2014年7月28日月曜日

【第313回】『聖書の読方 来世を背景として読むべし』(内村鑑三、青空文庫、1916年)

 聖書を解説する講義を受けるとその良さや味わい深さを感ずることができるが、聖書そのものを読むだけでは理解が甚だ難しいと感じてきた。そうした私のような非キリスト教徒にとって、近代日本における著名なキリスト者の一人である著者の手になる本書は、聖書の読み方に関するありがたいガイドブックである。

 聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解らない、聖書を単に道徳の書と見て其言葉は意味をなさない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。(Kindle ver. No. 4)

 まず、聖書をもとに現世における処世術として読むのではなく、永続する来世を生きるという上でのガイドブックとして読むべし、としている。このように捉えれば、聖書に時に描写される極端に不幸な出来事についても、なんとなく理解することができる。現代の視点で、現代での救いや幸福として捉えてしまうと理解不能に思えることでも、それを来世という視点で捉えることで希望を読み取れるのであろう。

 勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充溢れて居る、則ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書なることを、来世抜きの聖書は味なき意義なき書となるのである(Kindle ver. No. 182)

 来世を想定しないと理解できないばかりではなく、聖書を読む意義すらなくなると著者はここで明言している。現在や近い将来ばかりを重視しがちな私たちにとって、こうした著者の視点は新鮮であるばかりでなく、重要なことを伝えているように思える。来世を考えるということは、自分自身という軸だけではなく、自分たちがこの世にいない未来永劫の社会や環境に想いを巡らすことにも繋がる。そうした視点に立って、現代の自分たちの生活を省みることは大事な視点だ。

 而して今時の説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存ることなく、神の道を混さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを(哥林多後書五章十八節以下)。(Kindle ver. No. 211)

 聖書をもとに来世ではなく現世における事象を説くとどうなるか。著者は、自説を説くために聖書を用いるという論法をとってしまうことに警鐘を鳴らしている。これは、聖書に限ったことではないだろう。私たちは、自分自身の主張の正当性を担保しようとするために、他者が批判しづらい書物や主張を援用しようとすることがある。自戒を込めて、著者の警句に耳を傾けたい。

2014年7月27日日曜日

【第312回】『葉隠』(和辻哲郎・古川哲史校訂、岩波書店、1940年)

 三島の『葉隠入門』(『葉隠入門』(三島由紀夫、新潮社、1983年))を読んで興味を強く持った本書。恥ずかしながら、文体がやや古いために一筋縄で読み進めないのであるが、そうであるが故にゆっくりと読めて良いのかもしれない。

 奉公人は一向に主人を大切に歎くまでなり。これ最上の被官なり。御当家御代々、名誉の御家中に生れ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からざる事に存じ奉り、身心を擲ち、一向に歎き奉るばかりなり。この上に、智慧・芸能もありて、相応相応の御用に立てば猶幸なり。何の御用にも立たず、不調法千万の者も、ひたすらに歎き奉る志さへあれば、御頼み切りの御被官なり。智慧・芸能ばかりを以て御用に立つは下段なり。(聞書第一・三)

 志の大切さを説いた箇所である。ともすると私たちは既に有している知識や技能にあぐらをかいてしまう。その上で、パフォーマンスや結果を出しさえすればそれで良いと考えてしまいがちだ。むろん、行動や結果も大事であろうが、それよりも、私たちの意識の裡にあるvalueやintegrityに目を向けること。大切にしたい考え方である。

 何某、当時倹約を細かに仕る由申し候へば、よろしからざる事なり。水至つて清ければ魚棲まずと言ふことあり。藻がらなどのあるゆゑに、その蔭にかくれて成長するなり。少々は、見のがし聞きのがしのある故に、下々は安隠するなり。人の身持なども、この心得あるべき事なり。(聞書第一・二四)

 中庸を説いているのであろう。組織のリーダーやマネージャーとして、正しいことを正しく伝えようとすることは適切な行為である。しかし、それが行き過ぎると、組織で働く同僚や部下としては働きづらいという側面がある。時に、冗長さを持たせたり、積極的なdelegationを行なうことも、組織のマネジメントにおいては重要なのだろう。

 たとへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に傍目八目と云ふが如し。念々知非と云ふも、談合に極るなり。話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く爲なり。(聞書第一・四四)

 本を読んだり、話を聴いたりする時に、私たちはよく自分の理解している枠組みや概念でそれらを捉えてしまいがちだ。しかし、それでは新たな認識を得るということは難しい。そうではなく、自分の分別を一旦脇に置き、話し手や書き手の視点で物事を見てみること。そうすることで、新たな認識を得たり、自分自身の価値観の変容が為される。

 卑下の心もこれなくして果すなり。柳生殿の、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。」と申され候由。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上ぐる事なり。これも果はなきといふ事なり」と。(聞書第一・四五)

 自分自身を厳しく見ることは有用であろうが、徒に卑下し過ぎるということも問題だ。自分が悪いと言うことは容易であり、他者から一定以上に否定されることを忌避することができるため、内省が進まない。他者と比較して自身を卑下するのではなく、過去の自分自身と比較することで内省しながら一歩踏み出す。

 徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎いそがしきことなし。小人は、静香なる所なく当り合ひ候て、がたつき廻り候なり。(聞書第二・一〇四)

 自戒を込めて読みたい箇所である。忙しすぎることは徳がない人の行なうことである。

2014年7月26日土曜日

【第311回】『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人、講談社、1990年)

 ここ半年の間に漱石を何冊か読んだことと、著者の『探究Ⅰ』(『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年))『探究Ⅱ』(『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年))を読んだことから、本書をもう一度読み直そうと思った。点と点が結びついて線分になり、線分と線分とが交差して平面を形成するように空間が拡がる感覚は、読書の醍醐味の一つである。

