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2019年10月5日土曜日

【第992回】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(古田徹也、角川書店、2019年)


 哲学書は難しい。その中でも『論理哲学論考』は難解だ。しかしあまりに有名な本であり、何とか少しでも理解してみたい。こうした願望に答えてくれる、『論理哲学論考』の入門書的解説本が本書である。

 元々の書籍が難解なのだから平易に解説するのにも限界がある、と思うなかれ。読み応えはあるものの、理解はできるレベルである。何回か読み直しながら、「論考を理解した!」と言えるまで繰り返して読みたい良書である。ウィトゲンシュタインに挫折した全ての方に推奨したい。

 世界の具体的なあり方を描き出す命題はすべて、要素命題が操作によって結合したものとして理解できる。そして、要素命題を構成する名はそれぞれ、世界のなかの何らかの対象(物)に対応する。それゆえ、「経験的な実在は、対象の総体によって限界づけられている。その限界はまた、要素命題の総体において示される」(五・五五六一節)と言いうる。(245頁)

 論考は、世界の全てを対象にして哲学というアプローチで表し尽くそうとしている。そのスコープのすごさは、上記のような記述に現れている。まだ理解したとはとても言い切れない。しかし、その面白さには気づいたように思える。読み直して少しずつ理解していきたい。

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)

2019年8月3日土曜日

【第973回】『私の読書遍歴』(木田元、岩波書店、2010年)


 著者の書籍は難しい。西洋哲学、とりわけハイデガー研究の碩学として著名であるため何度となく挑んでみたものの、恥ずかしながら入門と銘打った書籍でもこれまで苦戦し続けてきた。そこでアプローチを変えてみた。著者が何をインプットし何に影響を受けてきたかを知ることで、外に現れない著者の感覚や指向性を理解できるのではないかと思ったのである。

 そこで辿り着いたのが本書である。興味を持続しながら読み進めることができた。著者が影響を受け、どのような時期に何を読んできたのも理解した。果たしてこれを踏まえて著者の書籍を理解できるかは未実証であるが、まずは本書について述べる。

 詩なんか読んで、いったいなにになるんだとおっしゃる方が多いと思う。たしかに、なんにもなりはしない。しかし、こういうことは言えるのではなかろうか。私たちは、日ごろひどく振幅のせまい感情生活を送っているものである。喜びであれ悲しみであれ、よくよく浅いところでしか感じていないのだ。ところが、われわれは詩歌を読み、味わい、感動することによって、喜びや悲しみをもっと深く感じることができるようになる。ものごとを深く感じるためには、それなりの訓練が必要なのである。小説を読むとか音楽を聴くとか、人それぞれにその訓練の仕方は違うであろうが、私にとっては詩歌を読むということが、そのための最良の訓練になったような気がする。若い人たちにも、好きな詩人歌人をさがして、その作品をそらんじるくらい詠みこむことを薦めたい。(108~109頁)

 なぜ詩を読むのか、はたまた小説や音楽を味わうのか。著者の答えはシンプルであり、私たちが抱きえる感情の幅や深さを増すためであるとしている。小説を読む効用としてなんとなく意識してきたものであり納得的であるとともに、詩歌にもチャレンジしてみようと思わせる内容である。

 本には旬があって、ドストエフスキーや太宰治などは、二〇歳前後が旬だと思う。漱石などは、若いときにはむしろその味が分からず、四〇代にでもなってはじめて分かってくるということがありそうだ。鴎外の史伝物などにいたっては、六〇代にでもなってはじめて味読できるといったものではないかと思う。(120頁)

 ではいつなにを読むのか。それぞれの作品には旬があると著者はしている。思い違いしないようにしたほうが良いのは、本そのものに旬があるというよりは、本と自分自身の経験や志向性との相性によって旬が決まるということであろう。したがって、自分で読んでみながら旬を探ってみるというアプローチが良さそうである。

 最後に、単行本の「おわりに」での若者へのメッセージを引いてみたい。

 若い人たちにも、いい会社に入るとか高い給料をもらうといったことを考えるよりも、好きなこと、したいことをして生きることをお薦めしたい。もっとも、自分がなにをしたいのか、なにが好きなのかを見きわめるのがなかなか大変なことではあるわけだが。そして、できればいい本を読んで、深く感じ、深く考えることを学んでもらいたい。繰りかえして言うが、本を読むのは情報を集めたり断片的な知識を蓄えるためだけのものではないのだ。私たちは間もなく消えていなくなるわけだが、こんなに私たちを楽しませてくれた活字文化があっさり消えてなくなったりしないように祈って筆を擱きたい。(223頁)

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)
【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

2019年5月4日土曜日

【第952回】『初学者のための現象学』(ダン・ザハヴィ、中村拓也訳、晃洋書房、2015年)


 フッサールを嚆矢とする現象学について初学者のために書かれた本書。「初学者のための」という言葉に惹かれて読み始めたもののなかなかにして難しい。フッサールの現象学について学びを深めることが目的だったので全体を理解することは断念し、フッサールの部分のみに集中。

 現象学は、対象のさまざまな現出の仕方の哲学的分析として把握することができ、それに関連して、対象にあるがままに自己を示すことを可能にする理解構造の反省的研究として把握することができる。(4頁)

 ある対象をそのままのものとして示すことができることが現象学という学問の射程であるとしている。

 エポケーは素朴な形而上学的態度の中止を表す名称であり、したがって哲学への入り口とみなすことができるが(中略)、その一方で還元は主観性と世界の連関の主題化を表す名称である(中略)。したがって、エポケーも還元も、われわれを自然的独断論から解放し、われわれの固有の構成的(認知的かつ意味付与的)関与をわれわれに意識させる超越論的反省の契機とみなすことができる。(14~15頁)

 カッコに括ることも、自身の主観を外界に位置付けることも、独断から離れて行うことをフッサールは主張したということであろう。科学による解釈を宗教のように金科玉条として扱うことは独断論であり、そうした科学偏重主義への警鐘を鳴らしていると解釈できるのではないだろうか。

 現象学の功績は、人間を科学的に記述する試みにあるのではなく、むしろ科学性それ自体を、科学的合理性や認識する主観の志向性の形式の詳細な分析によって理解できるようにすることにある。したがって、本質的課題は、科学を営むときに、われわれがとる理論的態度は、われわれの世界内存在からどのように生起するのか、どのように理論的態度は世界内存在に影響し、世界内存在を変更するのかという問いの究明なのである。(29頁)

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)
【第951回】『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、清水一浩訳、講談社、2018年)
【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)

2019年4月28日日曜日

【第951回】『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、清水一浩訳、講談社、2018年)


 哲学界のニュースターと言われる著者。わかりやすく書こうとしていることはわかるが、決して理解しやすくはない。しかし読み続けることで考えさせられる箇所が随所にある。冒頭では、なぜ哲学を学ぶのか、哲学の持つ可能性は何か、と著者は読者に対して問う。

 わたしたちにたいして現れている世界と、本当に存在している世界とはまったく違っていることがありうるということ、そのことをけっして忘れない態度を学ぶことができるのです。哲学はすべてを疑ってやむことがありません。そのさいには哲学自身も疑いの対象となります。そこまで疑うところにこそ、この世界全体とはそもそも何なのかを理解するチャンスもあるわけです。(31頁)

 疑うことが哲学である。こうした外界を疑う態度によって、著者は世界という存在の有無を疑う。

 存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。(105頁)

 科学に対する扱いも面白い。

 科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。こうなると科学は、同様に間違って理解された宗教に似た、疑わしいものになってしまいます。(198頁)

