2014年9月28日日曜日

【第345回】『愛するということ』(エーリッヒ・フロム、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年)

 NHK教育の「100分 de 名著」で興味を抱いていた本書。少し前に『自由からの逃走』(『自由からの逃走』(E・フロム、日高六郎訳、東京創元社、1951年))を読んで著者の書籍への関心はより強くなっていたため、満を持して読んだ。

 この本は読者にこう訴えるーー自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。これらの特質がまれにしか見られない社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。実際、真に人を愛することのできる人を、あなたは何人知っているだろうか。(5頁)

 原題は「The art of loving」であり、直訳すれば「愛する技術」といったところであろうか。著者は、愛するためにはなぜ技術が必要であると考えたのであろうか。その理由として、社会が近代化する過程において、愛を巡る状況に変化が生じたからであるようだ。主なものを二つほど挙げてみよう。

 自由な愛という新しい概念によって、能力よりも対象の重要性のほうがはるかに大きくなったにちがいない。(14頁)

 前近代的な社会においては、身分による制約や家による制約といった要因によって、結婚には不自由がつきものであった。親や社会が決めた相手と結婚するのが当たり前の社会においては、決められた結婚相手との結婚生活をいかに良くするかという能力に意識が向かうことになる。しかし、近代になると、自由な愛による結婚が実現することになり、自由に選べる結婚相手という対象に目が行くようになる。ために、能力ではなく対象の優先順位が高まるのである。

 何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値をもつような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っていたとしても、驚くにはあたらない。(16頁)

 次に、愛の商品化が挙げられている。つまり、自分自身という商品を鑑みて、自分にとって「お得」な価値のある相手を選ぶことが合理的な結婚であると見做される。自分自身の商品価値と共に、相手の商品価値を客観的に把握して、獲得し得る最大の効用を実現できる結婚を目指そうとするのである。

 こうした近代化以降の愛を取り巻く言説構造を俯瞰した上で、愛そのものについて、著者は主張を進めていく。

 人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがないーーここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる。(25頁)

 まず、人間とは孤立した存在であることを前提として置いている。孤立した存在として、他者との愛によって結ばれていない状態において恥、罪、不安といった概念が生じるとしている。

 共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。(40~41頁)

 孤立した存在として個人は、他者との成熟した愛に基づく関係性を持つことによって、全体への結合感を得ることができる。しかしそれは、未熟な愛が時に起こすように、対象を偏愛するあまり忘我的に自己を喪失することを伴うわけではない。自分自身という個性を失わずに、かつ全体性をも有するというアンビバレンスな状態が成熟した愛としているのである。

 こうした成熟した愛を育むためには、愛される価値がある対象からの愛を受動的に待つのではなく、能動的に活動することが求められると著者は主張する。

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。(42~43頁)

 「fall in love」という英語表現に端的に表れているように、「愛に落ちる」という感覚を愛の理想であるかのように私たちは思いがちだ。しかし著者は、愛の能動性、特に他者に対して無償の愛を与えることの重要性をここで指摘している。

 もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かちあうのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛に限っていえば、こういうことになるーー愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。(46頁)

 愛における能動性とは、他者に愛という感情を与えるということである。さらに言えば、愛を与えることによって、他者に何かを生み出すということを信じる態度が必要なのであろう。かつ、そこに見返りを求めないこと。見返りを求めた愛は、他者に愛を生み出さない。見返りを求めずに他者に愛を与えることが、逆説的に、他者から愛が与えられることを可能にする。

 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。(48頁)

 「与える」も含めて、愛の能動的性質をここで端的に著者は述べている。こうした要素をもとにして、自分自身と異なる他者との間における能動的な愛について、著者は主張を進める。以下では、異性愛、自己愛、神への愛という三点について詳しく見ていこう。

 まずは異性愛について。

 私たちはみな「一者」だが、それにもかかわらず、一人ひとりはかけがえのない唯一無比の存在である。他人との関係にも、それと同じパラドックスが見られる。私たちは一つなのだから、兄弟愛という意味では私たちはすべての人を同じように愛する。しかし、それと同時に私たちは一人ひとり異なっているから、異性愛は、一部の人にしか見られないような、特殊な、きわめて個人的な要素を必要とする。(91~92頁)