 ひとりの思想家について論じるということは、その作品について論じることである。これは自明の事柄のようにみえるが、必ずしもそうではない。たとえばマルクスを知るには『資本論』を熟読すればよい。しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法的唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにはならない。“作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの意味である。(9頁)

 ロラン・バルトやジャック・デリダといった人々が提唱したテクスト論に拠って論じることを著者は冒頭で述べる。経営学における先行研究では、著者の過去の著作を念頭におきながら、論文を位置づける作業が求められる。そうした一連の作業に慣れているからか、改めてテクスト論を考えると興味深かった。学問領域によって作品や論文の読み方は異なる、という極めて自然なことに自明であることが大事であろう。

 以下からは、本書の中でもとりわけ漱石について論じている章を中心に、考察を進めていくこととしたい。

 興味深いのは、近代小説がイギリスの十八世紀において新聞の発達とともに生れてきたという事実である。新聞の「三面記事」と小説は双生児なのだ。それらは、新しい読者すなわち市民の欲求とイデオロギーを充たすものとして生れてきた。(188頁)

 近代小説の<誕生>は、その主たる読者層を貴族や王族を市民階級へと変えることと時を同じくしたと著者はしている。それは西洋近代における動きだけではなく、その後に近代化を成し遂げた日本でも同じ動きが生じた。

 むろん漱石は、作品において、「中間階級」としての人間の葛藤ーー自然と規範にひきさかれたーーをあたうかぎり描いている。彼は一方で「自然」の衝動を肯定せねばならず、他方でその結果としての「罪」をまぬかれないという背反をくりかえし書いたのである。(189頁)

 漱石が新聞小説を盛んに書いたことは有名だ。勃興する市民階級が目にする新聞というメディアにおいて、近代小説の主たる担い手の一人である漱石の小説が掲載される。書き手と読み手との相互交渉の結果として、日本における近代小説は<誕生>したのである。

 では、近代小説の書き手としての漱石の意識はどのようなものであったのであろうか。

 漱石は二つの「文学」を挙げているようにみえる。一つは漢文学あるいは俳句であり、これは彼にとって自然で親和的なものだ。もう一つは英文学であって、これは彼にとって居心地の悪い何かであり、彼を「何となく欺く」ものである。(中略)漱石の言葉でいえば、前者は「父母未生以前本来の面目」に触れる何かであり、後者は、いわば父母(家族)という制度に似た何かである。(204頁)

 文学に対する漱石の意識は、二つの相反するものから成り立っていたと著者はする。一つは生まれる前から育まれている日本文学であり、もう一つはア・ポステリオリに自覚的に学ばれた西洋文学である。

 親子の“自然さ”は、始源的なものでなく、派生的なイデオロギーである。それは根源的にとりかえ可能なものであり、そのためにこそ、未開社会へ行けば行くほど、より厳格な親族の「制度」が存在するのだ。動物の世界では、とりかえがとりかえとしてありえない。
 漱石の生涯の「不安」は、このような「とりかえ」の根源性を察知せざるをえなかったところからくるといってよい。彼には、アイデンティティはありえない。なぜなら、アイデンティティとは、制度の派生物を“自然”として受けとることにほかならないからである。(中略)
 漱石の「不安」は、いうまでもなくそのような “自然” の欠如にある。しかし、彼の本領は、そのような“自然”に慣れたのではなく、そのようなものがもともと存在しないのではないかという疑いにある。(207頁)

 二つの相反する意識のどちらにも、漱石は自分自身をアイデンティファイすることができなかった。西洋文学という制度を受け容れられなかっただけではなく、日本文学という制度も受け容れられなかった。どちらもアイデンティティでないということは、「とりかえ」る主体がないということになる。アイデンティティに対する不安感は、漱石の小説のテーマにも表れる。

 三角関係はけっして特殊なものではなく、あらゆる「愛」ーーあるいはあらゆる「欲望」は三角関係においてある。むしろ、「関係」そのものが三角関係として生ずるのだといってもよい。したがって、漱石が三角関係の問題に固執したことに、とくに実際の経験を想定する必要はない。重要なのは、漱石が三角関係をそのようにとらえたということである。そのような三角「関係」において、誰に責任があるのか。誰にもない。「人間」にはない。フロイトがいったように、「人間」こそそのような関係において形成されるのだからである。漱石の小説の主人公たちはあらかじめ予想だにしなかった自分を突然のようにみいだしている。関係が彼らを形成し、彼らを強制するのだ。だが、この関係を関係たらしめているのは、結合の恣意性と同時に、その排他性である。一人の男が勝利すれば、他の男は消えねばならない。言語の体系において、この排他性は徹底している。しかし、この選別と排除の原則こそ制度(体系)に固有のものなのである。いいかえれば、制度そのものがつねに三角関係を形成する。(209~210頁)

 拠り所となる存在がない不安感は、関係性をもとにして存在感を得ようとする作品に表れる。その関係性を、漱石は三角関係として描き出している。漱石の小説の場合、三角関係の結節点となるのは女性であるが、その女性を悪意のある存在として漱石は描かない。三角関係という関係性の中に不安定に揺れ動くアイデンティティの萌芽を描き出したかったのであろう。

 漱石が拒絶するのは、西欧の自己同一性(アイデンティティ)である。彼の考えでは、そこには「とりかえ」可能な、組みかえ可能な構造がある。だが、たまたま選びとられた一つの構造が「普遍的なもの」とみなされたとき、歴史は必然的で線的なものにならざるをえない。漱石は西洋文学に対して日本の文学を立て、その差異と相対性を主張しているのではない。彼にとっては、日本文学のアイデンティティもまた疑わしい。彼には、西欧であれ日本であれ、まるで確かな決闘としてあるかのようにみえるものを認めることができなかった。いいかえれば、自然で客観的にみえるそのような「歴史主義」的思考に、彼は「制度」をかぎとったのである。したがって、彼は文学史を線的にみることを拒む。それは、組みかえ可能なものとしてみられなければならない。(225頁)

