2016年1月31日日曜日

【第543回】『老子』(蜂屋邦夫訳注、岩波書店、2008年)

 心がざわざわと落ち着かず、忙しくてゆとりがない時ほど、『老子』の魅力は増すようだ。様々な碩学による『老子』の現代語訳を味わうというのは、趣深いものだ。大袈裟に書けば、書物によって存在を受容される感覚を得ることができる。

 聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。(第二章)

 人や組織に貢献したいし、それを仕事において実現したいと思うことは自然な感情の発露であろう。しかし、それが行き過ぎると、他者からの評価に一喜一憂し、自分の想定した見返りを得られない時に不満を抱くという結果を招く。自ずから然りの精神で、求めず、無理をせず、その上で淡々と生きることが、結果的にそうした肯定的なフィードバックを幸運に得られる時に感謝する。そうしたマインドセットでありたい。

 つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩く者は遠くまでは行けない。みずから見識ありとする者はものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰らかにできない。みずから功を誇る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない。(第二十四章)

 ストレッチゴールについて考えさせられる箇所である。人事という仕事をしていると、社員の成長と組織の成長という二つのベクトルを擦り合わせるための一つの解決策としてい、ストレッチゴールを提供することがある。上位のポジションへの昇進や新しいプロジェクトのアサインがその典型であろう。しかし、そうした状況は現状とのギャップを常に伴うために自分自身を開き、開発することが求められる。その度合いや幅の広さが、「つま先で立つ」状態であったり、「大股で歩く」レベルにまでなっていないかどうか。それをチェックする謙虚で慎ましやかな意識が、上長や人事に求められるのではないか。大いに反省させられる至言である。

 他人のことが分かる者は智者であり、自分のことが分かる者は明者である。他人にうち勝つ者は力があるが、自分にうち勝つ者はほんとうに強い。満足を知るものは富み、力を尽くして行なう者は志が遂げられる。自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも、亡びることのない道のままに生きた者は長寿である。(第三十三章)

 他者に貢献するためには、相手のニーズや欲求を理解するだけではなく、そもそも自分自身を理解することが必要。忙しい時ほど、他者や状況を読むのではなく、自分自身の、現状やニーズに誠実に向き合う時間を創ることが重要なのであろう。


2016年1月30日土曜日

【第542回】『老子×孫子 「水」のように生きる』(蜂屋邦夫・湯浅邦弘、NHK出版、2015年)

 「100分de名著」の別冊シリーズが刊行されていたとは知らなかった。名著を簡潔かつ丁寧に説明する良質な番組のスピンオフとも言える本シリーズも、読み易く興味深いものであった。

 老子の語る「道」は、説明を聞けば聞くほどわからなくなってきそうですが、無理に細かく理解する必要はありません。「無」と言っても、そこになにもないという意味ではなく、何物であるかが規定できないから「無」と言っているだけなのです。「こういうものが存在します」と明言すると、その存在に限定されてしまうので、一切合切を包括するものとして「無」という言葉を老子は使ったと考えるべきでしょう。(18頁)

 老子で繰り返し説かれる「道」は、わかりやすいようで非常に難解な概念である。著者は、そうした深さや難しさを無理に理解しようとしなくて構わないとする。こうした大らかな読解は、老子の創り出すゆるやなか雰囲気とマッチするものであろう。

 故に将に五危有り。必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉潔は辱められ、愛民は煩わさる。凡そ此の五者は、将の過ちなり。用兵の災いなり。軍を覆し将を殺すは、必ず五危を以てす。察せざるべからざるなり。(八 九変篇)(78頁)

 この孫子の引用箇所で、著者は、管理職の持つべき資質として解説を試みている。いずれも一見すると好ましい特質であり、たしかに持っていることで良い時もあるだろう。しかし、行き過ぎることによって問題が生じる可能性が増加してしまうことを戒めているのである。

