改憲論が喧しい現政権の動きをメディアで目にすることが多くなった。そうした状況において、日本国憲法にもう一度触れようと思い最近の本を検索したところ、著者の一連の著作を見つけた。決して多いとは言えない著者のfirst nameを見た時に「もしや」と思ったが、やはり高校の同級生であった。同じクラスで学んだことはないために数回しか話をしたことがない間柄ではあるが、同級生の活躍というのは刺激を受けるものである。
まず、憲法というものの存在について著者は説明を試みる。
団体とは、要するに、共通の「ルール」に従う「人の集まり」である。「ルール」と「人」の二題要素のうち、「ルール」は頭の中にしかないが、「人」は目に見えるし、触ることもできる。団体の「正体」を、「ルール」だと見るのが擬制説、人間という「実在」だと考えるのが実在説だが、団体の「正体」などという怪しげなものを観念する必要はなくて、擬制説と実在説は同じものを右から見るか左から見るかの違いにすぎない、と評価するのが筆者の立場である。
さて、国家も団体の一種であり、それを成立させるルールと、そのルールに従う人々から成り立っている。このうち、国家の領域範囲や王位継承の方法、裁判手続の内容、軍隊の指揮権の所在など、国家を成立させる「ルール」の方を「憲法(constitution, Verfassung)」(専門用語では「実質的意味の憲法」)と呼ぶ。また、「憲法』の主要部分を明文化した文書は、「憲法典」(専門用語では「形式的意味の憲法」)と呼ぶ。他方、ルールに従う人々のことを「国民」と呼ぶ。(20~21頁)
端的に、憲法とは何か、その射程はどこにあるのか、について書かれた部分である。団体・ルール・人という三つの概念から、法学的な見地からの、国家・憲法・国民という概念を明らかにした、簡潔にして明瞭な説明である。
以下からは、憲法を巡るいくつかの主要な論点についてみていきたい。第一に、国歌起立・斉唱命令について。
本章の結論は、学校式典での国歌起立・斉唱命令は、先生方の思想・良心の自由の問題ではなく、労働環境としての安全配慮義務やハラスメント、差別の問題として考えるべきだ、というものであった。今後は、そうした命令を出す場合、先生方の思想・信条に十分配慮して、代替業務をお願いすべきだろうし、嫌がる先生に不必要に出された命令はパワハラとして違法無効と評価すべきである。また、そもそも文部科学省は、君が代のためを思うなら、学習指導要領を先に述べたようなより合理的な形に改訂すべきである。(51頁)
国歌斉唱については、国旗国歌法が制定されて以降においても議論が沈静化することはないようだ。国歌を斉唱すること、その際に起立することを学校において強制されることに対して反発する教師は多い。そうした教師が拠って立つべき法的論拠は、憲法における思想良心の自由ではなく、民法における安全配慮義務やハラスメントにおいて行なうべきであると著者はする。起こっている事象をどのように法的な問題として定義するか、という考え方は、法律の門外漢にとっても非常に興味深い論理付けである。
第二に政教分離について。
日本的多神教の下では個々の神々の権威は唯一ではない。このため、国歌は、一定の時期(祭りの時期など)だけ、あるいは一定の事項(建設工事についての安心など)だけについて、「数ある神の一柱」を利用することができる。つまり、場当たり的で安易な宗教利用が生じやすいのである。戦中の日本政府が利用した「国家神道」も、戦争で死んだ兵士の追悼などを管轄するのみであり、人間の生活全般を包括的に支配するようなものではなかった。(134頁)
一神教と比べた場合に、多神教が有する柔軟性は、政府による宗教利用が容易であるという点が挙げられると著者はする。多神教による宗教の政治利用の可能性について、私たちは自覚的になるべきであろう。そうした自覚に基づいた上で、政教分離の危険性について、私たちは検討を加えるべきである。
第三は、9条問題についてである。政府解釈を援用すれば、9条は自衛以外の武力の行使を規制したものである。したがって、軍隊を持つこと自体が否定されているわけではない。その上で、著者は9条の意義を以下のように述べる。
9条の意義は、核兵器と空母はダメ、軍という名前もダメという量的・形式的な規制をするところではなく、実力組織の構築や武力の行使について、常に、「それが自衛のために必要最小限度と言えるか」の説明を求めるところにある。(219頁)
保有する武力が自衛のために利用される必要最小限度のものであるか否か、がその武力を保有する正当化するための要件となる。したがって、そうした抑制機能を有する9条を改正するということを基にして以下のような帰結を導くことは論理的であろう。
憲法9条の実質的な改正とは、「必要最小限度性」についての説明責任を廃止することを意味する。それを狙う改憲論は、平和の脅威であり、政府・防衛関係者を含めた日本国民のこれまでの努力を放棄するもので、とうてい是認できない。(219頁)
時に9条の改正が「改悪」であると言われるのはこうした理由によるものである。近隣諸国の持つ武力に対する自衛ということであれば、現在の憲法解釈でも行なえる。そうした自衛か否かの文脈を9条から外すということであれば、著者が鮮明に打ち出す9条改正は妥当であろう。こうした点を踏まえて、著者が結論として述べる以下の箇所は、日本国民一人ひとりが噛み締めるべきものであろう。
日本が非武装を選択できる世界の創造は、終わりがないと思えるほど途方もない仕事かもしれない。しかし、世代を超えて受け継がなければならない仕事である。
憲法9条は、第二次大戦を直接経験した人々によって、大変な緊張感を伴い解釈され、論じられてきた。そうした解釈論や議論を、次の世代に受け継いでゆくことは、我々の世代の義務だろう。公正で合理的なルールの創造を促す力、個人が尊重される平和な世界を創造する力は、失われてはならない財産である。我々は、憲法の創造力を受け継ぎ、育んでいかねばならない。(224頁)
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