 西洋文学にも、日本文学にも漱石は自分自身のアイデンティティを見出すことはなかった。西洋文学と日本文学と漱石。そこには、彼が小説の中で描いた三角関係が表れているようだ。どちらにも制度に基づく自然さを感じられず、不安の中で漱石は近代小説を書き続けたのである。


2014年7月21日月曜日

【第310回】『憲法の創造力』(木村草太、NHK出版、2013年)

 改憲論が喧しい現政権の動きをメディアで目にすることが多くなった。そうした状況において、日本国憲法にもう一度触れようと思い最近の本を検索したところ、著者の一連の著作を見つけた。決して多いとは言えない著者のfirst nameを見た時に「もしや」と思ったが、やはり高校の同級生であった。同じクラスで学んだことはないために数回しか話をしたことがない間柄ではあるが、同級生の活躍というのは刺激を受けるものである。

 まず、憲法というものの存在について著者は説明を試みる。

 団体とは、要するに、共通の「ルール」に従う「人の集まり」である。「ルール」と「人」の二題要素のうち、「ルール」は頭の中にしかないが、「人」は目に見えるし、触ることもできる。団体の「正体」を、「ルール」だと見るのが擬制説、人間という「実在」だと考えるのが実在説だが、団体の「正体」などという怪しげなものを観念する必要はなくて、擬制説と実在説は同じものを右から見るか左から見るかの違いにすぎない、と評価するのが筆者の立場である。
 さて、国家も団体の一種であり、それを成立させるルールと、そのルールに従う人々から成り立っている。このうち、国家の領域範囲や王位継承の方法、裁判手続の内容、軍隊の指揮権の所在など、国家を成立させる「ルール」の方を「憲法(constitution, Verfassung)」(専門用語では「実質的意味の憲法」)と呼ぶ。また、「憲法』の主要部分を明文化した文書は、「憲法典」(専門用語では「形式的意味の憲法」)と呼ぶ。他方、ルールに従う人々のことを「国民」と呼ぶ。(20~21頁)

 端的に、憲法とは何か、その射程はどこにあるのか、について書かれた部分である。団体・ルール・人という三つの概念から、法学的な見地からの、国家・憲法・国民という概念を明らかにした、簡潔にして明瞭な説明である。

 以下からは、憲法を巡るいくつかの主要な論点についてみていきたい。第一に、国歌起立・斉唱命令について。

 本章の結論は、学校式典での国歌起立・斉唱命令は、先生方の思想・良心の自由の問題ではなく、労働環境としての安全配慮義務やハラスメント、差別の問題として考えるべきだ、というものであった。今後は、そうした命令を出す場合、先生方の思想・信条に十分配慮して、代替業務をお願いすべきだろうし、嫌がる先生に不必要に出された命令はパワハラとして違法無効と評価すべきである。また、そもそも文部科学省は、君が代のためを思うなら、学習指導要領を先に述べたようなより合理的な形に改訂すべきである。(51頁)

 国歌斉唱については、国旗国歌法が制定されて以降においても議論が沈静化することはないようだ。国歌を斉唱すること、その際に起立することを学校において強制されることに対して反発する教師は多い。そうした教師が拠って立つべき法的論拠は、憲法における思想良心の自由ではなく、民法における安全配慮義務やハラスメントにおいて行なうべきであると著者はする。起こっている事象をどのように法的な問題として定義するか、という考え方は、法律の門外漢にとっても非常に興味深い論理付けである。

 第二に政教分離について。

 日本的多神教の下では個々の神々の権威は唯一ではない。このため、国歌は、一定の時期(祭りの時期など)だけ、あるいは一定の事項(建設工事についての安心など)だけについて、「数ある神の一柱」を利用することができる。つまり、場当たり的で安易な宗教利用が生じやすいのである。戦中の日本政府が利用した「国家神道」も、戦争で死んだ兵士の追悼などを管轄するのみであり、人間の生活全般を包括的に支配するようなものではなかった。(134頁)

 一神教と比べた場合に、多神教が有する柔軟性は、政府による宗教利用が容易であるという点が挙げられると著者はする。多神教による宗教の政治利用の可能性について、私たちは自覚的になるべきであろう。そうした自覚に基づいた上で、政教分離の危険性について、私たちは検討を加えるべきである。

 第三は、9条問題についてである。政府解釈を援用すれば、9条は自衛以外の武力の行使を規制したものである。したがって、軍隊を持つこと自体が否定されているわけではない。その上で、著者は9条の意義を以下のように述べる。

 9条の意義は、核兵器と空母はダメ、軍という名前もダメという量的・形式的な規制をするところではなく、実力組織の構築や武力の行使について、常に、「それが自衛のために必要最小限度と言えるか」の説明を求めるところにある。(219頁)

 保有する武力が自衛のために利用される必要最小限度のものであるか否か、がその武力を保有する正当化するための要件となる。したがって、そうした抑制機能を有する9条を改正するということを基にして以下のような帰結を導くことは論理的であろう。

 憲法9条の実質的な改正とは、「必要最小限度性」についての説明責任を廃止することを意味する。それを狙う改憲論は、平和の脅威であり、政府・防衛関係者を含めた日本国民のこれまでの努力を放棄するもので、とうてい是認できない。(219頁)

 時に9条の改正が「改悪」であると言われるのはこうした理由によるものである。近隣諸国の持つ武力に対する自衛ということであれば、現在の憲法解釈でも行なえる。そうした自衛か否かの文脈を9条から外すということであれば、著者が鮮明に打ち出す9条改正は妥当であろう。こうした点を踏まえて、著者が結論として述べる以下の箇所は、日本国民一人ひとりが噛み締めるべきものであろう。