 とはいえ、人間とは愚かなもので、一度あるやり方でうまくいくと、その印象にとらわれて、次も同じ手が使えるのではないかと思ってしまいがちです。もちろん状況は刻々と変化しているので、同じ局面というものはまずやって来ません。そのときに、成功の記憶をいったん捨てて、また新たに陣形を組み直せるかどうか、そういう柔軟性を持っているかどうかということが、その軍の強さ、あるいは指揮官の強さになってくるわけです。かつて、日本海海戦の大勝に酔った帝国海軍が、航空機の時代になっても艦隊決戦にこだわった末、あえなく壊滅した歴史などは、成功が人(軍)から柔軟性を奪ったよい例でしょう。(87~88頁)

 臨機応変の対応できる水の柔軟性の素晴らしさが述べられている。成功の復讐とも呼ばれるほど、一度うまくいったものが、将来において私たちの行動を束縛し、失敗の種となることはよくある事象である。引用の後半の部分で描かれている部分は、『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を読むとより理解できるだろう。


2016年1月24日日曜日

【第541回】『道楽と職業』(夏目漱石、青空文庫、1911年)

 漱石が職業について何を語るのか。一筋縄にはいかないことを予想しながら読み進めてみても、やはり漱石節とでも形容できるような論旨展開である。

 人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままに問いういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。(Kindle No. 183)

 まず、人のために行うことが職業であるというシンプルな定義がなされている。その際に、徳義的な意味合いは関係がないと断言しているところがすごい。どんな内容であれ、他者のためになるためのものであれば、それは職業として成立する。しかし、それは、人のためにすれば職業として認められるのだから素晴らしい、としているのではないと見るべきであろう。人のためにするという要素を満たした上で、いかにそこに徳義的な内容を入れ込むかを私たちは自分自身で考える必要があるのではないだろうか。

 職業とか専門とかいうものは前申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強いてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦戦になるのはやむをえない。(Kindle No. 313)

 一つの特定のものを好んで行うことが道楽である。そうした道楽を他者のために行うとそれが職業になる。職業になると、それを専門に行って貢献し続けることが求められる。その結果、自分の発意ではなく他者ありきで行動するために、その楽しみが減衰しがちになるとともに、過剰にその専門性が増してしまう。職業の持つ限界と、しかし他方でその特異性が指摘されていると言えるのではないだろうか。


2016年1月23日土曜日

【第540回】『老子【3回目】』(金谷治訳、講談社、1997年)

 老子を味わうことは、一服の清涼剤を飲むことに近い。忙しい時、プレッシャーが強い時、老子に目を通すと、自分の存在の小ささや大きな流れの中の一部にすぎないことが意識されるようだ。そうして、落ち着いて物事を眺め、自分自身を見つめ直すことができるのかもしれない。

 「無為」は「為すこと無し」であるが、何もしないことではない。ことさらなわざとらしいことをしないで、自然にふるまうこと、人間としてのさかしらの知恵やかってな感情をすてて、自然界のおのずからなありかたに従って行動するのである。(21頁)

 老子といえば無為自然の考え方が有名だ。ここでの「無為」という言葉を解説しているのがこの引用箇所である。何もしないのではなく、自ずからのあり方によって行動するというのが無為であると著者は解説する。したがって、無為に従った行動は、手を抜いて楽をするということではない。むしろ、自分自身の本性に従って自然に振る舞うことは、時に厳しい場面に向き合うことにもなるだろう。

 「晩成」ということばは、文字どおりには「できあがるのがおそい」であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということだろう。できあがってしまうと形が定まり、形が定まれば用途も限られる。それは大器でなかろう。(137頁)

 完成してしまうとその後の発展可能性がなくなってしまう。ために、いつまでも完成しないことが晩成として評価される。形や範囲を定めて合理的に対応するのではなく、形を定めず、柔軟に創造していくことが求められているのである。

 ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さらに懐疑して吟味してゆく必要がある。それが知を棄ててみずからを洗いあげていく過程でもある。こうして、ついに「道」にゆきついたときは、それが「道」の体得であり「道」との合一であるからには、もはや何がわかった何を知ったという境涯はすっかり抜けきっていることになるだろう。(216頁)

