2014年9月13日土曜日

【第336回】『青の時代』(三島由紀夫、新潮社、1971年)

 光クラブ社長自殺事件を素材にしたと言われる本作品。独特の文体と視点により、三島の世界が展開される。

 誠がカントかぶれの機械的な生活を固執したのは、知的探究というものは、合理的な生活を、つまり知識の合理的な体系の投影のような生活を要請し、それによってわれわれを否応なしに道徳的ならしめると考えたからであったが、彼が認識と道徳との困難な割りふりに手こずって考え出したこの解決法には、後年の彼の無道徳の因になった道徳に関する固定的な考え方が歴然としており、それはおそらくしらずしらずうけていた父親の影響でもあり、その影響の脅かしに対する反応でもあった。(53頁)

 理とは武器である。武器であるのだから、理とは本来、意識的に使うものであるし、自分を守るために、他者を攻撃するための手段である。主人公である誠の場合には、自覚的に理を用いているのではなく、父親の影響で無自覚のままに理を用いているという点が独特なのであろう。無自覚に用いているために、理を用いる対象についての考察が伴わない。そのため、ここで仄めかされているように、道徳律に反する行為をも理によって正当化するという後年における誠の暴走を招いてしまうのであろう。理とは、他者だけではなく、自分をも傷つけるものである。

 この頑固さの喜びは、彼にとって一つの人生経験の胡桃のような頑固な皮殻を、割らずにただ掌にころがしている、そういう喜びにちかかったのだ。(66頁)

 三島ならではの表現のように思える。先に引用した箇所にある、主人公の論理的頑迷性が表出した一例であるが、その独特な表現が興味深い。

 過度の軽蔑はほとんど恐怖とかわりがない。誠はこの五十をすぎた男のなかに、彼自身の幻影を見るのが怖かったのである。(112頁)

 いわゆる心理学における投影と同じような現象ではあろう。自分に起きているものと近しい現象を他者の中に見出す、という心理的現象である。しかし、軽蔑が恐怖心と同じ意味であるというのは、投影よりも空恐ろしい現象のように私には思え、こうした感情こそ人間の持つ恐ろしさを表しているのではないだろうか。

 事実の生起は名状すべからざるものである。或る人にとっては革命であり、或る人にとっては単なる債権の取立てであり、或る人にとっては理不尽な強奪であり、或る人にとっては面白い見せ物であり、或る人にとっては職業的なスポーツの一種であり、また或る人にとっては何物でもないところの、この騒々しい祭典がこうして終った。(161頁)

 単なる借金の取り立てという事象を、立場が異なることで異なる世界観が現出するということを表現している。ただし、私が「借金の取り立て」と解釈するのも、ある一側面を観察者である私が切り取ったものにすぎないのであろう。

 誠はあらゆるものの上に、或る単調なしぶとい具体性、昨日は今日に似、今日は明日に似ているところの具体性、誠が今まで一度として持つことを肯んじなかった具体性の匂いをかぐのであった。街はこの具体性に充満し、ふてぶてしく輝き、それ以外のあらゆるものに抽象の極印を押しつけてふんぞり返っているように思われた。(172頁)

 理に聡い人物、とりわけ若い時分から無自覚に論理的な人間というのは、自身の抽象的な世界解釈に驚く瞬間が訪れるのであろう。良い悪いということではないが、具体性を伴わない理性というものは、諸刃の剣ではないか。主人公を見ていて空恐ろしさを感じざるを得ない。


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