 日本が非武装を選択できる世界の創造は、終わりがないと思えるほど途方もない仕事かもしれない。しかし、世代を超えて受け継がなければならない仕事である。 
 憲法9条は、第二次大戦を直接経験した人々によって、大変な緊張感を伴い解釈され、論じられてきた。そうした解釈論や議論を、次の世代に受け継いでゆくことは、我々の世代の義務だろう。公正で合理的なルールの創造を促す力、個人が尊重される平和な世界を創造する力は、失われてはならない財産である。我々は、憲法の創造力を受け継ぎ、育んでいかねばならない。(224頁)


2014年7月20日日曜日

【第309回】『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1970年)

 上巻では第一部・第二部が扱われ、この下巻では第三部・第四部が収録されている。上巻に続き、ここにもニーチェの激烈な言葉が詰まっている。

 祈るのは、恥辱なのだ!だれにでもそうだというのではないが、あなたやわたしにとって、また知性の中にも良心が働いているものにとっては、そうである!あなたには、祈ることは恥辱なのだ! あなたには、よくわかっているのだ。あなたのなかの臆病な悪魔、ともすれば合掌し、むだな手出しはせず、平穏無事を願う悪魔ーーこの臆病な悪魔があなたに、「神はある!」と説きつけるのだ。 だが、そうすることによって、あなたは光を恐れる種族に加わってしまう。光のさすところでは、どうにも落ちつけない種族である。そこで、あなたはあなたの知性を、日ごとに深く、暗い霧のなかに突っこまざるをえなくなる!(62頁)

 困った時の神頼みという言葉を思い起こさせられる部分である。祈るときの状況について、冷静に客観的に省みることが必要であろう。祈ることによって、私たちの意識は自身から絶対的な他者へと移り、その結果として自身の良心の作用が弱まる。安易に他者に自身を委ねるのではなく、自身を強く保つことを、私たちは恐れてはならない。

 多くのことを中途半ぱに知るくらいなら、何もしらないほうがましだ!他人の思いすごしで賢者になっているよりも、自分の責任で馬鹿者であるほうがましだ!わたしはーー底の底までつきつめる者だ。 ーーその底の底が大きかろうと小さかろうと、それが何だというのだ?その名が沼だろうと天だろうと、それが何だというのだ?手のひらほどの底があれば、わたしとしては十分だ。もしそれがほんとうに根底になり基礎になりうるものであるなら! ーー手のひらほどの基礎。それだけあれば、ひとはその上に立つことができる。真の良心的な学問の世界には、大きなものも、小さなものもない。(185~186頁)

 学問について、研究について、考えさせられる言である。絶え間ざる実践を繰り返しながら、その知恵を抽象化し、理論へと繋げる。理論化の作用の結果として、私たちは基礎的な知を身につけることになる。こうした基礎的な知は、限定されたものではあれども、様々なものに援用可能なものである。さらには、抽象化と具象化という円環型プロセスを身につけることこそが、しなやかな応用可能性を高めることに繋がるだろう。

 あなたがたの能力をこえたものを欲するな!自分の能力以上のものを望む者は、悪質の虚勢をはることがある。(260頁)

 自分自身をあきらかに見極めること。仏教用語としての「あきらめる」を彷彿とさせる至言であり、思わずはっとさせられる言葉である。


2014年7月19日土曜日

【第308回】『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1967年)

 「いやはや、とんでもないことだ!この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」(14頁)

 あまりに有名な「神が死んだ」というニーチェの言葉が、冒頭から表れる。

 「そうなのです、ツァラトゥストラ、あなたの言うことは、真実だ。わたしが高くのぼろうとしたとき、わたしはわたしの破滅を求めていたのだ。そして、あなたこそ、わたしが待っていた稲妻なのだ!まったくそうだ、あなたがわたしたちのもとに姿を見せてからは、わたしの存在などは何だというのだ?あなたへの嫉妬こそ、わたしを打ちのめしたのだ!」(68頁)

 上昇志向はどこまでいってもきりがない。上り詰めようとすることは、皮肉なことに、自分の限界を見つけて叩き潰されようという意識と繋がっている。私たちはなぜ、自分自身の成長に意識を集中させてしまうのであろうか。プレッシャーからそうした気持ちになるのであろうか。いずれにしろ、その結果は、自分の無能に気づくだけなのであれば、そこに意味はあるのだろうか。

 認識の人は、自分の敵を愛するだけでなく、自分の友だちをも憎むことができなければならない。
 いつまでもただの弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜあなたがたは、わたしの花冠をむしりとろうとはしないのか?(132頁)

 単に仲良くすることが大事なのではない。師だからといって、敬愛するだけが大事なのでもない。相手を憎むことを許容した上で他者を受け容れる。そうした健全な緊張関係こそが必要なのであろう。

 力が慈しみとかわり、可視の世界に降りてくるとき、そのような下降をわたしは美と呼ぶ。
 そして、力強い者よ、誰にもましてあなたから、わたしはその美を要求する。あなたが慈愛に達することが、あなたの最後の自己克服となるように。(204頁)

 力強いだけでは他者に貢献できない。慈愛によって力強さを減衰させる。そうすることが、他者と社会に対して貢献できる美を表現できる。

『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)
『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)
『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1970年)

2014年7月14日月曜日

【第307回】Gary Hamel, “What matters now”

Based on this title, the author explains five factors which matter in current and near future surrounding business environments.

The title of Section 1 is ‘Values matter now’.