 宗教についての考察も考えさせられる。

 宗教の源となるのは、最大限の距たりから自身へと回帰したいという欲求です。人間は自身を放擲して、自分など無限なもののなかの些細な一点にすぎないと考えることさえできます。このような距たりから自身へと回帰するとき、わたしたちにはおのずからこんな問いが浮かんできます。わたしたちの人生にはそもそも意味があるのだろうか。それとも、意味があるようにと願うわたしたちの希望は、無限なものという大海のなかの水滴のように空しく消えゆくものなのか、と。かくして宗教とは、無限なものーーまったく思いどおりにならないもの、不変なものーーから、わたしたち自身への回帰にほかなりません。この回帰にさいして重要なものは、わたしたちが完全に失われてしまうわけではないということです。(230頁)
 わたしたちが神ないし神的なものに出会うのは、わたしたちが最大限の距たりに赴き、すべてが可能であることを経験するときだということです。わたしたち自身の人生経験のなかで、そのようなことが実存的に示されるのは、わたしたちが当たり前に思っていた拠り所を失ってーーわたしたち自身にたいして、まったく多様な態度をとることができる以上ーーきわめて多様な生き方を受け容れる可能性があることを実感するときでしょう。(235頁)

 著者は世界は存在しないと主張する。では世界が存在しないことは絶望なのか。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。さもなければ、現に存在しているいっさいのものは、存在することができていなかったに違いありません。(292頁)

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)

2019年4月27日土曜日

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)


 フッサールの思想を現代において改めて光を当てたと評価される本作。書かれている内容は決して平易ではない。論旨が取りづらい箇所も多い。しかし、考えが深まるあるいは深まりそうな示唆に富んだ記述が随所にあり、難しいのに癖になりそうな読後感のある本である。

 決定的に重要なのはエポケーの目的を誤解しないことである。エポケーを行うのは、実在を否定し、疑い、無視し、放棄し、研究から排除するためではなく、単に実在に対するある一定の独断的態度を遮断あるいは中立化するため、すなわち現象学的に与えられたものーー現出するがままの対象ーーに一層詳しく直接的に焦点を当てることができるためなのである。(69頁)

 フッサールといえばエポケーである、と私は理解している。判断停止とも訳されるこの概念について、フッサールの認識論が現れていると捉えられるのではないだろうか。

 エポケーは、注意を世界内的対象から背けさせるのではなく、世界内的対象を新しい光の下で、すなわち意識に対する対象の現出あるいは顕現において構成された相関体として吟味することを許すのである。(77頁)

 エポケーの可能性は対象をくっきりと理解することにある。ありのままをそのまま理解する、ということであろうか。

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)
【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)

2019年2月24日日曜日

【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)


 難しい。集中しながら読まないと理解できないと思いながらも集中力が持続しない。正直、理解できたとは言い難い。

 しかし、である。どこかいい意味で引っかかる感じがあり、魅力を感じる。もう一度読み直したいと思える不思議な一冊だ。

 現代の現象学批判は、現象学を、「客観認識」「厳密な認識」の基礎づけの学、とみなしている。つまり、現象学は、絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」の基礎づけの学である、というのだ。だが、これは明白な誤解である。わたしの考えでは、現象学の主張は、むしろ、「絶対的な客観認識」や「真理」は存在しえないが、「妥当な認識」(つまり普遍的な認識)は存在しうる、という点にある。(6~7頁)

 現象学への批判があることは理解していた。その批判の内容と、批判への反論としての現象学の可能性について端的に触れた箇所である。リアリティにこだわろうとしたフッサールの現象学にかけた想いが現れているような気がする。

 「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そしてすべてを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在のすべては、自分の「意識」に生じている”表象”である、ということになる。
 この「意識表象」を自分で内省し、そこでいかに「世界」が「構成」されているかを記述する。これが一般的にいわれている「現象学的還元」の方法の概要である(「事象に帰れ」とは、「内在意識」ですべてを考えよ、ということだ)。(21頁)

 頭がこんがらがりそうになるが、現象学の本質を解説しようとしている箇所であることは理解できるし、理解の萌芽が現れているようにも思える。

 フッサールの「アプリオリ」は、<内在意識>の内省によって取り出せる意味性としての「絶対的所与性」のこと。たとえば、事物の知覚は、必ず「色彩」や「形状」をふくんでいる、といった「意味性」。これこそ「アプリオリ」の概念の原義であって、カントの「カテゴリー」の概念も、この本来的な「アプリオリ」なものの洞察を基礎としてはじめて成立するのだ、とフッサールはいっている。(132頁)

 ここも難しいがアプリオリについてカントが意味したものとフッサールが意味したものとの相違が現れている。両者の違いを意識しながら、改めて読む際に理解したいと思う。
  
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)

2019年2月17日日曜日

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)


 『組織開発の探究』を読み、フッサールとともに読み直したいと思ったのがフロイト。ただし、難解な印象が強いので入門的に読めるものはないかと探してたどり着いたのが本書である。

 講義を文字にそのまま起こしているからか、しっくりと入ってこない部分もありとっつきにくい。とはいえ書かれている内容は決して難しくはないので筋は理解できる。原著はもっとわかりづらいのであろうから、翻訳者の方々の努力には頭がさがる思いだ。

 間違いは、意味と意向が認められる心的行為であることを知ったばかりでなく、また間違いは二つの相異なった意向の干渉からできたものだと知ったばかりではなく、なおその他に、この二つの意向の一つが他の意向の妨害者としてあらわれるためには、その意向はある抑制をうけたに違いないということを知った。(中略)間違いは妥協の産物である。間違いは二つの意向のうちのどちらかを半分成功させ、半分失敗さすことを意味している。おびやかされた意向は全部抑制されないしーーある場合をのぞいてーー全部発現されない。(85頁)

 誤った言動を取ってしまったり何かを失念してしまうことは日常的によく起こることである。その背景には私たちの潜在意識が関与しているのではないかという仮説を著者は提示している。

 同意できる部分もあれば、同意しづらい部分もある。つまらない言い方をすればケースバイケースということなのかもしれないが、何か間違ったことをしてしまった時に、意識を深掘りすると何かが見えることもあるのかもしれない。このように柔軟に捉えれば面白い仮説なのではないだろうか。

 間違いに関する探究から、著者は有名な夢診断へと向かう。

 精神生活にはまったく気づかない、非常に長い間まったく気づかない、いやおそらく一度も意識にのぼらなかった過程、あるいは傾向があると仮定する準備ができ上がった。だから無意識ということばは、一つの新しい意味をもつことになる。「そのとき」とか「一時的」とかいうつけたしは、無意識の本質から消えてしまう。無意識ということばは、単に「そのとき潜伏していた」という意味でなしに、永久に無意識的な、という意味をもってもよいことになる。(197頁)

 無意識的に何かをするという場合の無意識は刹那的な感じがする。表面に現れる無意識は一時的であるかもしれないが、その本質は半永久的に貯蔵された無意識の記憶にあるのではないかというのが著者の仮説的な提示であろう。

 エディプスコンプレクスや夢判断にはまだ違和感があるが、無意識が半永久的に私たちの顕在化された言動に影響を与えるということは、面白い仮説であるように思える。

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)

2018年12月30日日曜日

【第917回】『ハイデガー=存在神秘の哲学』(古東哲明、講談社、2002年)


 哲学書は難しい。とにかく読み解くのに時間が掛かるし、おおよそ理解できない。ハイデガーの著作も同様である。解説書でさえ、難渋する。『ニーチェが京都に~』で興味を持って本書を読んでみたが、面白く読めるところもあれば、理解できない箇所もあった。

