2014年9月30日火曜日

【第347回】『私本太平記(二)』(吉川英治、講談社、1990年)

 天皇という存在ほど、日本史において興味深いものはないのかもしれない。

 だが、天皇御むほん?
 どうもおかしいではないか。こんな語は、ことばの意味をなしていないと、いう者もあるにはあった。
 武家もなく、幕府もなく、また院政だの、公卿の専横もなかった以前の世は、政治は天子が統べ給うものときまっていた。天子御一人のほかは、何者といえ、天子の親政を補佐るものにすぎないと、連綿、さだめられて来た国家である。
 その天皇。ーー今とて一天万乗の君と仰がれて九重に宮居し給うお方が、御謀反とは、たれへたいしての御謀反なのか。ーーしいて解せば、御自身が御自身へむかってする御謀反か?それ以外に謀反の相手は世にないはずの大君ではあるまいか。(53~54頁)

 <日本>という国の、非常に面白い点を指摘した部分である。本来、謀反とは、権力の中枢である主体に対して敵対的行為を取るものを意味している言葉であろう。では、当時の国家行政の主体であるはずの天皇が、謀反を起こすとはどのようなことなのだろうか。私たちは、日本史を学ぶ上で、鎌倉幕府に対して後醍醐天皇が謀反を企てて、倒幕した後に建武の親政を執り行った、と習う。しかし、天皇が謀反を起こすということは字義的におかしくないだろうか。この一見して矛盾に見える状態に、日本史における権力構造の不思議さが見出される。つまり、天皇とは三種の神器を中心にした権力の象徴であり、その周囲で影響力を発揮している者が実質的に権力者と見做されるのではなかろうか。したがって、後醍醐天皇は、象徴であるとともに実体としての権力を握ろうとした日本史上で希有な存在だったのである。

 象徴であるとともに実体でもある後醍醐天皇の有するエネルギーが莫大であるために、その周囲への人物への影響は計り知れないものがある。まずは、公家でありながら事変への中心的メンバーとなった日野俊基について。

 「ーーとはいえ、時は五月だ。若いみどりは萌え止まぬわ。俊基一人亡しとて、天下の夏が後ろ向きするものか。残る方々よ。いよよ強く世に生き給えや!」(301頁)

 宮中であるにもかかわらず、六波羅探題から派遣された幕吏に捕縛される際に、最後に宮中に隠れている人々に発した言葉である。あまりに激烈であり、武士ではなく公家の身としてこうした言葉が出てきたことに驚く。それと同時に、後醍醐天皇の近習への影響力の強さが、日野俊基の言葉に凝縮されているようにも思える。

 次に取りあげたいのは楠木正成である。明治期以降には、大楠公として称揚されたあの正成である。

 「あったら事だな。理も非もない日だ。ーー自体、理も非もない日に役立つ究理などは、学問とはいえぬものぞ。……そうならぬ和をお互いに支え合い、世の福祉を計り、とまれ妻子のなかで、無事一生をとげるのを以て、わしは学問としておるが」(206頁)

 軍学を学問と見做して軍学に励む弟・正季に対して述べた言である。後醍醐天皇が挙兵に至る前の発言であり、なにをもって学問とみなし、なにをもって善政とみなしていたかが分かるような言葉である。こうした政治観を持っている楠木正成をも、後醍醐天皇の持つエネルギーが戦乱の渦へと巻き込むことになるのだから、その強靭さが想起できるだろう。

 最後に、戦陣の火ぶたが切って落とされた際の著者の描写が印象的であるため、引用して終わりにしたい。

 大自然は、そ知らぬ顔だ。
 秋深む移りのほかは、雲の行きかい、山の姿、きのうも教も、変りはない。
 だが人間はついに、われからその棲み家を業の窯として、自分も他人も、煮え立つ釜中の豆としてしまった。(415頁)

 如何なる戦争であろうとも、それは人間の業が為すものにすぎない。

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