Now think about Michelangelo, Galileo, Jefferson, Gandhi, William Wilberforce, Martin Luther King Jr., Mother Theresa, and Sir Edmund Hillary. What were the ideals that inspired these individuals to acts of greatness? Was it anything on your list of commercial values? Probably not. Remarkable contributions are spawned by a passionate commitment to timeless human values, such as beauty, truth, wisdom, justice, charity, fidelity, joy, courage, and honor. (kindle ver No. 905)

It may be important for us to seek for economical value in our business. But, to win a lot of commercial value doesn’t keep on making us feel excited. From the broader and long viewpoint, seeking for our own human value motivates us strongly and deeply.

Section 2 is about innovation.

You have to start with observation because it’s the only way to illuminate the subtle nuances about how people actually get things done, or don’t get things done, and it’s these deep insights that lead to powerful new ideas. Intellectual experimentation is equally critical because there’s no way to generate real breakthroughs unless people are willing to explore a lot of options in a divergent way. Finally, rapid and inexpensive prototyping is the most efficient way to move an idea from concept to reality. By “building to think” instead of “thinking about what to build,” an organization can dramatically accelerate its pace of innovation. (kindle ver No. 1249)

Cited as above is the word said by Tim Brown, CEO of IDEO. When we think about innovation, we tend to be focused on output. But, according to Tim Brown, observation is the first and most important step to make some innovations.

Section 3 explains the importance of adaptability.

To be an adaptable company, it is needed for us to have adaptable mindset. There are four factors which the author suggests.

(1)Challenge AssumptionsTo uncover conventional beliefs, you have to challenge yourself to image how you might achieve unconventional outcomes. (kindle ver No. 2346)

(2)Invest in Genetic DiversityChange usually takes a catalyst, and the best catalyst in my experience is someone whose views and life experiences differ considerably from your own. (kindle ver No. 2365)

(3)Encourage Debate and Dialectic ThinkingThe best leaders are the ones who get the most options on the table before making a decision, and the most adaptable companies will be those that encourage folks to voice heretical viewpoints. (kindle ver No. 2365)

In section 4, passion is drawn as an important factor. To explain this factor, the author cites the case at BNZ, the Bank of New Zealand.

“The freedom to open when you want may not be the biggest thing we’ve done, but it’s the most symbolic in terms of telling people, ‘We trust you, and we’re serious about empowering you.’” (kindle ver No. 3131)

To be trusted is one of the most powerful passion and power to motivate employees.

The key message of Section 5 is ideology.

What you won’t find in either of these companies is a formal hierarchy, a trickle-down power structure, or employees who feel like serfs. What you will find is a dynamic balance of yin and yang, of freedom and discipline, of accountability and autonomy. (kindle ver No. 3460)

In order for us to adapt the changing business environment, there is no denying the essence of accountability and autonomy.


2014年7月13日日曜日

【第306回】『自由とは何か』(佐伯啓思、講談社、2004年)

 題名にもなっているように、自由とは何か、という問いに対して、積極的自由と消極的自由という二つの捉え方から考えることは有効であろう。

 積極的自由の実現は、ある種の全体主義を目指すという帰結を導きかねない。ファシズムも社会主義も積極的自由を徹底して追求した結果なのである。そもそも何かの正義や理想を目指す集団的運動は、多くの場合、それ自体が全体主義的性格を持った組織を作り上げてゆく。(86頁)

 自由を積極的に定義しようとする積極的自由の最大のデメリットは、それがファシズムをはじめとした全体主義へと堕する危険性である。正義を居丈高に唱えることによって、ある正義に基づく意識を絶対視し、それを認めない存在を否定する。そうすることによって、組織の内部を純粋化することにつながり、ファシズムへと至る危険性が生じるのである。

 「消極的自由」は多元的な価値を認める上で必要不可欠である。しかし、「消極的自由」を認めたからといってものごとが解決するわけではない。(中略)
 「消極的自由」はむしろ、和解しがたい神々の争いを引き起こしてしまうというべきかもしれない。とすれば、「自由」がその神々の争いに巻き込まれないようにすることが「自由」を擁護する者の務めであろう。それは決して「自由」を神の座に祭り上げることではない。自由を女神の座につけて争いに参上してはならないのである。その意味では、「自由」はあくまで消極的な条件であって、それ自体が至高の価値なのではない。(98頁)

 バーリンを引用しながら、著者は積極的自由に対する消極的自由を支持する。その理由として、多元的な価値を認める上で必要であることと、積極的自由が陥りがちないわば夜郎自大な態度にならないようにすること、の二点が挙げられている。

 著者はさらに、自由主義という考え方は、リベラリズムと一口にまとめられることが多いが、著者によれば四つの類型があるとしている。

 四つの立ち場についても、その背後にある「値する」という観念は、具体的な社会状況を離れて客観的に定義できるわけでもないし、また、逆に、あるものが、「自分はかくかくしかじかに値する」と主観的に自称できるものでもない。何をもって「値する」とみなすかは、その社会共同体の価値観を不可分なのである。だからこそ、上の四つの立場は、それぞれがリベラリズムを自認しながらも、四つの異なった等価性の観念を持ち出すことができたのである。(211頁)

 第一の類型である市場中心主義(188頁)における社会的価値観はどうであろうか。

 ここで想定されている社会とは、自分の能力やら運に基づくありとあらゆる機会を総動員して、市場のゲームに参加して勝つことをよしとする社会だ。競争に勝つという生き方を中軸的な価値とする社会なのである。(212頁)

 競争をゲームと見做し、市場でのゲームに勝つことが目指される。ここでは、市場におけるルールの公正さが求められ、ゲームの勝者は賞讃に値するということになる。

 第二の能力主義(189頁)について見てみよう。

 能力はその人間の卓越性を示している。その意味で卓越性を示すことが社会的評価の基準になっている。このモデルの古典的典型は、たとえばベンジャミン・フランクリンのように、寸暇を惜しんで働き、創意工夫を行い、その結果として事業に成功して富豪になることである。(213頁)