 哲学書はなぜ難しいのか。正確に言えば、哲学者はなぜ難しく語るのか。その理由は、端的に以下の箇所に表れている。

 ハイデガーはひたすら道を開き、その新しい道をたどるよう、ぼくたち読者を喚起した。(中略)道を開き、歩くようほどこすのが哲学の仕事。だが、道は自分で歩め。まっ暗なトンネルをぬけると、そこは雪国。一面の銀世界がまっている。道をたどりトンネルをぬければ、どなたもそこへゆきつく。だから、ほこらしげに雪国のすばらしさを語る必要もない。そんなことより、まっ暗なトンネルをぬける勇気をあたえ、むこうへわたる道をつくり、道標を立て、そこへいざなうこと。それが、ハイデガーの執筆や講義のスタイルなのである。根っからの教師、あるいは導師だといえよう。(65~66頁)

 おそらく、私たちは、簡単なことや易しいものを求めすぎているのかもしれない。理解できないもの、解釈が難解なものは、時間やコストが掛かるものであり良い存在ではないと看做してしまう。

 しかし、果たしてこうしたマインドセットで臨むことが望ましいのか、と著者はハイデガーに引きつけて警句を述べている。この箇所を読み、私は考え込んでしまった。分からないことは気持ち悪い、しかし結果的に分からなかったとしても分かろうと努める営為の中にこそ、学びはあるのではないか。哲学書をはじめとした「難しい」書籍の存在価値は、読むという過程の中にあるのかもしれない。

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

2018年12月1日土曜日

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)


 ニーチェが現世の日本人青年に乗り移り、17歳の女子高生アリサと交流し、ニーチェを取り巻く様々な哲学者も登場してアリサが哲学を通じて学ぶ様が描かれる。と書いてもなかなかイメージしづらいかもしれないが、ニーチェ、キルケゴール、ショーペンハウアー、サルトル、ハイデガー、ヤスパース、といった哲学者のガイドブックと捉えていただければ良いだろう。

 哲学は好きで学びたいが、原著およびその翻訳書を読むと眠気を催す、という私のような方には適した入門書である。大胆に意訳しているようではあるが、違う言い方をすれば、現代に生きる当て嵌め方の仮説を著者は提示してくれている。それをどのように解釈し、現実に活かそうとするかは私たち読者の真摯な対応次第であろう。

 そのために、哲学するとは何かという大事な条件を先に引用した上で、各人の考え方を記していく。

「すでにあるものを鵜呑みにするのではなく、疑いを持ち、自分なりに考えてみる。
 それが哲学するということだ」(189頁)

<ニーチェ>

 まずはニーチェの言葉から。ニーチェと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、超人というやや大げさな訳で膾炙している概念であろう。著者は、超人を「永劫回帰を受け入れ、新しい価値を創造出来る者」(69頁)と端的に解説している。未来は蓋然性の中にあるものに過ぎず、超長期的なスパンで捉えれば繰り返しにすぎない。しかし、何が起きたとしてもその過程と結果を受容し、自分自身で価値を創造することをニーチェは主張しているようだ。

 超人という概念を生み出した背景には、人生をどのように捉え、いかに生きるかというニーチェの考え方がある。大前提として彼は、「ニヒルになりすぎると、自分の人生にもかかわらず、自分の人生を軽んじて生きてしまうことになる」(66頁)として、現状をいたずらに否定してポジショニングしようとする安易な生き方を否定する。

 このように、自分自身を卑下して納得しようとしたり、他者と比較して自身を良く見せようとすることに私たちは汲々としがちだ。両者の主張内容は反対でも、ゴールに固執しているという点では同じだとして、ニーチェは以下のような警句を述べている。

 ゴールや、理想だけを追い求めることはない。いま自分がいる場所、そして自分のスタートライン。それらをひっくるめて愛すのだ。それが運命愛だ。運命を持たなければ、損得に縛られ、自分が得をしていないような人生を否定することになってしまう(71頁)

 では、客観的なゴールに固執せず、他者とも比較せず、プラスでもマイナスでもない人生へとるべき態度はどのようにあるべきなのか。ニーチェの答えはシンプルだ。つまり、「人生に意味などない。意味がないことを嘆くのではなく、意味がないからこそ、自由に生きるのだ。」(105頁)という、諦念と可能性との合わせ鏡のような態様だ。

 自由に生きることを提唱することで、私たちの努力や意志を否定しているわけではない。むしろ反対であり「自分のパワーをフルに最大化させていく”力の意志”」(102頁)を重視する。その上で、他者から与えられる創られた感動を否定し、「己の可能性が広がった時に感じる」主観的な感動(102頁)を重視しているのである。

<キルケゴール>

 次に登場するキルケゴールは「デンマークの尾崎豊」(125頁)と本作では揶揄と敬愛とが混ざった形容詞が付いており、実存主義の嚆矢としての彼のイメージを良くも悪くも持ちやすい。

 自分の人生ではなく、他人の人生を妬むことに時間を費やしてしまっている。情熱をもって生きないと、自分の人生は妬みに支配されてしまうーー。(128頁)

 実存、すなわち「主体的真理」(127頁)を重視するキルケゴールの上記のような主張は、私にはニーチェに近いように感じられる。そのベースがある一方で、ニーチェと比較するとやや不安や心配といった暗い側面により焦点を当てているように感じられる。それは、可能性に対する捉え方であろう。

「可能性は僕たちに夢を見させるぶん、不安にさせる。そして、不安だらけの人生の中で、自由から逃げ出すことなく誠実でいなければならないんですよ。
 不安から逃れたいという目的で、道を選んではいけません。不安と誠実に向き合う。不安に左右されて、自分を騙してはいけません」(147頁)

 まず、可能性が不安を生み出すという発想方法は、ニーチェにはない、キルケゴールの特徴のように思える。このいくぶん暗い前提にたった上で、可能性とその裏側にある不安とに満ちた日常の中で、私たちは誠実に生きることが求められるのである。この辺りの日常に対する捉え方は、ニーチェに近いものを感じる。

 何かを選ぶということは、選ばなかった可能性を生む。そして私たちは何かに行きづまった時に、選ばなかった可能性に苦しめられるかもしれない。(153頁)

 先に引用した箇所を踏まえたキルケゴールのこの警句にはハッとさせられた。というのも、キャリアチェンジの際に恩師から受けたアドバイスの主要な内容と全く同じだったからである。やや備忘録的に書き残しておきたい。

<ショーペンハウアー>

 ニーチェやキルケゴールが価値中立的な現実認識をした上で論旨を展開していたのに対して、現実認識の時点から悲観的な認識を持つのがショーペンハウアーだ。彼は「人間は、退屈をしのぐために欲望を持ち、欲望が満たされるとまた退屈になるという、いたちごっこから逃れられない」(169頁)としている。

 こうした認識であるにも関わらず、自分自身に対する態様はどこかニーチェやキルケゴールのように思えるから面白い。「他人からの評価に一喜一憂して振り回されるのではなく、まず自分の中に確固たる自信を持つことが第一条件だ」(182頁)としている箇所を読むと、そのように思えるのだがいかがだろうか。

<サルトル>

 キルケゴールが実存主義の嚆矢だとしたら、それを広く人口に膾炙し、1960年台の若者の反乱の時代における思想的バックボーンとなったのがサルトルである。作中で彼は、実存主義について、「いまここに存在する自分にスポットを当て”生きている意味・人生のあり方を追求する思想”」(213頁)と端的に解説してくれている。

 その上で以下のような例示を出して、人間観の説明を行ってくれている。

「ああそうだ。それが先ほど話した”実存は本質に先立つ”といった意味だ。
 道具は、理由あって、存在する。つまり、本質あって、実存するのだ。
 しかし人間は違う。
 理由があらかじめ用意されていて、存在しているのではない。まず、生きている、存在しているという事実があるのだ。
 つまり理由が用意されていなくても、存在しているのが人間なのだ」(211頁)

