2019年8月3日土曜日

【第973回】『私の読書遍歴』(木田元、岩波書店、2010年)


 著者の書籍は難しい。西洋哲学、とりわけハイデガー研究の碩学として著名であるため何度となく挑んでみたものの、恥ずかしながら入門と銘打った書籍でもこれまで苦戦し続けてきた。そこでアプローチを変えてみた。著者が何をインプットし何に影響を受けてきたかを知ることで、外に現れない著者の感覚や指向性を理解できるのではないかと思ったのである。

 そこで辿り着いたのが本書である。興味を持続しながら読み進めることができた。著者が影響を受け、どのような時期に何を読んできたのも理解した。果たしてこれを踏まえて著者の書籍を理解できるかは未実証であるが、まずは本書について述べる。

 詩なんか読んで、いったいなにになるんだとおっしゃる方が多いと思う。たしかに、なんにもなりはしない。しかし、こういうことは言えるのではなかろうか。私たちは、日ごろひどく振幅のせまい感情生活を送っているものである。喜びであれ悲しみであれ、よくよく浅いところでしか感じていないのだ。ところが、われわれは詩歌を読み、味わい、感動することによって、喜びや悲しみをもっと深く感じることができるようになる。ものごとを深く感じるためには、それなりの訓練が必要なのである。小説を読むとか音楽を聴くとか、人それぞれにその訓練の仕方は違うであろうが、私にとっては詩歌を読むということが、そのための最良の訓練になったような気がする。若い人たちにも、好きな詩人歌人をさがして、その作品をそらんじるくらい詠みこむことを薦めたい。(108~109頁)

 なぜ詩を読むのか、はたまた小説や音楽を味わうのか。著者の答えはシンプルであり、私たちが抱きえる感情の幅や深さを増すためであるとしている。小説を読む効用としてなんとなく意識してきたものであり納得的であるとともに、詩歌にもチャレンジしてみようと思わせる内容である。

 本には旬があって、ドストエフスキーや太宰治などは、二〇歳前後が旬だと思う。漱石などは、若いときにはむしろその味が分からず、四〇代にでもなってはじめて分かってくるということがありそうだ。鴎外の史伝物などにいたっては、六〇代にでもなってはじめて味読できるといったものではないかと思う。(120頁)

 ではいつなにを読むのか。それぞれの作品には旬があると著者はしている。思い違いしないようにしたほうが良いのは、本そのものに旬があるというよりは、本と自分自身の経験や志向性との相性によって旬が決まるということであろう。したがって、自分で読んでみながら旬を探ってみるというアプローチが良さそうである。

 最後に、単行本の「おわりに」での若者へのメッセージを引いてみたい。

 若い人たちにも、いい会社に入るとか高い給料をもらうといったことを考えるよりも、好きなこと、したいことをして生きることをお薦めしたい。もっとも、自分がなにをしたいのか、なにが好きなのかを見きわめるのがなかなか大変なことではあるわけだが。そして、できればいい本を読んで、深く感じ、深く考えることを学んでもらいたい。繰りかえして言うが、本を読むのは情報を集めたり断片的な知識を蓄えるためだけのものではないのだ。私たちは間もなく消えていなくなるわけだが、こんなに私たちを楽しませてくれた活字文化があっさり消えてなくなったりしないように祈って筆を擱きたい。(223頁)

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)
【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

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