に対する興味関心の強さが現れているようだ。しかし、見ず知らずの人と話すためには、工夫が要ることは想像に難くない。著者はどのように対応していたのであろうか。

 私自身はよく調査にいくとか調査するとか、調査地などといっているけれども、実は正真正銘のところ教えてもらったのである。だから話を聞く時も「一つ教えて下さい。この土地のことについては(あるいはこの事柄については)私は全く素人なのですから、小学生に話すようなつもりで教えて下さい」と言って話を聞くのが普通であった。(169頁)

 聴く上での前提として、まず「調査する」ではなく「教えてもらう」というマインドセットであったという点が凄い。何を言うかよりもどういった心意気で言うかということの方が、聴き手に与える影響は大きいものだ。さらに、「素人に対して話すようなつもりで教えてもらう」という発言をできるところが、人が好きであり、戦中戦後の農村の復興を目指すという志の高さの現れであろう。

 次に、歩いて聴いて回ることによって、著者は何を成し遂げようとしたのか。また、その探究の方向性はどこにあったのか。

 「君は師範学校しか出ていないので満州はいっても決して条件はよくない。そこで大学へいくまでの間に日本を一通り歩いて見ておくと、それが実績にもなり、君自身の役にも立つのではないかと思うから無理に上京させた。ただ君には学者になってもらいたくない。学者はたくさんいる。しかし本当の学問が育つためにはよい学問的な資料が必要だ。その資料ーーとくに民俗学はその資料が乏しい。君はその発掘者になってもらいたい。こういう作業は苦労ばかり多くてむくわれることは少ない。しかし君はそれに耐えていける人だと思う。」と、先生は私を大阪から呼び出したことの意味について話された。(97頁)

 著者が師と仰ぐ二人の存在のうち渋沢敬三から言われたことである。前半については著者の人生やキャリアのことを思った発言である一方で、後半はともすると酷い言い様にも捉えられよう。しかし、私には、学問を探究する上で、非常に価値のあることを師は弟子に伝えようとしていたように思える。「事件は会議室で起きているのではない」というお決まりのフレーズを出すまでもなく、事件は現場で起きている。しかし、普く存在する事象の中から取りあげるべき事件を見出すことによってはじめて、解決の糸口というものは見えてくるものだ。そのためには、現場を見て回ることが必要であるとともに、たしかな観察眼も問われる。そうしたものを併せ持つ存在であるが故に、師は酷な師事を弟子に対して敢えて行なったのではないだろうか。

 「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまなければならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要をみとめられないときはだまってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」(98頁)

 渋沢敬三からさらにこのように言われたことが印象に残っていると著者はしている。現場をつぶさに見て回るという先の引用に加えて、他者の喜びを自身の喜びにするという至言が加えられていることに着目するべきであろう。現場で観察することは仕事であるとともに、そうした観察対象の生活に寄り添い、その喜びをもって自身の喜びにすることこそが、現場における研究者の理想であろう。

 かしこくなるということは物を考える力を持つことであると思う。物を考えるには考えるための材料がなければならぬ。それは周囲にあるものをよく理解し、同時に、もっと広い世界を知らなければならぬ。そしてまず自分の周囲をどのようにするかをお互いに考えるようにしなければならない。(148頁)

 自分自身の周囲を理解すること。そのためにもより広い視野を持つために他の地域における実情を理解すること。そうして自他を理解することによって、物を考える力を持つことによってかしこくなる。そうしたかしこい人物を見出していくことによって、人と人を結びつけることもまた、著者のフィールドワークの目的の一つだったのである。

 著者は、民俗学の探究の旅を振り返りながら、後進や若者に対してメッセージを送っている。

 テレビも新聞も見なければ時代おくれになるように考え勝ちだが、時代におくれるというのは創意工夫を失って物まねだけで行きてゆくことではなかろうか。(215頁)

 情報の受発信が容易になっている現代において、この言葉の持つ価値はより高まっているように思える。ともすると、最新の情報をたくさん知っていることに満足を覚えてしまい、ものを考えるということに億劫になってしまう。しかし、そうした行動の結果としては創意工夫のないモノマネだけになってしまい、自分自身の特異な価値というものが薄まってしまうという事態になりかねない。

 学問をするということも、人が人を信頼する関係をうちたてていくためであり、どのようにすれば安んじて生活していくことができるかを見つけていくためのものであると思う。そしてそういうことについて、私にできることは何であろうかと考えた。今も考えつづけている。ただ戦争反対、軍備反対と叫んだだけで戦争はなくなるものではない。一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいってもはっきりと自分の是とすることを主張し、話しあえるような自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。(147頁)

 学問をするということは、他者との信頼関係を創ることや社会全体の生活の向上のために行なうものである。当たり前のことではあるが、自覚的であることは重要であろう。単にスローガンのように何かを訴えるのではなく、自分自身の目の前にある役割を全うしながら、大きな目的に資するように行動することに自覚的でありたい。

 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくとも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。
 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。(234頁)

 私たちは進歩にばかり目を向けがちであるが、そうでない領域をも含めて幅広く眺めることが大事であろう。そうした幅広い視点を持つためには、主流で進歩しつづけた存在ではなく、傍流で様々な現場を眺めて来た存在こそが担える役割であると言えるだろう。

『忘れられた日本人』(宮本常一、岩波書店、1984年)

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