 キルケゴールに近い雰囲気がするのは、実存主義を継承しているというからであろうか。ただし、有神論者であったキルケゴールに対して、神に対する存在に対して力が抜けているためか、現実を起点としたよりリアリティのある考え方のように思える。それは、将来に対してキルケゴールが不安を意識していたのに対して、投企という概念を用いて淡々と述べている以下の箇所にも現れていそうだ。

「未来の可能性に向かって、自分を構築していく、といった意味だ。
 人は自分がつくりあげる以外の何ものでもなく、どのように自分をつくることも出来る。
 逆に言えば、人は何ものでもない状態で、この世に生をうける。
 そして生きていく中で自分が何ものになるかは、自分でつくり上げていくほかないのだ。
 自分がどのように生きてもいいし、何を選択してもいい。人間は基本的には自由だ」(220頁)

 神ありきで発想したキルケゴールのような不安や、神を否定しようとしたニーチェのような力の入った議論ではないからか、すっと頭に入ってくるような感じがする。自分自身の実存を発想の起点にする以上、他人の捉え方も自身にフィードバックされるものとなる。

 自由な存在である他人に対して、私たちが出来ることはまなざしを向け返すこと、つまり他人を対象化することによって、主体性を、自分の世界を取り戻すことくらいしか出来ない。(242頁)

 人間という存在そのものを実在するものとして重視するサルトルの人間観はどこかサバサバとしているようだ。しかし、他者からのまなざしの影響を論じた見田宗介の『まなざしの地獄』に明らかなように、日本社会はとかく世間体や評判といった他社からのまなざしを気にする傾向がある。そうした社会においては特に、「まなざしを向け返す」という主体的な行為によって主体性を取り戻すことが求められるのかもしれない。

<ハイデガー>

 ハイデガーが提起する問題は、死という時間軸の設定であり、私たちの有限性に目が向けられる。「死をもって生を見つめた場合に、人は代わりがきかない存在」(277頁)であるとして、死という有限性によって私たちの個としての生に意味が見出される。具体的かつ丁寧に説明された以下の箇所を併せてお読みいただきたい。

 自分が死んでしまうと、周りのあらゆる人を含めた世界ごと消滅します。他人が亡くなると、それまでいた人が亡くなるという喪失感を味わいますよね。しかし自分に起こる死は、喪失感を味わうことも出来ないのです。いわば”喪失感を味わえない喪失”です(277頁)

 さらには、死によって私たちの生の可能性としての将来性に思い至ることができるとしている。月並みな例ではあるが、体調を崩して入院していると、当たり前のように生きていることに価値を見出したり、元気であれば本来は何がしたいかという潜在的な価値観への気づきことがあるだろう。

 目先のことや毎日に溺れてしまうのではなく、自分の命の有限性を自覚して、未来から逆算して、自分をつくっていくのです。死んでしまうという事実があるからこそ、いまを見つめ直すのです。(中略)
 死があるからこそ、私たちは本来性に気づくことが出来る(296頁)

<ヤスパース>

 物語の最後に少しだけ顔を出すのがヤスパースであり、あまり細かな考え方についてまでは理解できなかった。しかし、これまでに登場した哲学者たちが自分自身に焦点を起き、他者との関係性について述べていなかったのに対して、ヤスパースは他者との相互交渉に示唆を与えてくれる。

「他人については、自分の思いどおりにならないことも多いし、自分が求めている距離感と相手の求めている距離感が違うと、寂しくなったり、逆に面倒くさく思ったりすることもあるけれど、自己主義に考えるんじゃなくて、共存を前提に腹をわって自分を開示することが大切なんじゃないでしょうか。
 まさに”愛しながらの闘争”です。他人を拒絶して独りよがりの考えだけに目を向けるか、誰かと真理を探究し合うか」(330頁)

<その他> 

 本作の最後の言葉もまた、いい。様々な哲学者とのやりとりを通じて、現実で直面する課題に対して何を考え、どのように対処するかを考え続けた結果として至ったアリサの心境の独白である。

 未来はまだ決まっていない。
 人生の中で悲しみが何度も降りかかったとしても、それを受け入れて超えて行く。心からそう思えるようになるまでには時間がかかるかもしれないが、もう一度リピート再生したいと思えるような一生を送れるように、人生と誠実に向き合っていくためには、悲しみを悲しみのまま終わらすのではなく、乗り越えて生きていきたい。
 人生の意味は、自分にしか見つけることができない。私はいつもスタート地点に立っているのだ。それはいまも、そしてこれからも。(359頁)

【第367回】『超訳 ニーチェの言葉』(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年)
【第308回】『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1967年)
【第309回】『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1970年)
【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)
【第525回】『嘔吐』(J・P・サルトル、鈴木道彦訳、人文書院、2010年)


2018年11月10日土曜日

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)


 本書を読む前、組織開発という概念には食傷気味だった。数年前に広義の組織開発の手法に依る活動を集中的に行っていた。よかったのだとは思う、特定の個人にとっては。しかし、組織にとって、会社にとって、効果があったのかと問われれば、残念ながら肯定する気にはなれず、企画・運営側の自己満足ではないかという感があった。

 また、「組織開発を志す人々が党派に分かれ、対話を失わせている実態こそが、組織開発の健全な発展を妨げて行くものだ」(63頁)と指摘されている状況にもうんざりしていた。「○○が正しく、□□は誤っている。」とか「〇〇を信じない人間は信じない。」といった言説構造は、端から見ていれば内ゲバ争いに他ならない。そのため、組織開発に対してどこか冷めた目で眺めるようになってきていた。

 しかし、組織開発の歴史的経緯と今後の可能性に対して真摯に向き合おうとする本書を読み、組織開発に改めて取り組み直したいと心の底から思えた。とりわけ「人材開発、リーダーシップ開発……そして組織開発は、理論的には同じルーツを持っている」(6頁)という箇所から、組織開発を毛嫌いする無意味さを理解し、反省させられた。

 学びの多い本書をまとめるのは難しい。ここでは、特に興味深いと感じた、組織開発の理論的な背景と、それを踏まえた実践的な簡潔かつ明瞭なステップについて焦点を当てたい。

 まず、理論的な背景についてであるが、組織開発の3層モデルを見ていただきたい。


 実務家としては、組織開発の手法にどうしても目が向いてしまうが、重要なのは、そうした手法がどのような背景を持っているかである。なぜなら、手法の底流に流れるものが、手法に影響を与えるからである。実施者がその背景に自覚的であろうと無自覚であろうとも、関係はないだろう。

 手法の直接的な背景として、集団精神療法の方法論があり、その考え方の基盤には哲学がある。ここでは、図中の第1層を成す哲学的基盤に焦点を当てる。


 下手の横好きで哲学を好む身としては、組織開発の基盤として、フッサール、デューイ、フロイトが出てくるのは堪らない。デューイは経験からの学習という点、フッサールは経験の意識化という点、そしてフロイトは無意識の意識化という点で、組織開発の基盤となる考え方に影響を与えたという。

 デューイとフロイトについては、個人的には想像が付きやすいが、その両者を繋ぐ存在として現象学で有名なフッサールが描かれているのが興味深い。現象学という、決して理解したとは言えない難解な思想に対して、エポケーをはじめとした概念装置に魅了された身としては、組織開発の基底を成す考え方の一つとして取り上げられると嬉しいものである。

