2014年9月1日月曜日

【第332回】『勝負哲学』(岡田武史・羽生善治、サンマーク出版、2011年)

 サッカーと将棋。全く異なる領域で活躍してきたプロフェッショナルであっても、共通するものはあるものだ。両者ともに、異なる人物との対談を読んだことがあり、対談を通じて両者の暗黙知を形式知にする名手であることを知悉していた。そのため、期待して本書を読みはじめたところ、その期待は裏切られることがなかった。

 まず、勝負勘と呼ばれる、最も言葉にしづらいであろう概念の一つについて見てみよう。

岡田 答えを模索しながら思考やイメージをどんどん突き詰めていくうちにロジックが絞り込まれ、理窟がとんがってくる。ひらめきはその果てにふっと姿を見せるものなんです。(以下略)
羽生 同感ですね。(中略)直観はヤマカンとは異なります。もっと経験的なもので、監督がおっしゃるように、とても構築的なものです。数多くの選択肢の中から適当に選んでいるのではなく、いままでに経験したいろいろなことや積み上げてきたさまざまなものが選択するときのものさしになっています。(22~23頁)

 勝負を左右するひらめきや直感は、ともすると偶然に生まれてくるものと捉えられてしまいがちだ。しかし、両者ともにそれを否定し、経験や論理による積み上げの結果として訪れるものであると結論づけている。この結論は納得的であるとともに、私たち普通の人間にとって励みとなる言葉であろう。

 次に、勝負を左右する要素に関する捉え方について。

岡田 流れを変えるきっかけは、往々にして小さなことですね。マスコミや評論家は勝った負けたの原因をシステムとか戦術論に求めたがるけど、実際には、勝負を分ける要因の八割方はもっと小さなことなんですよ。(中略)技術上のミスや積極的なミス、これはもう仕方ありません。われわれもある程度は織り込みずみで臨みます。怖いのは、不用意なミスというか、消極性や怠惰から生まれる凡ミスです。(中略)そういうミスは、それがたった一度の、じつにささいなものであっても、全体の流れをガラリと変える大きな傷になってしまうことが多々あるんです。(45~46頁)

 マスコミや評論家を対象としている岡田氏の発言は、おそらくは私たち一般人も含まれていると読むべきであろう。実際に勝負をしていない者で、一家言持っている人間は、外から見えるシステムや戦術論をもとに批評してしまう。これは何もスポーツに限ったことではなく、企業組織でも同じであろう。しかし、岡田氏が指摘する個人の小さなミスが流れを変えるという指摘は非常に重たい。私たちが日々起こしている小さなミスが、巡り巡って自分のいる組織の停滞を招いているかもしれないのである。

 ではこうした勝負勘を持った人物は、そうでない人物と比較して何が異なるのであろうか。

岡田 ひとつの部分だけに意識が集中するんじゃなくて、全体に意識を行き渡らせる広い集中力に長けている。それがいい選手の重要な条件のひとつであることはジャンルを問わないことなんでしょうね。(76頁)

 最近では、選択と集中を体現すべく、なにか一つに注力している潔い姿がカッコいいものとみなされる傾向がある。むろん、選択と集中が重要である文脈もあるだろう。しかし、岡田氏が述べるように、周囲を見ながら、鳥瞰図を描くように、大局的な観点から、自分が行なっている領域を突き詰めることが重要だ。プロフェッショナリティとは、他者との信頼関係や全体との整合性が前提条件となるからである。そうしたことを「広い集中力」という独特な言葉遣いで巧みに表現している両者の言語化能力には驚くばかりだ。

 次に、勝負勘を養うために何を行なうべきかについて見てみよう。

羽生 安全策は相対的に自分の力を漸減させてしまうんです。それがイヤなら、積極的なリスクテイクをしなくてはならない。だから私は、経験値の範囲内からはみ出すよう、あえて意図的に強めにアクセルを踏むことを心がけているつもりです。(85~86頁)

 経験を積めば、どこに危険があるかが分かるようになる。そうした経験値は、ミスを減らすというポジティヴな作用をもたらす一方で、リスクを取らないという副作用をももたらす。羽生氏は、そうした経験値の持つ副作用を意識した上で、あえてリスクテイクするようにしているという。リスクを取ることによって、中長期的な観点での自分の力を高めようとしているのである。では、こうしたリスクテイクするべきかどうかをどのように測れば良いのであろうか。

羽生 結果的にうまくいったか、いかなかったかではなく、そのリスクをとったことに自分自身が納得しているか、していないかをものさしにするようにしているんです。後悔をするなら、リスクをとらなかった後悔より、とったことの後悔のほうがはるかにましだと思うからです。そう考えることで、リスクテイクするときの恐怖感もかなり減らせるような気がします。(91頁)

 リスクを取るか否かの選択において結果を指標にしないということは、非常に興味深い。結果を指標にすると、リスクを取らずに安全策で対応するというジリ貧の戦略が合理的になってしまうのである。結果ではなく、自分自身の納得を指標にするというところがミソであり、取らなかったことの後悔を念頭に置くことで、リスクテイクを納得させるという作用があるのではないか。

 最後に、こうした勝負勘をどのように培うのかについて見てみよう。傍から見ると天才のように思える偉業を成し遂げている羽生氏は、頑に自分は天才ではなく普通の人間であると断言し、どのように勝負勘を養ってきたかを以下のように述べる。

羽生 自分の中に「天才」を感じたことは一度もありません。私は必要な能力や技術を反復によって身につけていく人間で、いまの自分をつくったのはくり返しと積み重ねだと思っています。ひとつひとつを自分で考えながら、試行錯誤を重ねて、時間をかけて自分のものにしてきたというのが実感です。ひらめきによって一足飛びにジャンプするということはできません。段階を一個一個踏まないと高いところへは行けないタイプなんです。(204頁)

 ここでの繰り返しや積み重ねといった言葉の意味合いを、リニアな成長と誤読してはいけない。リニアな成長とは、過去の成功体験の積み上げに過ぎず、それでは中長期的に強みを発揮できないというのは前述した通りだ。したがって、ここでの経験とは、リスクテイクを経ての失敗や跳躍をも含めた経験を指し、そうした自分自身での試行錯誤を愚直に繰り返したものと読むべきであろう。努力を繰り返せることが天才だと定義するのであれば、両氏はそうした意味での「天才」と言えるのかもしれない。


0 件のコメント:

コメントを投稿