 能力主義では、各人が保有する能力に基づいて、努力の結果として卓越した成果を出すことが評価される。結果として市場で勝つという市場中心主義とは異なり、各人の能力の発揮が求められる考え方である。

 第三は福祉主義(189頁)である。

 考えてみれば、たまたま彼がある種の能力を授かっただけのことで、能力とは、本来、社会の共有財産、共通資産とみなすべきものである。だとすれば、それを社会に還元することにこそ意味がある。いってみれば、競争における勝者は、社会に対する奉仕・還元の義務を負っている。(213~214頁)

 結果と過程という違いはあれども、市場中心主義と能力主義では個人の市場における勝利ということが評価された。それに対して、福祉主義では個人の能力とは個人のものではなく社会のものであるとしている。したがって、なんらかのかたちで市場で利益を得た者は、それを個人のものとして保有するのではなく、社会に還元するものであると福祉主義では考えるのである。

 第四は是正主義(191頁)である。

 社会的な能力の発揮は、彼が意義ある存在として社会的に承認されることを意味している。能力の発揮は、彼が社会的に承認を得る重要な手続きとなっているのだ。それゆえ、貧しいからといって福祉給付に頼って生きるのでは十分な社会的承認を得ることはができない。それはそもそも己の能力を発揮しようとしていないことになる。これでは、社会的な承認に基づく尊厳を得ることはできない。(215頁)

 個々人の能力に生来の差について、各人が多様な能力の発揮によって是正できるように間接的な支援を行なうことで、効力感を得てもらおうとする考え方である。たとえば、大学入学におけるアファーマティヴ・アクションは是正主義に基づく施策の一例である。

『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)

2014年7月12日土曜日

【第305回】『発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野(物理・化学)』(滝川洋二編、講談社、2008年)

 本書は、中学の検定教科書における物理と化学分野の内容を要約し、そこから発展させた内容を簡潔にまとめた、さすがはブルーバックスと言いたくなる意欲作である。中学の理科は理解していたように記憶していたが、忘れている部分もあった。また、中学時代に暗記に頼り過ぎた結果、本質を理解していない部分もあった。そうした部分を気軽に学び直す上で、非常に役に立つ書籍である。以下から述べる所感は、自分への学びの備忘録であることをご理解いただきたい。

 音波の山と山の間隔が狭まれば振動数は多くなり、音は高くなります。音階でいうと、救急車の速さが時速50~60kmの場合、だいたい半音高くなります。逆に進行方向の後ろ側では、振動数が少なくなって、音は半音低くなります。
 このように、運動している物体から出る音の振動数が、進行方向の前方と後方とで変化する現象が音のドップラー効果と呼ばれるものです。
 音源のほうが運動するのではなく、音を聞く側が運動している場合も、ドップラー効果は起こります。電車に乗って踏切を通過するとき、踏切の警報音の高さが変化して聞こえるのがその例です。(72頁)

 ドップラー効果については、なんとなく学んだ気もするが、音波との関連できちんと理解していなかった。こうして読み直すと、説明できるレベルにまで理解できる。

 そこで新たに提起されたのが、有機物に共通して含まれている「炭素」に注目し、炭素を含んでいる(骨格とする)物質を有機物とするという定義です。(120頁)
 有機物の種類は多様ですが、どれも炭素原子でできた骨格に他の原子が結びついてできていることから、共通の性質が見られます。検定教科書のエッセンスでふれた「熱すること、こげて炭(炭素)になったり、二酸化炭素が発生したりする」という性質は、有機物が炭素の骨格からできているためにもつ性質です。(122頁)

 大変恥ずかしながら、医薬品業界にいながら、有機物(有機化合物)の定義として炭素が含まれている物質ということを失念していた。研究開発に従事する同僚の会話に有機という単語自体がよく出てくることはあるが、その内実を理解していなかったのである。

 O原子を「酸素」と表現しますが、これは質量保存の法則の提唱者であるラボアジエが、硫酸などに酸素が含まれていることから酸の素と勘違いして命名したことによります。酸性を示すのは、正しくはH+イオン(水素イオン)だったのです。(372頁)

 酸性を示す物質が共通して保有するのは水素イオンであり、アルカリ性の物質が共通して持つのは水酸化物イオンである。そう書かれている部分を読むとそうだったように思えるが、今さら他の人に聴きづらい基礎的なことである。

Newton別冊「わかる時空」(ニュートンプレス、2010年)

2014年7月7日月曜日

【第304回】『模倣犯(五)』(宮部みゆき、新潮社、2005年)

 物語が終わってほしくない気持ちもある一方で、しかし早く結末を知りたい気持ちもある。最終巻を迎える今の心情だ。

 「身に降りかかった不幸を何とかするために悪戦苦闘するのは、ちっとも悪いことじゃないよ」(95頁)

 自身の家族への不幸な事件に責任を感じ続け、自分を責め続ける少年に対し、同じような境遇の老人が諭す言葉である。事件の責任を受け容れるという重大な決断をしつつも、受け容れるだけではなくアクションを起こすことを提案する。

 「あんたはいつだって何かやろうとしてきたんだ。あんたの身に降りかかった災難から立ち直るために、何か道がないかって、ずっと探してきたんだ。その一瞬一瞬は、いつだってあんたにとっては正しい方向を向いていたんだよ。だけど、ちょっと続けて苦しくなると、すぐにそれが間違ってたような気分になって、やっぱりあれはホントじゃなかったっていい始める。まるで、いちいち“あれは本当のことじゃないです”って断らないと、誰かに叱られるとでも思ってるみたいだ。誰も叱りゃしないよ。だって、あんたの人生はあんたのものなんだから。過去の災厄だけがあんたのものなんじゃなくて、これから先の人生だってあんたのものなんだ。誰にもお伺いをたてたりせずに、自分のためになることを自由に考えていいんだよ」(99頁)

