2014年9月20日土曜日

【第339回】『大君の通貨』(佐藤雅美、文藝春秋、2003年)

 私たちは幕末における開国を、政治的なイシューとして歴史の授業で学ぶことが多いように思う。しかし実質的な鎖国状態から開国するのであるから、それは経済的なイシューでもあったはずだ。本書では、開国時における円とドルとの為替レートを巡る日本側と英国・米国側との交渉に焦点を当てて描かれた歴史小説である。交渉を取り巻く関係者に関する人物の描写が鋭く為され、経済的な要因が政治的な要因へと繋がる考察が鮮やかに加えられている。

 まずは、駐日総領事として滞在していた米国人ハリスについて見てみよう。私たちが歴史の教科書で日米修好通商条約を締結させた人物として習う、あのハリスである。

 日本に到着した時点でのハリスは、前払いの年俸は別にして蓄えといえるものは一銭もなく、それどころか借金を抱えていた。日本では一銭を惜しんで借金を返し、さらには老後のための蓄えを残すというのが、ハリスが日本へやってきた最大の目的だった。(80頁)

 むろんこの記述には、史実を基にした著者の考察が含まれているはずだ。しかし、日米修好通商条約を締結する総領事という政治的な肩書きから後世の私たちが抱く様とはあまりにかけ離れた人間臭い描写である。歴史上の人物といえども、そこには生活があり、また個々人の性格というものもある。こうした当たり前のことを思い出させてくれる描写であると共に、個人的な要因が交渉において重要な要因となることもまた、世の常である。

 日本のコバングとイチブの金銀比価、とりもなおさず、それが日本の金銀比価であるとペリーの一行は勘違いして、金と銀の価値が異常に接近していると、日本へでかけるハリスに教えた。ハリスは日本へくるとすぐ自分の目で確認した。海外の金銀比価は一対十六である。すると同種同量交換という為替レートを認めさせ、手にしたイチブを公定レートでコバングに替えると莫大な儲けを手にすることができる。そのことに横浜の商人たちと同じようにすぐ気づいた。だがそのまま放置していたら、いずれ日本が本格的に開国したとき、日本の金貨、コバングは流出していく。オールコックがなぜそうしなかったかと懸念を抱いたように、そのことにもハリスは気づいた。
 ハリスは敬虔なプロテスタントで高潔な人格の持主だったといわれている。そうであったならこのとき、彼我の金銀比価の違いを日本側に通告し、金貨が流出しないように対策を講じさせなければならなかった。ハリスは熟達の外交官であったともいわれている。熟達ではなくとも、外交官としての職務に忠実であったなら、やはり彼我の金銀比価の違いを通告し、対策を立てさせなければならなかった。そうすることが外交官の義務であり、本務である。だがハリスはそうしなかった。そうしなかったのはひとえに、才覚も労力もいらずに荒稼ぎのできる千載一遇のチャンスを失いたくなかったからである。(82~83頁)

 まず登場人物や固有名詞について説明を補おう。オールコックとは英国から来ていた初代駐日外交代表であり、ハリスより遅れて日本を訪れた。コバングとは小判のことで一両を指し、イチブとは一分銀である。つまり、金と銀の交換比率が幕末期に海外と日本とで乖離しており、その事実を悪用すればぬれ手に粟で儲けられるゴールドラッシュの構造があったと指摘されているのである。先述していた背景を持って来日していたハリスは、自身の生活のために、この構造を幕府側に伝えず、他の商人たちとともに私腹を肥やしていたのである。その後に、幕府側に金銀のレートの国際ギャップを伝えたことを日本史では「“親切にも”彼我の金銀比価の違いと対策を教えてくれた」(101頁)と教わる。なんともやるせない気持ちにさせられる部分である。

 単にハリス一人の問題に留まるのであれば、明確に法律を破る行為でもないこうしたモラル・ハザードは大きな問題とはならない。しかし、経済的な要因は、政治的な要因を規定するものであり、幕末における日本の政治にも大きな影響を及ぼした可能性が高い。その考察について、一時的に英国に戻ったオールコックに対して、英国大蔵省吏員のアーバスナットが語ったこととして著者は分析を加える。

 「物価がけたたましく騰がっていくとき、商人は価格に転嫁する手段を持っているから、つまり物価上昇分を手持ちの商品やこれから仕入れる商品に上乗せできるからよろしい。転嫁する手段をもたない民間人や、収入を一定の俸禄に頼っている支配階級、武士というのだそうですが、彼らはどうか。くる日もくる日も物価が上昇するという生活苦に悩まされつづけるということです。日本人のほとんどはこの物価が上昇している原理を知らないと思うのですが、となると物価上昇で苦しまされている怒りはどこへ向けられるでしょう。開国と貿易、そしてそれを許可した日本政府、および条約締結国に向けられるということです。外国人が見境なく殺されつづけているということも、日本政府の要人がつぎからつぎへと狙われているということも、このことと決して無関係ではないと思います」(247頁)

 マクロ経済学の基本書でも扱うように、インフレにより影響を受けるのは年金をはじめとした固定収入に依存する世帯である。幕末期に援用すれば、その主体は武士である。原因不明のインフレによる生活苦に伴う行き場のないネガティヴなパワーの蓄積が、武士階級による幕府要人の暗殺や攘夷運動へと繋がったのである。

 「あなたの報告によりますと、日本政府は国土のイチブを支配しているにすぎない大君政府とでもいうべき存在で、それとは別に精神的皇帝、ローマ法王のような存在の帝という勢力があり、一方で大君には必ずしも心服しているわけではない大名という勢力があるということです。であれば物価上昇を惹き起こしたと思われている開国と貿易に反感を持つ大名が、帝を担いで大君政府に反抗するということは充分に予測されます。もしそういうことになるとすれば、きっかけをつくったのは、ほかならぬあなた方というわけです」(248頁)

 さらに、幕府への不満は尊皇思想へ、開国と貿易への不満は攘夷運動へと繋がり、両者を結合する形で徳川幕府を崩壊に至らしめた尊王攘夷運動へと導かれたのである。

 「すでに申しあげたように大君政府は歳入のかなりをイチブを発行することにより賄っていました。金価格を引き上げるということは、それを失うということでもあります。物価が暴騰し終わり、物価調整が終れば、イチブを発行していたことによる益金、歳入はそっくりなくなります。ですから大君政府はいま一方で恐ろしいほどの歳入減に悩まされつづけているはずです。この先もしイチブの大名が帝を担いで大君政府に反抗するとしたら、それはきっと成功するに違いありません。なぜなら、そのとき大君政府は財政面で政府を維持していく能力を失ってしまっているからです」(248頁)

 インフレの結果は幕府の歳入面にも深刻な悪影響を及ぼした。どこまでが史実に基づいた著述であるかどうかは寡聞にしてわからないが、英国で実際にこうした分析が為されていたとしたら、同国が薩摩藩と深い関係を築き、倒幕運動を武器や資金面から下支えしたことは理に適っていたと言えよう。

 したがって、著者の締め括りの言葉は、簡潔にして、明瞭である。

 瓦解の原因はいうまでもない。すべてハリスとオールコックのミス・リードにあり、二人が幕府を倒したーー。
 こういっても、決していいすぎではない。(274頁)


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