 次に、実践的な組織開発の3ステップについて。41頁の図表4にある端的かつ簡潔に描かれたモデル図を見ていただきたい。


 見える化のステップで重要なことは、潜在的な問題を顕在化させることが見える化であり、誰もが認識している問題を図やチャートにすることではない。きれいな図やモデルにすることを見える化と捉えがちだが、現場に存在する有象無象な潜在的問題を可視化することが求められるのである。

 ガチ対話のステップでは、何かを決めたり判断するのではなく、お互いの意見や考えの相違を明らかにする。そのためには、腹を括ってお互いが真剣に対話することが求められる。

 ガチ対話を経て発散的にアイディアが出て、お互いの意見の背景となる考えを理解しあった後で収束する。これが未来づくりである。組織としてまとめるために未来におけるビジョンを共同して創り分有するということであろう。

 実務においては、組織開発の3層モデルでその基底に流れる背景(Why)を念頭に置きながら、組織開発の3ステップを基にワークショップを設計(What)したいものである。

【第559回】『入門 組織開発』(中村和彦、光文社、2015年)
【第209回】労働政策研究・研修機構「特集 人材育成とキャリア開発」『日本労働研究雑誌』Oct. 2013 No. 639
【第862回】『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰、ダイヤモンド社、2018年)
【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)

2018年10月7日日曜日

【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)


 ハイデガーは難しい。否、正確には哲学者の書いたオリジナルの書籍は、サルトルも、フッサールも、フーコーも、私のような素人には難しい。だからこそ、本書のような優れた書き手による優れた解説書はありがたく、頭がさがる思いで読み進めた。

 本書ではハイデガーの代表的な著作の一冊である『存在と時間』についての解説が為されている。解説を書いている社会学者の大澤真幸氏も、「『存在と時間』の理解としてまことに正確である」(95頁)と太鼓判を押しているように安心して読み進めることができる。

 いつやってくるかわからない死を了解しようとして、人間は苦しんでいるんです。ですから、そういった死ぬという自分の存在を自分で引き受けて生きていく、その実存という存在のしかたですね。それが現存在です。(34頁)

 まず現存在というハイデガーが提唱する鍵概念について、生きるということと交えて解説が為せれる。尚、実存とは「人間の可能性」(35頁)と定義していることも併記しておく。

 では死とどのように向き合うのか。本来性の概念を用いながら著者は解説を以下のように試みている。

 本来性というのは死を見つめる、自分が生きているのに、いずれ死ななければならないのに生きているという苦しみ。その苦しみとか悲しさとかそういうものを生きていく上で、どれほどその生き方が苦悩や悲哀に満ちていてもそれを引き受けていくという生き方なんです。(43頁)

 自らの周りに起きる事象をプラスやマイナスで判断するのではなく、全てをありのままのものとして受け入れていくこと。これが生きる上での本来性であると著者は大胆に定義し、死から目を背けて対象を他に求める考え方を非本来性と定義して否定的に見ているのである。

 著者が述べるように本書はハイデガーに至るための入門書である。ハイデガーの著作にも改めて触れてみたいと思った。

【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

2018年2月17日土曜日

【第809回】『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎、岩波書店、1982年)

 名著の誉れが高く、また現在コミック版の流行もあってベストセラーとなっている本作。恥ずかしながらまだ読んだことがなかったため、流行に乗り遅れていることを自覚しながらも読み進めてみた。

 おそらくは中学生以上の学生を想定読者として、哲学者である著者が噛み砕いて読み聞かせるように書かれている。最初に書籍化されたのは1937年であるが、現在の日本社会においても適用可能な普遍的な考え方が提示されている。いわば「道徳」と呼ばれる学問領域は戦前と戦後とで大きく異なっていると誤解していたのであるが、今読み解いても共感しながら認識を新たにできる内容であることに新鮮な驚きを覚えた。

 中学生である主人公が、自身で問いを作って考え続けたり、叔父との対話で学びを得たり、というプロセスはさながら哲学である。哲学者の碩学である著者の力量が凝縮された一冊である。

 人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、ーー正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。(256頁)

 失敗をした時、しかもそれが自分自身の良心に気づきながらもそこにコミットして一歩踏み出す勇気を出せなかった時。私たちは自分自身を裏切ることで自分自身を傷つけ、それによって壊れた(と思ってしまう)他者との関係性の修復に取り組むことに二の足を踏んでしまう。


 誰しもが少なからず経験したであろうことを巧みにエピソードとして提示しながら考え方を述べている。過ちを認めることの大切さと、良い結果をたとえ得られないかもしれないとしても非を詫びることの尊さ。そうすることは、過去の事実は変えられないとしても、少なくとも将来の自分自身の糧として活かすことに繋がる。


2017年12月17日日曜日

【第787回】『西田幾多郎の生命哲学』(檜垣立哉、講談社、2011年)

 西田の哲学は難しい。なんとなく惹かれるものがあって書籍に取り組んでも、毎回、そのほとんどが理解できない。だからこそ、こうした解説本で少しずつ理解を補足できることはありがたい。徐々にでも難解な書籍にアプローチできることは嬉しいものである。

 「実践」であり、「働き」であり、「ポイエシス」(制作、創出、作ること)であること。自ら自己形成される世界であること。徹底的に、働きつつ変わりゆく、そうした世界の現場に自らを投げこむこと。そして、そうした「行為」の立場以外からこの世界をみないこと。これは、西田の発想の根本的な基軸をなしているのである。(49頁)

 考えたり内省するといったことが、哲学という概念のイメージとして私にはあった。しかし、西田の哲学は、行為が基本であるという。行為し、世界に対して自分自身を位置付けることで、見えてくるもの感じられるものがある、ということであろうか。

 「純粋経験」とは、西田の表現を借りれば、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(1-6,7)という場面である。「私」という主体(世界のこちら側に設定できる自己)があらかじめ存在していて、客体(世界の向こう側に想定される対象)が描けるのではない。私とは、そもそもが、「私」であるか「世界」であるかも判別できない純粋で未分化な体験を生きている。未分化であるはずのこうした場面に、はじめから区切りをいれてしまうのが、近代的な認識論の装置の誤りである。(50頁)

 行為する哲学から純粋経験という西田特有の概念が出てくる。すなわち、西欧近代における神と対置する主体として「私」が客観的世界を経験するという二分法と異なった世界認識である。理性によって分けることで成り立つ世界観ではなく、私と世界とが未分化な中で、体験を通して自己と一体的な世界を認識するという考え方である。

 「自覚」とは、「行為」のなかで世界と一体化している私が、その「行為」そのものにおいて、自己を「限定」していく「働き」のことだからである。世界と同一視される私は、自己という中心性をはじめからもつものではない。しかしそれは、世界と無限に一体化した運動性のなかで、自己が何であるかを切りわけなければならない。切りわけることによって、私も世界も現れる。この切りわけの「実践」が、「自覚」の運動に託されている。(51~52頁)

 純粋経験では自己と世界との一体化が説明されている。こうした一体化した状態の中から、自分自身を実践を通じて切りわけることが自覚である。一般的な「自覚」の意味合いと、西田における使い方が異なることに留意が必要であろう。


 鈴木大拙との交流が示すように、西田の哲学には、素人からすると禅的な考えが多分に盛り込まれているように思える。こうしたものも、彼の哲学を豊かにしているものであり、西洋哲学との違いを示すものなのではないだろうか。


2017年12月3日日曜日

【第783回】『哲学の使い方』(鷲田清一、岩波書店、2014年)

 哲学とは問いだ。ともすると、哲学は難解な思想や考え方が述べられたものであり、私たち「普通」の人々には理解しがたいもののように思えてしまう。実際に、いわゆる哲学書を一冊通して読み通すことは難しく、特に著名な過去の偉大な哲学者に手になる書籍はおよそ解読不能とまで思えてしまう。

