2016年1月24日日曜日

【第541回】『道楽と職業』(夏目漱石、青空文庫、1911年)

 漱石が職業について何を語るのか。一筋縄にはいかないことを予想しながら読み進めてみても、やはり漱石節とでも形容できるような論旨展開である。

 人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままに問いういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。(Kindle No. 183)

 まず、人のために行うことが職業であるというシンプルな定義がなされている。その際に、徳義的な意味合いは関係がないと断言しているところがすごい。どんな内容であれ、他者のためになるためのものであれば、それは職業として成立する。しかし、それは、人のためにすれば職業として認められるのだから素晴らしい、としているのではないと見るべきであろう。人のためにするという要素を満たした上で、いかにそこに徳義的な内容を入れ込むかを私たちは自分自身で考える必要があるのではないだろうか。

 職業とか専門とかいうものは前申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強いてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦戦になるのはやむをえない。(Kindle No. 313)

 一つの特定のものを好んで行うことが道楽である。そうした道楽を他者のために行うとそれが職業になる。職業になると、それを専門に行って貢献し続けることが求められる。その結果、自分の発意ではなく他者ありきで行動するために、その楽しみが減衰しがちになるとともに、過剰にその専門性が増してしまう。職業の持つ限界と、しかし他方でその特異性が指摘されていると言えるのではないだろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