 動くことをしないわけではない。しかし、動いてみてそれが意に添わない結果となると継続できなくなる。そればかりではなく、それが自分自身への責めということにつながり、内に籠ってしまう。

 「あんたはもう、逃げ回るのをやめた」と、有馬義男は言った。「それは偉い。立派な決断をした。だがな、ぶたれるのが嫌で逃げていたのをやめて、ただぶたれるのに任せることにしたというだけじゃ、やっぱり駄目だ。ぶたれてぶたれてぶたれ続けて、良いことなんかあるわけねえだろ。だから、逃げずに留まって踏ん張るなばら、もう彼女にぶたれるのもやめて、言い返してやんな。そうだよ、僕は自分で自分を責めてる。自分に責任があると思ってる。そうじゃないって言ってくれる人もいるけど、やっぱり自分では責任があるように思えて仕方がない。だから、充分に自分で自分を傷つけてる。だけどこれからはもう違う。どうしたら自分を傷つけるのをやめられるか、それを考えてる。今はまだどうしたらいいかわからないけど、一生懸命考えてる、と」(103~104頁)

 どう解決できるかわからなくてもいい。ただ、自分自身がどのような状態で苦しんでいるかがわかっていて、苦闘しながらそれに取り組もうとするだけでいい。これは、少年への言葉を通じて、老人が自分自身へと語っているようにも取れる。だからこそ、読者に伝わってくるものがある。この言葉を受け容れながら、苦しみをさらに吐露する少年に対して、老人はさらに語りかける。

 「そしたら言ってやれ。僕が僕自身の心の傷と罪悪感とどう折り合いをつけるか、その方法は自分で考える、だからあんたの指図は受けないって。あんたもあんた自身の傷をどう癒すか、自分で考えろ、あんたの親父をだしにするな、とな」(104頁)

 相手に対するリアクションではなく、自分自身に対するプロアクティヴな行動。それによって自分が過剰に意識してしまう責任に対する折り合いをつける。

 長くは泣かなかった。多くも泣かなかった。それでも安心して涙を流せることの喜びに、ただじっと丸くなっていた。この涙は今までのそれとは違った。頬を焼きもせず、こみあげるときに真一の心を削るようなこともなかった。(105頁)

 驚くような解決策が提示されるわけではない。むしろ苦しみもがく道へのはじまりにすぎない。それは、考えようによっては絶望の淵に自覚的に立っているだけにすぎないだろう。しかし、自分自身のありように納得する瞬間というものは、その内容がどのようなものであれども、尊いものである。その後、物語の最後のシーンで、少年は自身の家族を惨殺した殺人犯を父に持つ少女に対して宣言を行なう。

 「嘘をついて気が済むなら、つけよ。俺は平気だ。自分のしたことは、自分でちゃんとわかってるから。それにーー」 「それに?」 「本当のことは、どんなに遠くへ捨てられても、いつかは必ず帰り道を見つけて帰ってくるものだから。だからいいよ。俺は俺でーーこれからの自分のこと、考えるから」(490頁)

 本作の第一巻の所感において、近時におけるPC遠隔操作を用いた事件に衝撃を受けて本作を読み直したと書いた。さらに、第三巻の投稿では、共犯者と偽装された共犯者とが死に至るシーンが以前に読んだ際のハイライトであったと記した。しかし、今回、改めて本作を読み直して私が興味関心を抱いたのは、一家を惨殺されつつも自分自身がその事件を引き起こしたと思い悩む少年であった。少年の心の葛藤と、彼を取り巻く人々とのやり取りを通じて、葛藤と折り合いをつけようとする姿勢に心を打たれた。

2014年7月6日日曜日

【第303回】『模倣犯(四)』(宮部みゆき、新潮社、2005年)

 「いいか、よく覚えとけ。人間が事実と真正面から向き合うことなんて、そもそもあり得ないんだ。絶対に無いんだよ。もちろん事実はひとつだけだ。存在としてはな。だが、事実に対する解釈は、関わる人間の数だけある。だから、事実には正面も無いし裏側も無い。みんな自分が見ている側が正面だと思っているだけだ。所詮、人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないんだよ」(167頁)

 真理である。そして、重たい。

 こうして新年はやってきた。時間の矢の行く先は定まらず、誰にも見えないけれど、それが動いていることだけは確かなのだ。(324頁)

 不安な気持ちと、そうした気持ちが様々な関係者の中で蓄積する様子が垣間見える。

 「私だって知りたいよ。連中がなぜ鞠子を殺したのか知りたいよ。そのとき何を考えていたのか知りたいよ。殺した後にどう感じたのか知りたいよ。一瞬だって、鞠子のことを可哀想だと思わなかったのかどうか知りたいよ。だがね、それは、あんたのような赤の他人の“解説”として知りたいんじゃない。あいつらの声で、あいつらの頭で考えたことを聞きたかったんだ。生身のあいつらにしゃべらせたかったんだ。“解説”なんてもんは、どんなによくできていようと、筋が通っていようと、しょせんはお話だよ。作り話だ。そんなもんじゃなくて、どれほど支離滅裂だろうとも、私はあいつらの声が聞きたいんだ」(372~373頁)

 孫娘を殺された祖父が、事件について書いているジャーナリストに対して放った言葉である。犯罪の被害者の家族が、犯罪者の言葉を聴こうと裁判を傍聴する様を見ていて、なぜ苦しくなる状況に自ら近づこうとされているのか、私にはよくわからなかった。しかし、著者の仮説であれども、彼(女)らがどのような心境を持っているのか、その判断軸の一つについては想像できそうな気がしている。

