2014年9月22日月曜日

【第341回】『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二、講談社、2013年)

 脳が支配する体側は左右交差しますね。だから人の顔を見るとき、左側の視野で見たものは、交差して右脳に届きます。これでおわかりですね。私たちが見たものを判断するのは「左側」の視野が中心。
 たとえば、(中略)本やポスターは左側のイラストや写真を載せた方が印象に残ります。もっと身近な例では、魚料理もそう。頭を左に向けて置きますよね。(50頁)

 著者の書籍を読むのは数年ぶりである。久々に読んでみて、改めた読んでいて心地よいと感じた。最初に引用した箇所に現れているように、科学的な知見を説明した後で、相手がイメージし易いように、記憶に残るような例示を重ねているからであろう。本書が、著者の出身高校の学生への講義録であるということもあろうが、読者や聴き手を意識した言葉の選択が、著者の書籍における魅力の一つであろう。

 まず著者は、冒頭の部分において、科学とりわけ脳科学の基本的な考え方について、説明を行なっている。

 私たちの心には、「意識できるところ」と「意識できないところ」があるってことです。意識と無意識ですね。そして、どっちの世界が広大かといえば無意識。つまり、私たちの行動や思考のほとんどは無意識的な振る舞いです。
 でも残念なことに私たちは、意識できるところしか意識できないですよね。まあ、それが意識の定義だから、当たり前ですけど。だから、その意識できている自分こそ、自分のすべてであると思い込んでしまいがちなんですよ。
 でも本当はそんなことはない。無意識のレベルで私たちはたくさんのことを考えたり、判断したり、決断したり、欲情を生んだりと、いろんなことをしているんです。
 だから、自分が想像しているほど、自分のことは自分ではわからないんです。「自分のことは自分が一番知っている」なんて思い込みは、ちょっと傲慢で、危険ですらある。他人の方が、案外、自分のことを理解してくれていたりするでしょう。(20~21頁)

 意識できる領域と無意識の領域とでは、後者の方が広大であると説明した上で、私たちが意識できている世界の小ささを指摘している。したがって、自分たちが自分たちの認識している世界をコントロールしているかのような夜郎自大になることに警告を投げかけている。無意識の領域に意識を向けることで、謙虚な気持ちを持つこと、そうした制約の中における私たちの心理や行動を科学することが大事なのであろう。

 私がとくに強調したいことは、サイエンス、とくに実験科学が証明できることは、「相関関係」だけだということです。因果関係は絶対に証明できません。(中略)
 では、科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのでしょうか。答えは「私たちの心の中に」ということになります。つまり、脳がそう解釈しているだけ。因果とは脳の錯覚なわけです。(28~29頁)

 どのような学問領域であれ、科学的な研究に携わった人間にとって、因果関係を証明することはできず、相関関係の有無を証明することしかできないことは自明である。著者はこの点を脳科学という観点からさらに深掘りし、因果関係を創り出しているのは私たちの心の中であると指摘する。

 哲学では「存在とは何ぞや」と、大まじめに考えていますが、大脳生理学的に答えるのであれば、存在とは「存在を感知する脳回路が相応の活動をすること」と、手短に落とし込んでしまってよいと思います。つまり私は「事実(fact)」と「真実(truth)」は違うんだということが言いたいのです。
 脳の活動こそが事実、つまり、感覚世界のすべてであって、実際の世界である「真実」については、能は知りえない、いや、脳にとっては知る必要さえなくて、「真実なんてどうでもいい」となるわけです。(37頁)

 ここに、脳科学における射程範囲が明確に書かれている。つまり、脳が認識できる事実を明らかにすることが脳科学が詳らかにする範囲であり、その範囲を認識しておくことで他の学問領域との協働の可能性が見えてくるのであろう。

 こうした基礎的な考え方を踏まえた上で、以下からは、各論について印象的であった部分を列挙して所感を記していく。

 錯誤帰属なんて、はじめて聞く言葉ですね。これは、自分の行動の「意味」や「目的」を、脳は早とちりして、勘違いな理由づけをしてしまうということです。(62頁)

 脳は先んじて何かを意図するというよりも、自分自身が行なった行動の意味付けを後から行なう。自分自身の生きている意味や、行なった行動を正当化するために、自身の言動に意味を見出そうとするのである。

