2014年7月5日土曜日

【第302回】『模倣犯(三)』(宮部みゆき、新潮社、2005年)

 本書を読むのは二度目である。最初に読んだ時に最もインパクトがあったのは、第三巻である本書の最後のシーンであった。人間が生み出すドラマがそこには展開されており、共感する点、おぞましさを感じる点、善が必ずしも懲悪に結びつかない点、など読み応えがやはりあった。

 それはたぶん、(ああ可哀想に)(気の毒に)という気持ちと、(うちの娘、うちの妹、うちの孫じゃなくてよかった)という気持ちが、同じ濃さ、同じ温度で混じり合うからなのだろう。そしてその混合物のなかに、(こういう犯罪者が現れて、いずれ誰かが殺されなくちゃならなかったとしても、狙われて殺される方にだって何かしら落ち度みたいなものがあったはずなんだ、だからうちの娘は、うちの妹は、うちの孫は大丈夫)という感情が、一滴、二滴と添加されている。だけれどその気持ち、そういう本音を外に出すことは申し訳なくてできないから、だから後ろめたそうな顔になってしまうのだろう。(12頁)

 犯罪の被害者と、そうした存在をニュースで見る第三者との決定的な違いが、ここにある。第三者は、犯罪被害者の責めに帰すべき事項を見出すことによって、自分の大切な存在がそのような目に遭わないという合理的な理由を用いて安心しようとする。その副次的な効果として、そうした犯罪被害者にも問題があるというレッテルを貼ることになる。ために、犯罪被害者とそれ以外の第三者とは共有できない大きな溝が生じてしまうのであろう。

 病室は、ひとりの人間が、自分はいかに孤独であるかということを、他人に対しても、自分自身に対してもさらけ出さねばならなくなる場所だ。いつもはドアを閉じ窓を閉めることで世間から隠している生の個人生活が、ここではいっぺんにむき出しにされてしまう。その結果、他でもない当の入院患者本人が、今まで自分の生活のなかで確実につかんでいると信じていた愛情や、築いていると革新していた人間関係が、ただの嘘や無関心や思いこみや勝手な期待によってつくりあげられた幻影に過ぎなかったということを目の当たりにして、絶望的な気持ちになってしまうことがある。(152~153頁)

 病院あるいは病室というしくみは、入院患者が日頃有している人間関係を明らかにする、と著者は述べる。さらには、そうした関係性を、身動きの自由が制限されて、一日中自分と向き合う患者の方々は嫌が応にも他者に晒され、考え続けなければならない。

 十月の残りは、ある日はダンスする少女のように軽やかに、ある日は死にかけたかたつむりのように鈍重に過ぎていった。(163頁)

 事件の進展のなさを詩的に表現をしている。こうした詩的な表現によって、一呼吸を置く効果を出すとともに、不吉な予感を演出するようにしているのであろうか。

 「本当の悪は、こういうものなんだ。理由なんか無い。だから、その悪に襲われた被害者やーーこの場合は気の毒な梅田氏だーーどうしてこんな目に遭わされるのかが判らない。納得がいかない。何故だと問いかけても、答えてはくれない。恨みがあったとか、愛情が憎しみに変ったとか、金が目当てだったとか、そういう理由があるならば、被害者の側だって、なんとか割り切りようがある。自分を慰めたり、犯人を憎んだり、社会を恨んだりするには、根拠が必要だからね。犯人がその根拠を与えてくれれば、対処のしようがある。だけど最初から根拠も理由もなかったら、ただ呆然とされるままになっているだけだ。それこそが、本物の『悪』なのさ」(178頁)

 本作を読み直そうとしたのは、連続殺人という事件を犯す人物の心理の奥底を見たいからであった。そしてその目的は、この箇所を読むことでかなりの程度が満たされた、と現段階は得心している。著者が犯人に語らせるイデア界における悪とは、理由なき犯罪である。理由がないために、被害者を取り巻くステイクホルダーは、本来的に持っている悲しみや憎しみといったエネルギーを発散できない。私たちは、推理小説やドラマを見ているために、どうしても犯罪者の理由を探し求めてしまう。しかし、被害者だけでなく、その家族や関係する人々をも絶望に追いやる理由なき犯罪こそが、本当に救いのない犯罪者の心理の一面なのではないか。

 さっきから、おまえらのしゃべってる話を聞いてると、まるでガキの自慢話だ。まるっきり子供だ。子供ってのは、みんな自分が世界でいちばんだって思いこんでる(382頁)

 救いのない連続殺人ドラマの中で、明るさを見出せる数少ない箇所である。犯罪者たちの罠にはまって共犯者に仕立て上げられようとしている弱い存在が、それまで反抗したことがない犯人たちに抵抗を試みている。その真摯な想いの吐露に、犯人だけでなく、読者である私もまた、心を打たれる。

 誰かに向かって手を広げ、俺がついてるよ、一緒なら大丈夫だよと声をかけた瞬間に、人間は、頼られるに足る存在になるのだ。最初から頼りがいのある人間なんていない。最初から力のある人間なんていない。誰だって、相手を受け止めようと決心したそのときに、そういう人間になるのだ。(440頁)

 人格が行動を決定するのではない。 行動が、人格を作る。

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