 愛とは他者一般に開かれたものであると同時に、特定の他者への愛も存在するという愛のアンビバレンスがここでも示されている。普遍的な愛と個別特殊的な愛とがこの世の中には存在するのである。

 異性愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、一つの前提がある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。(90頁)

 異性愛の前提には、かけがえのない特殊な個人としての自分自身を愛することが前提として存在すると著者はする。そうした愛が存在することによって、個別的な自分と個別的な特定の他者との間にある関わり合いが強化されるのである。

 次に自己愛を取り上げよう。

 聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。(94頁)

 自分自身を愛することができなければ、他人を愛することはできない、とここで著者は強く断言する。

 自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。(96頁)

 愛の能動的性質として挙げられていた四つの特徴が、ここでも挙げられていることに留意したい。他者を愛するだけではなく、自分を愛する上でもこうした四つの特徴が求められ、自分自身を愛することができることによって、自分自身を理解することができる。そうすることによって、他者を愛することができるようになるのである。

 第三に、神への愛について見てみよう。

 逆説論理学の一般原理については、老子が明確に説明している。「厳密に真実である言葉は逆説的であるように見える」。また、荘子の説明ではこうだ。「一つであるものは一つである。一つでないものもまた一つである」。これらの公式は「……であり……でない」というふうに肯定的だが、「……はこれでもなく、あれでもない」といった否定の公式もある。(114頁)

 非常に興味深いのは、西洋人である著者が、神について述べる上で、老荘をアナロジーとして用いている点である。もう少し深掘りしてみよう。

 道教の考え方では、インドやソクラテスの思想と同じく、思考が達しうる最高の段階は、自分の無知を知ることである。「知っていながら知らない〔と思う〕ことは病気である」。
 この考え方を押しすすめれば、当然、最高な神には名前がつけられないということになる。究極の現実、究極の「唯一者」は、言葉や思想では捉えられない。老子がいうように、「踏みしだくことのできるような道は、恒久不変の道ではない。名づけられるような名は名ではない」。(115~116頁)

 ソクラテスの「無知の知」との共通点を言うために、老子や道教がここでも例示されている。一つであって一つでないというアンビバレンスに目を向けた上で、そうした唯一にして唯一でない存在は名前を持たないということが指摘されている。

 逆説的思考は、寛容と、自己変革のための努力を生み、アリストテレス的な姿勢は、教義と科学を、すなわちカトリック教会と原子力の発見を生んだのである。(121頁)

 西洋哲学によって、カトリックの教えが科学的に正当づけられ、原子力をはじめとした近代科学文明を生み出したとしている。それに対して、名づけられない絶対的な神という考え方は、寛容と自己変革とを生み出したとしているのだから、興味深い。つまり、前者は神を神として尊敬するのではなく、神を科学によって尊敬するのにすぎないと、著者は暗に否定しているのである。

 最後に、能動的な愛をいかに涵養できるか、その修練について見てみよう。

 自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という革新をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。そして、ニーチェが言ったように、約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念が人間が生きてゆくための前提条件の一つである。(183~184頁)

 自分自身を信じること、つまりは自分に対して信念を持つこと。自分に信念を持つということは自己確信を意味し、自分が近い将来においても他者を愛することができるという確信をも意味する。だからこそ、信念こそが能動的な愛を涵養することの第一の前提条件としてここに提示されているのである。

 愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。(184頁)

 さらに言えば、自分自身の中に閉ざされたものとしての信念ではなく、そうした信念に基づいて愛を他者の中に生むことができると信じることである。

 他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。(184頁)

 自己に対する信念だけではなく、他者に対して開かれた信念がここで指摘されている。つまり、自分自身を信じるだけではなく、他者および他者の可能性をも信じるという開かれた信念が重要であるとされているのである。

 本論考を終えるにあたって、私たちに勇気を与えてくれる印象的な箇所を引用することとしよう。

 信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。(189~190頁)


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