三島の『葉隠入門』(『葉隠入門』(三島由紀夫、新潮社、1983年))を読んで興味を強く持った本書。恥ずかしながら、文体がやや古いために一筋縄で読み進めないのであるが、そうであるが故にゆっくりと読めて良いのかもしれない。
奉公人は一向に主人を大切に歎くまでなり。これ最上の被官なり。御当家御代々、名誉の御家中に生れ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からざる事に存じ奉り、身心を擲ち、一向に歎き奉るばかりなり。この上に、智慧・芸能もありて、相応相応の御用に立てば猶幸なり。何の御用にも立たず、不調法千万の者も、ひたすらに歎き奉る志さへあれば、御頼み切りの御被官なり。智慧・芸能ばかりを以て御用に立つは下段なり。(聞書第一・三)
志の大切さを説いた箇所である。ともすると私たちは既に有している知識や技能にあぐらをかいてしまう。その上で、パフォーマンスや結果を出しさえすればそれで良いと考えてしまいがちだ。むろん、行動や結果も大事であろうが、それよりも、私たちの意識の裡にあるvalueやintegrityに目を向けること。大切にしたい考え方である。
何某、当時倹約を細かに仕る由申し候へば、よろしからざる事なり。水至つて清ければ魚棲まずと言ふことあり。藻がらなどのあるゆゑに、その蔭にかくれて成長するなり。少々は、見のがし聞きのがしのある故に、下々は安隠するなり。人の身持なども、この心得あるべき事なり。(聞書第一・二四)
中庸を説いているのであろう。組織のリーダーやマネージャーとして、正しいことを正しく伝えようとすることは適切な行為である。しかし、それが行き過ぎると、組織で働く同僚や部下としては働きづらいという側面がある。時に、冗長さを持たせたり、積極的なdelegationを行なうことも、組織のマネジメントにおいては重要なのだろう。
たとへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に傍目八目と云ふが如し。念々知非と云ふも、談合に極るなり。話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く爲なり。(聞書第一・四四)
本を読んだり、話を聴いたりする時に、私たちはよく自分の理解している枠組みや概念でそれらを捉えてしまいがちだ。しかし、それでは新たな認識を得るということは難しい。そうではなく、自分の分別を一旦脇に置き、話し手や書き手の視点で物事を見てみること。そうすることで、新たな認識を得たり、自分自身の価値観の変容が為される。
卑下の心もこれなくして果すなり。柳生殿の、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。」と申され候由。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上ぐる事なり。これも果はなきといふ事なり」と。(聞書第一・四五)
自分自身を厳しく見ることは有用であろうが、徒に卑下し過ぎるということも問題だ。自分が悪いと言うことは容易であり、他者から一定以上に否定されることを忌避することができるため、内省が進まない。他者と比較して自身を卑下するのではなく、過去の自分自身と比較することで内省しながら一歩踏み出す。
徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎いそがしきことなし。小人は、静香なる所なく当り合ひ候て、がたつき廻り候なり。(聞書第二・一〇四)
自戒を込めて読みたい箇所である。忙しすぎることは徳がない人の行なうことである。
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