2014年7月13日日曜日

【第306回】『自由とは何か』(佐伯啓思、講談社、2004年)

 題名にもなっているように、自由とは何か、という問いに対して、積極的自由と消極的自由という二つの捉え方から考えることは有効であろう。

 積極的自由の実現は、ある種の全体主義を目指すという帰結を導きかねない。ファシズムも社会主義も積極的自由を徹底して追求した結果なのである。そもそも何かの正義や理想を目指す集団的運動は、多くの場合、それ自体が全体主義的性格を持った組織を作り上げてゆく。(86頁)

 自由を積極的に定義しようとする積極的自由の最大のデメリットは、それがファシズムをはじめとした全体主義へと堕する危険性である。正義を居丈高に唱えることによって、ある正義に基づく意識を絶対視し、それを認めない存在を否定する。そうすることによって、組織の内部を純粋化することにつながり、ファシズムへと至る危険性が生じるのである。

 「消極的自由」は多元的な価値を認める上で必要不可欠である。しかし、「消極的自由」を認めたからといってものごとが解決するわけではない。(中略)
 「消極的自由」はむしろ、和解しがたい神々の争いを引き起こしてしまうというべきかもしれない。とすれば、「自由」がその神々の争いに巻き込まれないようにすることが「自由」を擁護する者の務めであろう。それは決して「自由」を神の座に祭り上げることではない。自由を女神の座につけて争いに参上してはならないのである。その意味では、「自由」はあくまで消極的な条件であって、それ自体が至高の価値なのではない。(98頁)

 バーリンを引用しながら、著者は積極的自由に対する消極的自由を支持する。その理由として、多元的な価値を認める上で必要であることと、積極的自由が陥りがちないわば夜郎自大な態度にならないようにすること、の二点が挙げられている。

 著者はさらに、自由主義という考え方は、リベラリズムと一口にまとめられることが多いが、著者によれば四つの類型があるとしている。

 四つの立ち場についても、その背後にある「値する」という観念は、具体的な社会状況を離れて客観的に定義できるわけでもないし、また、逆に、あるものが、「自分はかくかくしかじかに値する」と主観的に自称できるものでもない。何をもって「値する」とみなすかは、その社会共同体の価値観を不可分なのである。だからこそ、上の四つの立場は、それぞれがリベラリズムを自認しながらも、四つの異なった等価性の観念を持ち出すことができたのである。(211頁)

 第一の類型である市場中心主義(188頁)における社会的価値観はどうであろうか。

 ここで想定されている社会とは、自分の能力やら運に基づくありとあらゆる機会を総動員して、市場のゲームに参加して勝つことをよしとする社会だ。競争に勝つという生き方を中軸的な価値とする社会なのである。(212頁)

 競争をゲームと見做し、市場でのゲームに勝つことが目指される。ここでは、市場におけるルールの公正さが求められ、ゲームの勝者は賞讃に値するということになる。

 第二の能力主義(189頁)について見てみよう。

 能力はその人間の卓越性を示している。その意味で卓越性を示すことが社会的評価の基準になっている。このモデルの古典的典型は、たとえばベンジャミン・フランクリンのように、寸暇を惜しんで働き、創意工夫を行い、その結果として事業に成功して富豪になることである。(213頁)

 能力主義では、各人が保有する能力に基づいて、努力の結果として卓越した成果を出すことが評価される。結果として市場で勝つという市場中心主義とは異なり、各人の能力の発揮が求められる考え方である。

 第三は福祉主義(189頁)である。

 考えてみれば、たまたま彼がある種の能力を授かっただけのことで、能力とは、本来、社会の共有財産、共通資産とみなすべきものである。だとすれば、それを社会に還元することにこそ意味がある。いってみれば、競争における勝者は、社会に対する奉仕・還元の義務を負っている。(213~214頁)

 結果と過程という違いはあれども、市場中心主義と能力主義では個人の市場における勝利ということが評価された。それに対して、福祉主義では個人の能力とは個人のものではなく社会のものであるとしている。したがって、なんらかのかたちで市場で利益を得た者は、それを個人のものとして保有するのではなく、社会に還元するものであると福祉主義では考えるのである。

 第四は是正主義(191頁)である。

 社会的な能力の発揮は、彼が意義ある存在として社会的に承認されることを意味している。能力の発揮は、彼が社会的に承認を得る重要な手続きとなっているのだ。それゆえ、貧しいからといって福祉給付に頼って生きるのでは十分な社会的承認を得ることはができない。それはそもそも己の能力を発揮しようとしていないことになる。これでは、社会的な承認に基づく尊厳を得ることはできない。(215頁)

 個々人の能力に生来の差について、各人が多様な能力の発揮によって是正できるように間接的な支援を行なうことで、効力感を得てもらおうとする考え方である。たとえば、大学入学におけるアファーマティヴ・アクションは是正主義に基づく施策の一例である。

『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)

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