 何かをわかること自体が大事なのではなく、それをきっかけにして、次にわかるものへの糧にすることが大事なのではないか。そうした無限の連鎖こそが、生きることであり、学ぶということであろう。


2016年1月17日日曜日

【第539回】『坑夫』(夏目漱石、青空文庫、1908年)

 捉えどころの難しい小説である。漱石は、何を伝えたくて本作を著したのであろうか。テーマが分からないまま最後まで辿り着いてしまったが、テーマが分からないのに読み終えようという気持ちにさせるのは、文豪の類稀な力量に因るものであろう。

 よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云っているが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏まったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。(Kindle No. 122)

 こうした人間観に賛成である。性格というと、何か一つの特徴に、人間の存在を集約できるように思えてしまう。しかし、本来、人間は多様な可能性を有する存在である。したがって、あるべき一つの性格に纏められるというのは妄想にすぎない。社会学の基礎的な人間観を理解させられるような至言である。


2016年1月16日土曜日

【第538回】『ソース』(マイク・マクマナス、ヒューイ陽子訳、ヴォイス、1999年)

 本書を読むのは三度目であり、いずれも興味深いタイミングで読んでいる。初めて読んだのは最初の会社を辞める直前であり、モヤモヤとしながらも自分がやりたいことに進もうと決意しつつある時期である。二回目は、修士課程に進んだものの修士論文に着手できておらず、研究のプレッシャーから逃れたいという想いと相俟って精神的に不安定な時期であった。今回はそうしたシリアスな背景があってというよりは、南国でのワークの題材を探している時に、いろいろと考えた結果として本書に思い至ったという要素が大きい。しかしそもそもそうしたことを思いつくということ自体が稀有なことであり、本書には何かのきっかけを呼び起こす不思議なものがあるのではないか。

 セントレアから石垣までの飛行機の中でワークを考えたのであるが、これ自体が面白かった。こうしたプロセスの設計こそが、私自身にとって重要な「ワクワク」の一つなのであろう。ワークとは参加者の相互交渉を踏まえて柔軟に変化させるものであるのだから、予定していたものの全ては行わなかったが、他者との相互理解を進めるという目的に役立った点を記してみよう。

 ステップは二つだけである。一つ目は、「ワクワク」をリストアップすることである。具体的には、本書の136頁にある27の質問項目を用いた。お互いに質問をし合いながら出していくと良いだろう。その際には、回答内容を深掘りしたり、その意図を把握したり、具体化する質問を行うと効果的だ。

 こうして出てきた「ワクワク」の上位概念を導き出していくのが二つ目のステップである。20から30個の「ワクワク」を5個程度に抽象化していく。抽象化のプロセスにおいて話すことや、抽象化されたキーワードを眺めていると、お互いを自ずと理解できるのだから面白い。

 あくまで上記は私が実際に行った例にすぎない。本書を紐解いていただければ、他のやり方を思いつくこともあるだろう。パラパラとめくりながら、自分自身にあったワークを設計してみてはいかがであろうか。


2016年1月11日月曜日

【第537回】『草枕』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 数ある漱石作品のうち、最初に惹きつけられたのは本書であった。今となっては、なぜ魅了されたのか思い出せない。しかし、読んでいて心地が良いというシンプルな読書体験こそが、本書を繰り返して読みたくなる理由ではないか。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(Kindle No. 11)

 「智に働けば角が立つ」から始まる有名な冒頭部分も好きであるが、その直後に漱石が何を書いていたかということを不覚ににも失念していた。彼は、住みにくい世間においては、絵画や詩文といった芸術の効用が重要になると主人公に言わせている。もっと踏み込んで解釈すれば、なにも芸術家にそうした作用を一任する必要もないだろう。つまり、ある状況を客観的に俯瞰して捉え、抽象的に表現することを私たち自身が行うことで、不要な考えすぎを和らげたり重圧をそらすことができるのではないか。このように考えれば、人が持つ芸術的な感性を大事にしながら、ゆとりを持って生きることが肝要であることに私たちは思い至ることができよう。

