「いいか、よく覚えとけ。人間が事実と真正面から向き合うことなんて、そもそもあり得ないんだ。絶対に無いんだよ。もちろん事実はひとつだけだ。存在としてはな。だが、事実に対する解釈は、関わる人間の数だけある。だから、事実には正面も無いし裏側も無い。みんな自分が見ている側が正面だと思っているだけだ。所詮、人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないんだよ」(167頁)
真理である。そして、重たい。
こうして新年はやってきた。時間の矢の行く先は定まらず、誰にも見えないけれど、それが動いていることだけは確かなのだ。(324頁)
不安な気持ちと、そうした気持ちが様々な関係者の中で蓄積する様子が垣間見える。
「私だって知りたいよ。連中がなぜ鞠子を殺したのか知りたいよ。そのとき何を考えていたのか知りたいよ。殺した後にどう感じたのか知りたいよ。一瞬だって、鞠子のことを可哀想だと思わなかったのかどうか知りたいよ。だがね、それは、あんたのような赤の他人の“解説”として知りたいんじゃない。あいつらの声で、あいつらの頭で考えたことを聞きたかったんだ。生身のあいつらにしゃべらせたかったんだ。“解説”なんてもんは、どんなによくできていようと、筋が通っていようと、しょせんはお話だよ。作り話だ。そんなもんじゃなくて、どれほど支離滅裂だろうとも、私はあいつらの声が聞きたいんだ」(372~373頁)
孫娘を殺された祖父が、事件について書いているジャーナリストに対して放った言葉である。犯罪の被害者の家族が、犯罪者の言葉を聴こうと裁判を傍聴する様を見ていて、なぜ苦しくなる状況に自ら近づこうとされているのか、私にはよくわからなかった。しかし、著者の仮説であれども、彼(女)らがどのような心境を持っているのか、その判断軸の一つについては想像できそうな気がしている。
「今はウソのように聞こえることでも、口に出したときはホントだったかもしれないよ。時間が経てば考えは変るからよ。だからって、前に言ったことが全部ウソだちゅうことにはならんだろ」(481頁)
たしかに過去の自分の発言に責任を持つことは素晴らしいことなのかもしれない。しかし、あまりに責任を頑に持つことには問題もあるのだろう。ある時点では心から思って発言した言葉でも、状況が変わった段階から見たら不適切に思われることもある。
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