 まずは問いのなかに飛び込むこと。以降のプロセスを歩み抜く知的耐性は、問いを問いつづけるなかではじめてついてくる。(iv頁)
 哲学はむしろすすんで初心者であろうとする。「なぜ?」という問いを連発する子どもたちと連帯しようとする……。なんとも不思議な知的いとなみである。(23頁)

 単に学問領域として哲学を捉えるのではなく、問いを発する際のヒントとして哲学を用いてみる。こうしたカジュアルな発想であれば、哲学を生活の中で活かし、ゆたかに生きるためのきっかけにできそうな気がしてくる。

 ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、彼/彼女らにじぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人だということになる。(123頁)
 哲学とは知の「すべてに気をくばる」べきものとしていた。中井が右で指摘していたようなたがいに異質な複数の知をつないでゆく、そういう機能が哲学にはもとめられている。広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な「教養」ではなく、むしろ何がひとの生において真に重要であるかをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げてゆく技としての哲学である。(125~126頁)


 生活に活きるだけではなく、哲学は、他者との協働、プロフェッショナル同士の協働に活きる。社会が多様化しているという。「他者性」の強い多様なステイクホルダーと関わる現代において、他者に問いを投げることができ、また他者からの問いに対してオープンに率直に回答できることが、私たちに求められている。現代において、哲学を使うことの効用は高まっているのではないだろうか。


2017年11月11日土曜日

【第775回】『しんがりの思想』(鷲田清一、角川書店、2015年)

 リーダーシップ開発の重要性を仕事の中で感じている身として、副題が「反リーダーシップ論」と銘打たれている本書には興味があった。私の印象としては、著者が否定しているリーダーシップは、いわゆるヒロイック・リーダーと呼ばれる、自分自身が正解を持ち野心的な目標を立てて周囲を引っ張るようなリーダーである。したがって、結果的には共感しながら読めた本であった。

 上司の命を待つのではなく、一人ひとりがじぶんで考え、タフに行動する組織がいちばん活力がある。そういう意味では、逆説的な言いまわしになるが、リーダーがいなくてもいい組織を作れるのが真のリーダーだということにもなるかもしれない。(中略)そうだとするとポイントは、リーダーそのひとではなくて、むしろ、仕事をまかされたメンバーがそれぞれに気持ちよく気張れるよううまく調整をするひと、つまりは番頭のような二番手のひとだということになる。(152~153頁)

 著者が否定していたのは、現代における組織において、ヒロイック・リーダーのようなリーダーに対して依存したくなる私たちの傾向でありリーダーシップそのものではない。だからこそ、一人ひとりがそれぞれ他者に影響を与え合いながら、一人ではできない大きなことを成し遂げようとするリーダーシップは重要である。さらに言えば、お互いが認め合うことで、時には他者を支えるフォロワーシップの重要性を著者は指摘しているのである。これが番頭を指しているのであろう。

 専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げにできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に掴んでいなければならない。しかし、現場にいるひとの不安や訴えのなかで、自身の判断をいったん括弧に入れ、問題をさらに聴きなおすこと、別の判断と摺り合わせたうえでときにそれを優先させることもしなければならない。ここでは、「この点からは」「あの点からは」という複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。こうした二様の知性をパラレルに働かせることを、いずれの分野であれ、いまのプロフェッショナルは求められている。(107~108頁)

 誰もがリーダーシップを発揮し、フォロワーシップと相俟って変化に対応しようとする組織においては、専門知の捉え方も以前と異なってくる。いわゆる専門バカのように、自分の保有する知識にだけ造詣があれば良しとされる時代ではなく、他の専門家の主張を理解し、協働できることが求められるのである。

 一般に、制度化された組織では、なすべきことはその分類にしたがってどんどん細分化され、規律化されてゆく。先にもみたトランスサイエンス的な状況においては、それらの間隙を見過ごさないこと、それらをたがいに瓦のように重ね合わせてゆくことが求められる。そのときはたらく知性は、つねに問題の全体をケアするものでなければならない。いいかえると、融通のきかない専門家主義のソリッドな知性に対して、みずからに割り当てられた業務を超えて、他者を案じ、全体に気を配りつつ、そのつどの状況に可塑的に対応できるリキッドな知性こそが、ここでは験しにかけられる。あるいは、既定の制度からは見えない存在、外れてしまう存在、それにも応答してゆこうとするのが「知性の公共的使用」のことだといってもよい。(125頁)


 他者と協働するための条件として、私たちにはリキッドな知性が求められる。専門知は必要条件である。それがなければ、他者に提供できるものがなくなってしまうからだ。しかしそれだけでは足りない。専門知を持つ者同士が対話し、協働するためには、しなやかで柔軟な知性が求められるのである。


2017年10月23日月曜日

【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)

 異なる分野の碩学同士の真剣な対話はスリリングである。真剣であるからこそ、分からない点を端的かつ鋭く質問し合うために読み手にとって理解がし易くなる。福岡氏の動的平衡論も、池田氏が解説しようとする西田哲学も、どちらも興味がありながら理解が追いついていなかった。本書で徹底的に質疑応答をしてくれているため、理解が進んだように思え、今後も繰り返し読み解くことで理解を深めたいと思える一冊である。

福岡 先ほど、西田哲学はそれ自身で、すでに「科学」としても扱えると発言したのですが、今回、西田哲学に正面から向き合ってみて、私は、生物学、物理学、化学、数学、言語学、歴史学……といったさまざまな学問が西田哲学において融合しているといった印象を強くいたしました。(271頁)

福岡 科学でなんでもできると思っていたら、それは時としてとんでもない災いや誤りを招く。西田哲学はそれを戒めてくれている学でもある、と私は思います。先ほど池田先生は「自然に謙虚に」と言われたのですが、科学者のみならず、およそ研究者というものは、常に自分や自分の研究していることに対して懐疑的な視点を持つことも大切です。西田哲学は、そうしたことをあらためて私たちに思い起こさせてくれる学でもあると思います。(282頁)

 徹底的な対話を経て西田哲学と自身の動的平衡との統合的理解を得た福岡氏が最後の対談で述べた一言に、学際研究の必要性が端的に示されているように思える。近代西洋科学が批判的に捉えられる存在というわけではない。しかし、西洋科学中心で物事を捉えすぎることによる危険性を著者たちは指摘し、様々な学問領域を統合し、自然を中心に据えて謙虚に物事を捉えることの重要性を説く。

 冒頭で著者たちが導き出したのは、自然に還ることの必要性である。

福岡 ヘラクレイトスが「万物は流転する」とか、「相反するところに最も美しい調和がある」と言ったように、自然本来のあり方をとらえようとする立場がある(ピュシスの立場)。一方、それを忘れて、いわゆる「存在者」というものだけでものを語ろうとする立場がある(ロゴスの立場)。プラトン以降の哲学はロゴスの立場に基づくもので、それが続いてきたことに対する一種のアンチテーゼとして、西田は「ピュシスの世界に還れ」という旗印を言わば行間に掲げて、独自の考えを深めていった。(47頁)

 近代西洋科学をロゴスの立場とし、そこからだけ眺めるのではなく、自然に立ち返ることが重要であると両者は述べる。その上で、福岡氏が着目している生物と無生物や内側と外側の「あいだ」の概念が、西田哲学における絶対矛盾と近しい関係にあることが述べられている。