 直感もひらめきも、何かフとしたときに考えを思いつくという意味では似ているのですが、その後、つまり、思いついた後の様子がまるで違うのです。「ひらめき」は思いついた後に理由が言えるんですよ。(中略)
 一方、「直感」は自分でも理由がわからない。「ただなんとなくこう思うんだよね」という漠然とした感覚、それが直感です。そんな曖昧な感覚なのですが、直感は結構正しいんですよね。(中略)
 脳の部位でいうと、理由がわかる「ひらめき」は、理屈や論理に基づく判断ですから、おそらく大脳皮質がメインで担当しているのでしょう。一方の「直感」は基底核です。(79頁)

 私のような素人には似たような概念として捉えてしまいがちな直感とひらめきについて、その違いを内容面と扱う部位の面から分かり易く述べている。ひらめきについては、先に引用したように、後から脳が理由を創り出すというポイントと近いことに留意するべきであろう。

 情報はきちんと保管され、正確に呼び出されるというよりも、記憶は積極的に再構築されるものだってこと。とりわけ、思い出すときに再構築される。思い出すという行為は、単に蓄えられた情報をそのまま引き出すだけでなく、想起を通じて記憶の内容を組み換えて新しいものにする。それが再び保管されて、次に思い出すときにも、同様に再構築されていく。(146頁)

 記憶とは過去の事実をそのまま再現できることではない。過去を振り返ることによって、事実とは異なる新しいものへと変更が為される。つまり、過去の複数の事象を振り返ることによって、私たちは新しい組み合わせを生み出すことができ、そうしたものから創造的な発見が生み出されるのであろう。

 きっとね、行動や決断に「根拠がない」という状態だと、不安で不安でしょうがないという心境になるのだろうね。理由がないと居心地が悪い。だから、いつも脳の内側から一生懸命に自分の「やっていること」、もっと厳密に言えば「やってしまっていること」の意味を必死に探そうとしてしまう。(169頁)

 私たちは過去を探究するために振り返るだけではない。ここでは、理由を創り出すために私たちは過去に目を向けることがあるが示唆されている。そうすることによって、私たちの行動に意味があることを見出して自分自身を納得させることができるのである。

 そういえば、若者たちには、ときどきおもしろい行動を取る人がいるね。「自分探し」とかいって奇妙な旅に出かけちゃう人。自己存在の理由を求めたいんだろうね。
 でもさ、そうやって発見した「自分」が本当の自分だという確証はあるんだろうか。だって脳は作話だらけだから。ウソで塗り固められた虚構を「真の自分だ」と妄信するのは、うーん……まあ、本人の勝手か(笑)。(175頁)

 不安であるが故に理由を探す、という脳の特徴は、「本当の自分」という虚構としての自己の理由を探す自分探しという現代的な現象をも生み出したのであろう。

 「共感」もまた痛みの転用の結果だと言えるね。「疎外感」だけでなく、相手を思いやる温かい気持ちも「痛覚」から生まれるなんて、なんだかホントおもしろいね。そうやって、僕らの「心」の働きは、動物たちが長い進化の過程でつくり上げてきた脳回路を巧妙に使い回して、その合わせ技の上に成立している。(186頁)

 脳の特徴として、同じ領域において異なる複数の感覚を担当しているという点が挙げられている。違う言い方をすれば、限られた領域の中において、可塑性のある豊かで多様な感覚を生み出す工夫を私たちの脳は行なっているのである。

 普通の感覚だと、自由意志は、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。結果が伴わない限り自由はない。
 つまり、自由の発生順が逆なんだ。自由というと君らは「未来」に向かって開かれているような気がするでしょ?でも実際には、自由は「過去」に向かって感じるものだ。
 ここで僕が論じたかったのは、「自由意志が存在するかどうか」という問いは、その質問自体が微妙なところがあって、今の議論のように、むしろ、自由を「感じる能力」が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。つまり、自由意志は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね。(282~283頁)

 自由という感覚は、未来ではなくて過去に向けて、存在するのではなく知覚するものである、と著者はする。過去に向かって知覚するということは、自分自身の豊かな認識に対して開かれているというようにも読み替えられるだろう。このように考えれば、私たちは、どのような境遇であっても自由を感じる能力を、脳によって与えられているのかもしれない。

 最後に、脳科学の学際性について。脳科学の有する可能性について触れて、本稿を終わりにしたい。

 脳科学というのは、今までまったく無縁だった学問、たとえば、哲学とか心理学とか社会とか、そういったものを結びつける接着剤の役割を担える分野なんだ。最近では、経済や政治、倫理学、芸術や奇術などにも、脳科学は接近しているんだよ。(432頁)

『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』(森山徹、PHP研究所、2011年)

0 件のコメント:

コメントを投稿