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。ーー喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。(Kindle No. 31)

 事象のアンビバレンスに対する指摘が趣深い。たしかに、楽しい時ほど少しの失敗で苦しんでしまうものであるし、期待が大きければ大きいほど、うまくいかなかった時の落胆もまた大きくなるものだ。だからといって、失敗や落胆を恐れて楽しいことや期待を持たないようにする人生では、平々凡々とした張り合いのないものになってしまう。物事の両面を意識しながら、結果に一喜一憂せずに分を弁えて生きること。中庸にも繋がる、人世を味得する考え方ではないだろうか。

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。(Kindle No. 217)

 自分自身を客観的に捉え、物事の二面性を意識することの実践がこうした行動として現れる。その行動の様は、自然と調和していると漱石はしており、やや大げさな表現を用いれば、一つの理想的な生き方や認識のあり方と言えよう。

 余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。(Kindle No. 1392)

 物事を客観的に捉えるということは、物事をあるがままに捉えるということを意味するのであろう。そこに価値判断は必ずしも入らないし、価値判断を下すことによって執着するのであれば、それは自分自身を苦しめることに繋がる。したがって、ただ単に物事を客観的に捉えることを私たちは心掛けたいものである。

 茶色のはげた中折帽の下から、髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
 「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(Kindle No. 2731)

 本作の最後のシーンである。別れた夫との離別の情景において、那美は、日頃の飄々とした作為的な態度ではなく、自然とした心底の態度を表に出す。そうした様をして、漱石は主人公に「憐れ」の現出を指摘させる、美しいラストシーンだ。

『私の個人主義』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
『こころ』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

2016年1月10日日曜日

【第536回】『夢十夜』(夏目漱石、青空文庫、1908年)

 不思議な作品である。著者名を知らずに読んでいたら、漱石と気づけた自信が全くない。短編小説であり、すぐに読み切れるが、一つひとつを理解しようとすると時間が掛かるものだろう。

 そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。(Kindle No. 107)

 第二夜からの引用である。侍が決められた時間までに悟りを開こうとあらゆる努力を尽くす。悟れないことに苦しみながら、悟ろうと意識をし続けた挙げ句、行動に夢中になって無意識の境地に至る。これが悟った状態なのかどうか、漱石は何も述べない。悟ったとも言えるかもしれないが、そこまでは至っていないようでもある。いろいろなことを考えさせられる作品だ。


2016年1月9日土曜日

【第535回】『論語 真意を読む』(湯浅邦弘、中央公論新社、2012年)

 近年発掘された史料も踏まえながら、論語に込められた意味を解釈しようとする力作である。論語という古典に対して果敢に取り組もうとする著者の意気込みに感銘を受ける。

 師弟関係によって結ばれていた孔子と弟子たちは、「学」を手段として向上を求めた。『論語』は、単なる道徳の書なのではない。彼らが必死に追い求めた「上達」の理念と方法を記す書だったのである。(143~144頁)

 社会的な集団とは、利益の獲得を同じくするもの、宗教を同じくするもの、政治的な志向が共通するもの、武によって何かを為そうとするもの、といったものがほとんどである。そうしたものと比して、孔子による集団は学ぶことによる人間的な向上を同じ目的として成り立っていた集団であることを考えると、その特異性に改めて気づくことができる。

 感動を強要するような読書には弊害も認められる。孔子は聖人だ、だからその言葉もすぐれている、という前提での読書は、『論語』を道徳の書として読むにはいいとしても、『論語』を鋭く読み解くための方法とはならない。(204頁)

 孔子やその集団の凄さに刮目するべきでありながらも、論語を絶対的な存在として読み解くことを著者はよしとしない。むしろ、論語を尊重するためにも、私たちが心して取りかかるテクストとして取り扱うべきなのであろう。論語を大事にして読み続ける人間こそ、この言葉を重く噛み締めて、論語に対して真剣に取り組みたいものだ。


