2014年7月28日月曜日

【第313回】『聖書の読方 来世を背景として読むべし』(内村鑑三、青空文庫、1916年)

 聖書を解説する講義を受けるとその良さや味わい深さを感ずることができるが、聖書そのものを読むだけでは理解が甚だ難しいと感じてきた。そうした私のような非キリスト教徒にとって、近代日本における著名なキリスト者の一人である著者の手になる本書は、聖書の読み方に関するありがたいガイドブックである。

 聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解らない、聖書を単に道徳の書と見て其言葉は意味をなさない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。(Kindle ver. No. 4)

 まず、聖書をもとに現世における処世術として読むのではなく、永続する来世を生きるという上でのガイドブックとして読むべし、としている。このように捉えれば、聖書に時に描写される極端に不幸な出来事についても、なんとなく理解することができる。現代の視点で、現代での救いや幸福として捉えてしまうと理解不能に思えることでも、それを来世という視点で捉えることで希望を読み取れるのであろう。

 勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充溢れて居る、則ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書なることを、来世抜きの聖書は味なき意義なき書となるのである(Kindle ver. No. 182)

 来世を想定しないと理解できないばかりではなく、聖書を読む意義すらなくなると著者はここで明言している。現在や近い将来ばかりを重視しがちな私たちにとって、こうした著者の視点は新鮮であるばかりでなく、重要なことを伝えているように思える。来世を考えるということは、自分自身という軸だけではなく、自分たちがこの世にいない未来永劫の社会や環境に想いを巡らすことにも繋がる。そうした視点に立って、現代の自分たちの生活を省みることは大事な視点だ。

 而して今時の説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存ることなく、神の道を混さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを(哥林多後書五章十八節以下)。(Kindle ver. No. 211)

 聖書をもとに来世ではなく現世における事象を説くとどうなるか。著者は、自説を説くために聖書を用いるという論法をとってしまうことに警鐘を鳴らしている。これは、聖書に限ったことではないだろう。私たちは、自分自身の主張の正当性を担保しようとするために、他者が批判しづらい書物や主張を援用しようとすることがある。自戒を込めて、著者の警句に耳を傾けたい。

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