 「今はウソのように聞こえることでも、口に出したときはホントだったかもしれないよ。時間が経てば考えは変るからよ。だからって、前に言ったことが全部ウソだちゅうことにはならんだろ」(481頁)

 たしかに過去の自分の発言に責任を持つことは素晴らしいことなのかもしれない。しかし、あまりに責任を頑に持つことには問題もあるのだろう。ある時点では心から思って発言した言葉でも、状況が変わった段階から見たら不適切に思われることもある。

2014年7月5日土曜日

【第302回】『模倣犯(三)』(宮部みゆき、新潮社、2005年)

 本書を読むのは二度目である。最初に読んだ時に最もインパクトがあったのは、第三巻である本書の最後のシーンであった。人間が生み出すドラマがそこには展開されており、共感する点、おぞましさを感じる点、善が必ずしも懲悪に結びつかない点、など読み応えがやはりあった。

 それはたぶん、(ああ可哀想に)(気の毒に)という気持ちと、(うちの娘、うちの妹、うちの孫じゃなくてよかった)という気持ちが、同じ濃さ、同じ温度で混じり合うからなのだろう。そしてその混合物のなかに、(こういう犯罪者が現れて、いずれ誰かが殺されなくちゃならなかったとしても、狙われて殺される方にだって何かしら落ち度みたいなものがあったはずなんだ、だからうちの娘は、うちの妹は、うちの孫は大丈夫)という感情が、一滴、二滴と添加されている。だけれどその気持ち、そういう本音を外に出すことは申し訳なくてできないから、だから後ろめたそうな顔になってしまうのだろう。(12頁)

 犯罪の被害者と、そうした存在をニュースで見る第三者との決定的な違いが、ここにある。第三者は、犯罪被害者の責めに帰すべき事項を見出すことによって、自分の大切な存在がそのような目に遭わないという合理的な理由を用いて安心しようとする。その副次的な効果として、そうした犯罪被害者にも問題があるというレッテルを貼ることになる。ために、犯罪被害者とそれ以外の第三者とは共有できない大きな溝が生じてしまうのであろう。

 病室は、ひとりの人間が、自分はいかに孤独であるかということを、他人に対しても、自分自身に対してもさらけ出さねばならなくなる場所だ。いつもはドアを閉じ窓を閉めることで世間から隠している生の個人生活が、ここではいっぺんにむき出しにされてしまう。その結果、他でもない当の入院患者本人が、今まで自分の生活のなかで確実につかんでいると信じていた愛情や、築いていると革新していた人間関係が、ただの嘘や無関心や思いこみや勝手な期待によってつくりあげられた幻影に過ぎなかったということを目の当たりにして、絶望的な気持ちになってしまうことがある。(152~153頁)

 病院あるいは病室というしくみは、入院患者が日頃有している人間関係を明らかにする、と著者は述べる。さらには、そうした関係性を、身動きの自由が制限されて、一日中自分と向き合う患者の方々は嫌が応にも他者に晒され、考え続けなければならない。

 十月の残りは、ある日はダンスする少女のように軽やかに、ある日は死にかけたかたつむりのように鈍重に過ぎていった。(163頁)

 事件の進展のなさを詩的に表現をしている。こうした詩的な表現によって、一呼吸を置く効果を出すとともに、不吉な予感を演出するようにしているのであろうか。

 「本当の悪は、こういうものなんだ。理由なんか無い。だから、その悪に襲われた被害者やーーこの場合は気の毒な梅田氏だーーどうしてこんな目に遭わされるのかが判らない。納得がいかない。何故だと問いかけても、答えてはくれない。恨みがあったとか、愛情が憎しみに変ったとか、金が目当てだったとか、そういう理由があるならば、被害者の側だって、なんとか割り切りようがある。自分を慰めたり、犯人を憎んだり、社会を恨んだりするには、根拠が必要だからね。犯人がその根拠を与えてくれれば、対処のしようがある。だけど最初から根拠も理由もなかったら、ただ呆然とされるままになっているだけだ。それこそが、本物の『悪』なのさ」(178頁)

 本作を読み直そうとしたのは、連続殺人という事件を犯す人物の心理の奥底を見たいからであった。そしてその目的は、この箇所を読むことでかなりの程度が満たされた、と現段階は得心している。著者が犯人に語らせるイデア界における悪とは、理由なき犯罪である。理由がないために、被害者を取り巻くステイクホルダーは、本来的に持っている悲しみや憎しみといったエネルギーを発散できない。私たちは、推理小説やドラマを見ているために、どうしても犯罪者の理由を探し求めてしまう。しかし、被害者だけでなく、その家族や関係する人々をも絶望に追いやる理由なき犯罪こそが、本当に救いのない犯罪者の心理の一面なのではないか。

 さっきから、おまえらのしゃべってる話を聞いてると、まるでガキの自慢話だ。まるっきり子供だ。子供ってのは、みんな自分が世界でいちばんだって思いこんでる(382頁)

 救いのない連続殺人ドラマの中で、明るさを見出せる数少ない箇所である。犯罪者たちの罠にはまって共犯者に仕立て上げられようとしている弱い存在が、それまで反抗したことがない犯人たちに抵抗を試みている。その真摯な想いの吐露に、犯人だけでなく、読者である私もまた、心を打たれる。

 誰かに向かって手を広げ、俺がついてるよ、一緒なら大丈夫だよと声をかけた瞬間に、人間は、頼られるに足る存在になるのだ。最初から頼りがいのある人間なんていない。最初から力のある人間なんていない。誰だって、相手を受け止めようと決心したそのときに、そういう人間になるのだ。(440頁)

 人格が行動を決定するのではない。 行動が、人格を作る。