 続いて、ピュシスを基にして、時間と空間をどのように捉えるかというテーマへと両者の対談は進む。

池田 そもそも時間と空間というものを考えることができなくなってしまうんですよ。時間と空間というものはまったく矛盾していますから。片一方は流れていくものだし、もう一方は流れない。しかし、現実においては時間と空間というのは一つになっている。
 そのことを「(絶対)矛盾的自己同一」と西田は言っているわけです。矛盾したものが一つになっている、と。(89頁)

池田 そういう矛盾しているものが自己同一(している)と説かれるわけですけれども、このことを言葉を変えて、「逆に限定されている」とか「逆限定」とも言うんです。
 ですから、「逆限定」と「絶対矛盾的自己同一」というのは、ほとんど同じことを言っている概念なのです。(89頁)

 時間と空間という捉え方は、日常生活を送っていると当たり前の概念として何気なく認識してしまう。ある場面を表現する際に、緯度と経度で空間を同定し、年月日で時間を同定することでその場面を把捉できているように思える。しかし、本来的に流れの概念である時間を年月日で捉えた場合にはそれは「時刻」であると著者たちは指摘する。

 したがって、私が上述したような認識は時間と空間とを一つのものとして捉えられていないものであり、必要とされるのが逆限定という概念である。この概念の難しさは福岡氏ですら本書の対談内で苦闘しているので私自身も分かったとは容易には言えない。しかし、苦闘の末に至った福岡氏の以下のまとめは私たちの理解を促すうえで役に立つだろう。

福岡 逆限定においては、「環境が年輪を包む」ということは同時に「環境が年輪に包まれる」ということも含んでいて、それは「包む・包まれる」という言い方で、ーーこれは「作る・作られる」という言い方に置き換えてもいいのかもしれませんがーー、つまり、ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると同時に環境は年輪によって作られている、と。(134頁)

池田 環境が樹木を「包みつつ」樹木に「包まれ」、樹木は、場に「包まれつつ」場を「包む」という逆限定的な関係がここには(見えないながらも)現れているのですが、「逆限定」あるいは「絶対矛盾的自己同一」とはつまり、環境と樹木の「あいだ」のことであって、そこにおいて環境と樹木とは相互に否定し合っています。こうした相互否定関係のうえに成り立つピュシスの働きというものが「歴史的自然の形成作用」ということになるのです。(144頁)

 樹木の中にある年輪と、樹木を取り巻く環境との相互作用についてここでは述べられている。ある一時点をスナップショットで収めると、樹木とその周囲の環境というものはたしかに存在する。そうした空間における両者の存在に、時間という流れを加えると、お互いに影響を与え合う関係性が見えてくる。ある一時点において観測したものを基に私たちは思考を進める傾向があるが、流れという時間を想定して時間をも捉えることが必要なのである。こうした時間論について、対談のテーマは移っていく。

福岡 個体は絶えず交換されるジグソーパズルのごとき細胞によっておぼろげな全体としても存在している、ということが西田においても言われていると思います。
 ですから、「多の自己否定的一」という表現について、「多」というのは多細胞の「多」であり、細胞の構成要素であるというふうに考えると、その構成要素が自己否定している、と言われているわけです。絶えず生まれ変わる。壊されながら作られる。分裂しながら死んでいくのですけれども、また新たなものが生み出される。そういった自己否定性の中に「多」というものはある、と読むことができます。
 けれども、それが同時に「一」であるところの全体というものを構成していて、さらに「一の自己否定的多」としてその逆の働きにも言及されています。そして、「多の自己否定的一」が時間的であり、「一の自己否定的多」が空間的である、と続く。つまり、ここで時間と空間が対比されているわけですけれども、このとき西田先生が言われている時間というのは、合成と分解の繰り返しという動的平衡によって生ずる流れとしての時間ですよね。(156~157頁)

池田 時間を考える場合に、多くの人は過去から未来へという方向に着目し、未来から過去へという反対の方向にはほとんどの人が目を向けることがないわけですけれども、引用文中に「作られたものから作るものへ、作るものから作られたものへ」という表現がありますね。「作られたもの」というのは、要するに過去のことです。「作るもの」というのは未来のことなんですけれども、世界においては両者が絶えず、逆限定的に作用しているんです。
 で、こうした矛盾的自己同一というあり方がすべてにわたって徹底していくところに西田の論理性が現れているのですが、従来、西洋哲学にはこうした論理は存在しなかったわけです。(160~161頁)

 絶対的矛盾的自己同一における時間と空間との関係性は、西田哲学における円環的な時間論へと繋がっていく。

池田 西田では、それは絶対矛盾の自己同一ということになり、ここにおいて、福岡さんの「先回り」(動的平衡)と「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なることになるのです。
 そして、時間というのはただ直線に進むむだけじゃなくて、円環する性格もあるはずだ、ということを西田は明言しています。
 「先回り」という概念が西田においてもしもあったとすれば、直線じゃなくて、円環……、戻って来るという、そういう時間について語られるものでなければならない。そう西田は暗に語っているわけですね。(218~219頁)

 ここまでざっと著者たちの対談で印象に残ったところを関連付けながら引用してきた。しかし、正直に言えば、改めて読み直してみるとあまり理解できていないようである。もう少しじっくりと読みたいと思う。


 その際には、本書で述べられてきた生命というものを、企業組織やそこで働く社員へのアナロジーとして捉えられないかと考えている。というのも、しばしば、企業組織は生命体として捉えられる。そうであれば、ピュシス、時間と空間の「あいだ」、絶対矛盾的自己同一/逆限定、円環する時間論、といったものは、企業組織でも援用できるのではないかと考えるからである。機会を作って、もう少しじっくりと取り組んでみたい。


2017年10月22日日曜日

【第768回】『これからの「正義」の話をしよう』【2回目】(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

 唐突なタイミングで衆院選が行われることとなった。やや不謹慎なのかもしれないが、政治は面白い。わくわくする。もちろん大事な選択であり、どの政党に入れるべきか、どのような見識を持った候補者に投票するべきかを真面目に考えたい。そう思った時に、本書を読み直そうと思った。

 改めて読み解いていくと、あれほど感銘を受けたのに内容をいかに忘れていたかに気づかされる。リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムという三つを軸にしながらの論理展開は読み応え十分である。ハーバードでの著者の講義をもとに書籍化しただけあって、ライブ感があって読みやすい。

 人間に特有の能力である言語は、快楽や苦痛を表現するためだけにあるのではない。何が正義で何が不正かを断じ、正しいことと間違っていることを区別するためにあるのだ。人間はそうしたことを沈黙のうちに把握してから言葉を当てはめるのではない。言語は、それを通してわれわれが善を識別し、熟考するための媒体である。(253~254頁)

 哲学とは、語ることとの親和性が高い。プラトンによるソクラテスの対話の物語を例に出すまでもないだろう。言語を「善を識別し、熟考するための媒体」と喝破した著者の定義にはハッとさせられる。月並みではあるが、言葉を大事にして使いたいと思った。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気が無いならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(304頁)


 ロールズの「負荷なき自己」を批判した上で、負荷のある自己について語った箇所である。負荷のある自己とは、自分自身に責任を持ち、自分を形成するコミュニティの持つ歴史に対する責任をも持つ存在である。自国の文化や歴史に誇りを持ちながら、過去の自国の行動に伴う責任を無視しようとする考え方への痛烈な警句である。


2017年10月21日土曜日

【第767回】『今こそアーレントを読み直す』【2回目】(仲正昌樹、講談社、2009年)

 全体主義とは何か。現代においてもその影が何となくちらつくように思えるのは杞憂であろうか。「100分で名著」でアーレントの『全体主義の起原』が扱われていたシリーズを興味深く見て、本書を読み直したくなった。衆院選に向けて、政治を考えるためのテクストでもある。

