2016年1月9日土曜日

【第535回】『論語 真意を読む』(湯浅邦弘、中央公論新社、2012年)

 近年発掘された史料も踏まえながら、論語に込められた意味を解釈しようとする力作である。論語という古典に対して果敢に取り組もうとする著者の意気込みに感銘を受ける。

 師弟関係によって結ばれていた孔子と弟子たちは、「学」を手段として向上を求めた。『論語』は、単なる道徳の書なのではない。彼らが必死に追い求めた「上達」の理念と方法を記す書だったのである。(143~144頁)

 社会的な集団とは、利益の獲得を同じくするもの、宗教を同じくするもの、政治的な志向が共通するもの、武によって何かを為そうとするもの、といったものがほとんどである。そうしたものと比して、孔子による集団は学ぶことによる人間的な向上を同じ目的として成り立っていた集団であることを考えると、その特異性に改めて気づくことができる。

 感動を強要するような読書には弊害も認められる。孔子は聖人だ、だからその言葉もすぐれている、という前提での読書は、『論語』を道徳の書として読むにはいいとしても、『論語』を鋭く読み解くための方法とはならない。(204頁)

 孔子やその集団の凄さに刮目するべきでありながらも、論語を絶対的な存在として読み解くことを著者はよしとしない。むしろ、論語を尊重するためにも、私たちが心して取りかかるテクストとして取り扱うべきなのであろう。論語を大事にして読み続ける人間こそ、この言葉を重く噛み締めて、論語に対して真剣に取り組みたいものだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