2016年1月3日日曜日

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

 空海の人生の足跡を、著者が史実を基にしながら想像し、紡ぎ上げた歴史小説である。思想家がどのようにして思想家になるのかを辿る足跡は、人のキャリアを辿ることと同じような趣深さがある。

 空海の思想家としての性格は、むしろあざといばかりに煩瑣な美を愛する傾向があり、のちにかれが展開する密教とも、このことは濃厚につながりがあるであろう。(上巻・272頁)

 思想というものは、論理の積み上げと予期できない跳躍との組み合わせから成り立っているという印象を持っている。空海におけるそれは、唐での留学によって学んだものが礎となりながら、彼独自の美意識によって創り上げられたのであろう。

 かれはこの時代にあっては稀れといえるかもしれない比較哲学の徒である一面をもっていた。好みとしても能力としても、かれが思想の比較に関心をもち、そのことに卓れてもいたことは(中略)想像しうる。祆教の教義を聴きつつ、かれはその脳裏においてつねに何ごとかとの比較をしきりにおこない、検すがようにしてきいていたであろう。繰りかえすようだが、比較は空海のもっとも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。(上巻・337頁)

 比較とは学問における作用であり、思想や宗教において比較がされるものとは意外な感もある。しかし、何かを生み出すという知的作用においては、比較という態度は自ずとされるものであり、空海の場合にはそれが顕著であったということであろうか。


2016年1月2日土曜日

【第533回】『悪の力』(姜尚中、集英社、2015年)

 私たちの耳目に膾炙する悲惨な事件の数々。そうした事件を起こす犯人に対して、日常的には冷静なタイプであると自身を分析する著者が、憤りを感じざるを得ない心的情況に驚いたことで、悪を考察したいと考えて著したのが本書の執筆動機であるという。

 「必要悪」という言葉がいみじくも表しているように、悪とは、私たちの中に可能態として潜む存在である。こうした考え方に則って、悪がなぜ暴力的なかたちで顕在化してしまうのか、以下のように解説している。

 さまざまな価値が相対化される私たちの社会の中で、これまで考えられなかったような原理主義や反知性主義が、なぜここまで台頭してきているのでしょうか。
 それはやはり、私たちが空虚さに耐えられないからです。
 自分たちがどこに拠って立っているのかわからない。善悪を含めてしっかりとした基準や価値が欲しくても、それが非常に曖昧になっているので、何を信じていいのかわからない。(中略)
 悪というものは、こうした善悪の基準が曖昧になった、「何でもオーケー」の世界が大好きなのです。悪は空虚な存在にするりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのです。そして個々人の持つ身体性、生きている実感をさらに奪っていき、そうして広がっていく虚無の中で、世界をぶち壊したい、人を傷つけたいという破壊衝動を育てていくのです。(55頁)

 ポストモダンが唱えられてから半世紀以上も経ち、価値観が相対化された社会という文脈が当り前のように共有される時代となった。そうした相対的な価値観に根ざした社会においては、自分自身が当座において何かにコミットするという意志が求められる。そうした意志を下せない人にとっては、他者から絶対的な何かを提示されないと不安に思ってしまう社会であるとも言える。あれもこれも選べる状態というのは、主体的な意志を持たない人にとっては、あれもこれも選べない状態だ。こうして、自身で主体的に選択できない人の心の中に生じる空白のスペースに悪が顕在化していく、という説明は感覚的に理解できよう。

 悪とは何かといえば、世界と自分への嫌悪が外側に転嫁したときに生まれる暴力や破壊行為です。それは他者のみならず、自らをも破壊していくのです。(160頁)

 悪とはなにも他者に向けたベクトルのものではなく、自分自身にもベクトルは向かっている。<異常>な殺人やテロリズムは、<異常>に増えた自殺と同じ問題におけるコインの裏表にすぎない。