 以前のエントリーで詳細に各章をまとめたので、以下では、今回読み直して特に印象に残った点のみを扱うこととしたい。

 アーレントに言わせれば、利害のために「善」の探求を放棄してもダメだし、特定の「善」の観念に囚われすぎてもダメなのである。両極のいずれかに偏ってしまうことなく、「善とは何か?」についてオープンに討議し続けることが重要だ。政治的共同体の「善」について様々な「意見」を持っている人たちがーー物質的な利害から解き放たれてーー公共の場でお互いに言語による説得を試み合うことが、アーレントの考える本来の「政治」である。そうした意味での「政治」を通して、暴力とか感情によって相手を支配しようするのではない、「人間」らしい関係性が培われるというのが、アーレントの独特の「人間」観である。まとめて言うと、物質的利害を超えた「政治」的な討議を通して、我々は「人・間」になるのである。(kindle ver. No. 139)

 このアーレントの人間観にハッとさせられる。極端に安易に流れないという姿勢は、孔子の『中庸』のようでもあるし、右翼からも左翼からも批判されるという著者にも通ずるところがあるようだ。極端にならないからこそ様々な異なる価値観を理解し尊重することができるのであり、こうした態度がダイバーシティを重視する社会において求められるのではないか。

 肝心なのは、各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。(kindle ver. No. 574)


 両極端にならないようにすることが大事であることが分かりながらも、私たちは自分に独特な考え方を重視してしまう。こうした現実的な人間観を持ったうえで、自分の考え方が全てではないという認識を持つこと。自分の外側にある外形的な多様性だけではなく、自分自身の内側にある多様性を意識することが大事なのであろう。


2017年8月19日土曜日

【第743回】『暮らしの哲学』(池田晶子、毎日新聞社、2007年)

 著者の書籍を一時期集中して読んでいた時期がある。哲学書を本格的に読むことには難儀するが、哲学をわかるように書いてくれる著者の作品は、ありがたい存在であった。

 図書館で本を渉猟していて、早逝する直前まで連載されていた記事を集めた本書を読んでいなかったことを知った。腎臓がんで亡くなられたとのことであるから、本書に取り上げられている論考を執筆している際にも自身の死を意識していたのであろう。生死を扱うものもあるが、重くなく、淡々と、しかし噛んで含めるような筆致で綴られていて、これが漱石のいう則天去私ではなかろうかとまで思ってしまう。

 鋭い視点から思考を進める著者の論考を読んでいて、興味深かったのは、意味や言葉に対する概念に関する考察であった。

 驚くべきことは、人が意味をわかることができるのは、意味が在るからだということであります。人がそれを「わかる」「わからない」と感じることができるというこのことは、意味がその理解よりも先に存在するという、驚くべき事実を告げている。(60頁)

 私たちは、意味というものはアポステリオリに創り出すものであると捉える。しかし、何かを分かったり分からなかったりするという私たちの理解の有り様を基にすれば、意味はアプリオリに存在するものであるとしている。他の考え方もあるようには思えるが、この著者の論理構成を否定するのは難しい。

 言葉(ロゴス)が宇宙を創った。言葉は神であったというこの文脈での「言葉」、言葉=ロゴスというこれが、物書きとしての私の言語感覚に、最も近いものです。日本人では見たことないと、よく言われます。(63頁)

 新約聖書の創世記の「はじめに言葉ありき」を引きながら、上述の箇所まで著者は思考を展開する。言葉によって世の中の事象は表現されるものであり、表現されるものがアプリオリにあってそれを言葉で表現するという順番ではない。言葉というフィルターは既に存在しているものであり、言葉を創造することはないという。

 著者の考え方に従えば、「造語」についても、意味内容を私たちが了解可能であることを考えれば、予め存在していたが私たちが気づかなかったものが「造語」としてあたかも後から作られた、ということになるのであろう。これはこれで筋が通っているように思える。

 ところでしかし、人は自分の言葉をもってはならないが、やはり自分の言葉をもたざるを得ないということが、じつはある。相対的個人を超えた絶対的意味を掴んだ人が、再びこの世に還り来て、そのことを語り出す時のその「語り」、すなわちスタイル、文章においては「文体」というものが、それに当たります。「意味」は普遍的ゆえに非人称的なものですが、発語もしくは文章として書きつけられる言葉は、必ずその人の肉体を通過している。したがってそこには否応なく個別性、正確には独自性というものが、刻印されているはずなのです。(71頁)


 では私たちが創り出すものは何か。言葉でもなく、意味でもなく、文体であるという。つまり、言葉や意味内容であっても、自分たちの身体を通じてアウトプットすることになるのであり、そこに私たちの創意が生じることになる。言葉をどのように選び、そこに物語を創り出すか。自分という存在による創作は、こうしたプロセスを経て生み出すことができるのである。だからこそ、どのような言葉を選ぶかが大事になるのであり、つまりは多様な言葉を知っていて使いこなせることが知的と言われるのではないだろうか。


2017年2月19日日曜日

【第681回】『ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人、NHK出版、2011年)

 舌鋒鋭く小気味良いテンポで進む明快な論旨。『国家とはなにか』を引き継ぎながら、なぜ著者が国家について着目しているのかがわかってくる。保守主義vsリベラルという安易な構図でナショナリズムへの賛成・反対を論じようとする言説構造を否定する。では、ネーションステイトやナショナリズムを私たちはどのように捉えれば良いのか。

 グローバルな視点では「格差の縮小」になっていることが、国内的な視点では「格差の拡大」としてあらわれるのである。私たちが「格差問題」だと考えているのは、じつはグローバル化した労働市場の観点からすればけっして「問題」ではなく、ただ国内的にのみそれは「問題」とするにすぎないのだ。(22頁)

 国内のリベラルは、格差拡大とナショナリズム意識の高揚を結びつけ、それらをナショナリズムを否定することで解消しようとする。しかし、リベラルが主張する格差拡大の主語は日本という国民国家を単位としたものであり、グローバルでは格差が縮小しているという著者の指摘は納得的だ。したがって、ナショナリズムを否定すれば日本における格差拡大を解消できるわけではない。

 私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。(29~30頁)

 そうであるからこそ、著者は限定的にナショナリズムを肯定している。その限定性は、国民の生活を守る主体としての国家であり、制約原理としてのナショナリズムであることを理解する必要がある。

 格差の問題についていえば、労働市場がグローバル化し、国内の格差が拡がれば拡がるほど、社会のなかでは逆に「日本人」というアイデンティティが強調され、それを拠り所にするような傾向が強まってくるということである。(32頁)

 その上で、国民の生活を保障するという国家の役割に鑑みて、国内における格差の是正が必要不可欠であると主張する。その理由はシンプルであり、格差を放っておくことによって、格差によって被害を蒙っているという意識を持つ層が排除の論理としてのナショナリズムを標榜するからであろう。本書は2011年に出版されたものであるが、アメリカの現在の政治動向を考えれば、この指摘が杞憂ではなかったことは残念ながら間違いがないだろう。

 国民国家がファシズムへと向かわないようにするためには、国外市場の拡大を重視することで国内経済の脆弱化を放置ないしは加速させてしまう経済政策を進めないようにすることが必要となる。つまり、国内経済を保全するというナショナルな経済政策が、国民国家をファシズムに向かわせないためには不可欠なのだ。(210頁)


 国内の格差が是正されず貧困層を中心とした人々によるナショナリズムの高揚は、排外主義と共に国外への市場拡大路線を目指すファシズムへとつながりかねない。それを防ぐためには、国家の関与を否定するのではなく、国内経済を再建し、雇用を創出することが肝要である。