2014年9月24日水曜日

【第343回】『昭和史の教訓』(保阪正康、朝日新聞社、2007年)

 教訓を教訓として理解するには相応の感性と理性が必要である。その感性と理性に欠けている限り、教訓そのものが存在することさえわからない。つまり過去の歴史と向きあう姿勢をもちあわせていないということでもある。(5頁)

 歴史を教訓とできるかどうか。その鍵は、過去の歴史と真正面から向き合うという、ともすると見たくない目を向けざるを得ない覚悟を私たちが持てるかどうかにある、と著者はしている。では、昭和史から何を私たちは教訓とできるのか。三つの観点から眺めていこう。

 第一に、二・二六事件を挙げてみたい。

 二・二六事件は昭和初年代の時代の空気を「因」とすれば、その「果」であった。どのような意味で「因」が存在するのか。私はそこにはさしあたり三つの視点が存在するといっていいように思う。
 (一)動機が正しければあらゆる行動が許される
 (二)天皇神格化による臣民意識の涵養運動
 (三)国際的孤立からくる心理的、政治的な閉塞感(27頁)

 昭和十年代に起きたあの一連の戦争へと招いたものは何であったのか。著者が掲げている簡潔にして明瞭な三つのポイントは、納得的である。

 二・二六事件が「因」となっての「果」は、こういう形であらわれていた。そのことがわかってくると、きわめてあたりまえのことだが、歴史は人によってつくられるが、その人の重用を誤るととんでもないことが起こりうるとの教訓が引きだされてくるように思うのだ。理性的な判断より感情的、情緒的判断に終始し、とにかく自分の殻に閉じこもっていく。悪いのはつねに相手であり、自らには何の責任もないというのが、東條の性格であり、東條に戦時下にとりたてられた軍人たちに共通の性格であった。(51頁)

 先述した三つのポイントを招いた主要な原因の一つは人事であった。二・二六事件が東條をして首相の座へと近づけたという結果を招いたことを考えれば、その歴史的な事件としての多面性に私たちは留意するべきだろう。

 この二・二六事件のもつ多面性を見ずに、この事件を青年将校のエネルギーの暴発と見るだけの失敗論や昭和天皇が激しく怒ったという聖慮重視論だけでは、事件の本質はつかめないということがわかるのではないだろうか。暴力を軸に、そしてそれに伴っての恫喝を用いながらこうして軍事ファッショ体制は確立していった。(54頁)

 二・二六事件は、青年将校による単なる暴発であり、昭和天皇から否定されたことによって失敗したクーデター未遂であると私たちは学校の歴史で学ぶ。しかし、それだけでは、この事件の本質を理解したことにはならないと著者は指摘する。歴史から教訓を紡ぎ出すためには、東條による人事や、その後の出来事への波及効果を鑑みる必要性がある。

 第二は主観主義について。

 総力戦の構想は、第一次世界大戦を学んだ軍人たちの共通のテーマであった。日本にこのテーマをもちこんだ軍人たちは、戦争がこれまでの軍人、兵士が特定の地域で軍事行動を競い、その結果で勝敗が分かれるという時代から、国家のあらゆる組織、機構が戦時体制に切りかわる時代に変わっていくことを実感した。(123~124頁)

 まず、軍部が総力戦による戦争へと突き進んだ動因として、第一次大戦における国民による総力戦の強靭さが挙げられている。一部の軍事エリートだけではなく、国民をも戦争へと巻き込むようにするためのインセンティヴが第一次大戦の結果として生み出されたのである。

 庶民からの国民史は、むろん前述のような近衛内閣の国策の基本要綱と直結していくこともわかる。下から近衛内閣が突きあげられていくとの構図もわかる。そのことは下部構造のナショナリズムがきわめて単純で素朴な言語空間によって生みだされ、それが実はあまりにも簡単な自己礼賛のみでしかないことにも気づいてくるのである。(119頁)

 軍の暴走を防ぐ役割を果たし得る議会は、国民の世論から影響を受ける存在である。その国民の一人である女性教師が、東京日日新聞が1940年に募った国民史への投稿内容が本書では引用されている。非常にナショナリスティックな内容であり、軍部からと国民からとの双方からの突き上げにあって、議会も戦争肯定へと意識を向けざるを得なかった側面があった状況が理解できる。私たち国民一人ひとりの意識と態度が、政府や軍隊の暴走に歯止めをかける国会への働きかけに繋がることを、いま一度心に留めたい。

 第三は、軍隊に対する意識である。

 <中国の国情、歴史、その置かれている現状などを詳細に分析して戦いを始めたわけではない。つまり戦うべき相手(この時代では「国」ということだろうが)のことは自らの頭の中でしか存在していない。客観的に彼我の力関係を分析するのではなく、自らの尺度でのみ政治的、軍事的現実を分析している。つまりはそれは思いこみと偏見でえがかれる分析であった>(165頁)

 第二のポイントとして挙げた主観主義を基に、満州事変以降の中国への進出における客観的分析の欠落が指摘されている。ではこうした動きをドライヴした動きとは何であったのか。

 日中戦争を追いかけていくとわかるが、常に軍事が先行し、それを政治が追認しているという状態がくり返されている。実際に政治の側が行うべき和平工作や終戦工作は、明確な方針を打ちだすことができず、軍事にひきずられているどころかときには軍事以上に強硬なこともあるというのが現実の姿であった。軍事がどのようにしてこの戦争を終結させるかとの戦略をもっていないことがわかると、近衛内閣の閣僚の側が強硬策に変わっていったのがその例である。(170頁)

 主観主義に基づく場当たり的な軍事の暴走を、政治は追認するしかなかったというのだから、恐ろしい話である。しかし、先述したように、中国への膨張主義は国民世論にも合致するものであったために、行政機関もまた、強い反対をできないままに追認したというのが現実であろう。

 本来、国自体がバランスよく成長しているのであれば、軍隊はつねにそれを守るという防禦の軍隊ということになる。ところが軍人たちのこのような「戦争を欲する感情」は、「結局は侵略性を帯びてしまう」ことになるといってもいい。戦争がなければ存在を明らかにできないこの屈折した感情こそ、帝国軍人のもっとも忠君愛国を支えた心情ということになるのではないか。(174頁)

 日本軍が海外への膨張主義を取ってしまった背景には、軍隊とは新しい領土を得たり、多額の賠償金を得ることを目的とした組織である、という暗黙の了解があった。つまり、そうした目的をレゾンデートルとした日本軍は、日本を守るという自衛の軍隊ではなく、諸外国と戦争をするという侵略を目的とした軍隊であった。日清戦争で多額の賠償金を獲得し、日露戦争で領土を得た、という成功体験が、日本人をして軍隊に対して侵略的な機能を付与した。私たちが意識したくはないが、これが私たちにとって学ぶべき教訓である。


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