 人間の中にはどうしようもない空虚があり、虚無があるものである。だからこそ、喜怒哀楽の中に営まれる人間の日々があるのだと、漱石は世間の細部を描いて見せました。しがらみにとらわれた人間の日々の暮らしを、漱石は達観して、喜劇だと言いました。
 しかし、悲劇が起きたとき、その喜劇の本質があぶり出されるのです。悲劇はさまざまな形で、日常の平穏を奪っていきます。それは親しい人の死であったり、突然の解雇であったり、いわれのないいじめであったり、あの『変身』のグレゴール・ザムザの身に降りかかったような理不尽で不条理な出来事であったりします。その不安も虚無も、漱石は冷静に見つめ、その悲喜劇の中でこそ、人間は共に生きる意味があるのだということを示したかったのではないか。(172~173頁)

 外化し得る悪を内包しながら、いかに生きるか。悪事を為さないように内に籠るのではなく、むしろ世間という外部と相互交渉を行ないながら、内観して自身をコントロールすること。私たちが現代社会で生きていくうえで大事にしたい考え方である。


2016年1月1日金曜日

【第532回】『こころ【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

 不朽の名作。読むたびに考えさせられるポイントが少しずつ異なるのがまた面白い。今回は王道の読み方を、つまり「先生」がなぜ自殺を選んだのかに焦点を当てて読み進めた。結論としては最後の決断が分からないままであるが、仮説的に解釈を試みてみる。

 私は奥さんの態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父に欺かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑み込めなかったのです。(Kindle No. 2753)

 そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互い違いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。(Kindle No. 2769)

 「先生」は様々な事象や相手に対して、二つの態度が行きつ戻りつを繰り返しているようだ。「お嬢さん」の母親が、「先生」が「お嬢さん」に近づくことを許容しているのか否定しているのか、と「先生」が思い悩む上記の引用箇所に典型的に表れている。つまり、一つの態度としては、ある事象を合理的に解釈しようとして、いずれが真なる事実であるかを判断しようとする。そうした態度で悩み続けると、必ずしも真なる事実という唯一無二の真実があるのではなく、多様な理由を人は同時に持っているということに気づく。しかし、この第二の態度でずっと落ち着くかというとそうではなく、それはおそらく何かを合理的に判断することで落ち着きたいという心境があるからであろう。そのため、第一の態度に戻ったり、また第二の態度へ移ったりと絶えず揺れ動く。客観的に書くと一見して無駄な作業のようにも思えるが、こうした態度は、現代に生きる私たちにも当てはまるのではないだろうか。それは自由の領域と手段が、広がっているからであろう。「先生」に関して述べれば、「お嬢さん」に対するものだけではなく「K」に対しても何に対しても、こうしたAと非Aの絶えざる往還関係に苦しんでいる。

 私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。(Kindle No. 4369)

 こうした往還関係は内的なプロセスであるため、それが永遠に続いている様子は、他者からは見てみることができない。その結果として、永続する揺れ動きに自分で自分を苦しめ、そうした苦しみを他者からは全く理解されていないように思えてしまうときがあるというのも首肯できる。しかし、こうした内的プロセスを遺書にして「私」に明かすという行為は、「私」に対しては理解と信頼を感じ取っているのではないだろうか。実際に、本書の最後の部分で以下のように「先生」は記している。

 私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。(中略)
 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。(Kindle No. 4485)

 「先生」は遺書の最後にこのように記して自ら命を絶つ。ここに至って、自殺を決断する最後のピースが分からなくなる。つまり、ここまで自分自身の懊悩を文章に認めたのであれば、生きているうちにそれを明らかにせずとも、自然に死を迎えた後に、それを「私」に渡せば良かったのではないか。それによって、自分自身の懊悩を浄化し、たった一人でも理解してもらえるという心的情況になり、生き続けることができたのではないか。

 明治という時代精神に殉じるということがこの前の部分で書かれているため、明治天皇の死と乃木希典の殉死をきっかけに時代精神を考えさせられ、それが最後の一押しになったことは頭では理解できる。しかし、私にはまだ納得しきれない。また改めて読み解くことで解釈を試みてみたい。