現場でともに生活することで、現代市民社会との差異が明確になります。その差異は、当初はプナンでの社会に対する疑問という形を取りながら、次第に私たちが暮らす日本社会への疑問へと変容します。たとえば、冒頭での以下の対比に如実に表れているでしょう。
私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外臓する世界に生きている。そのため、それらの財を交換によって入手するために必要な貨幣を手に入れる手立てをまずは確立せねばならない。その手立てには、人間が生きがいや生きる意味を見出すプロセスが伴ってくる。そこでは、ニーチェが言うように、仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだほうがましだと考える人間も出てくる。
現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために日々、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。(19頁)
何かを蓄えようとせず、その日にその場所にあるものを分け合って食べることを<普通>とするプナンの社会に対して、現代市民社会では目的を持って日々の生活を送ります。その目的とは、将来における満足を最大化することであったり、働きがいや生きがいといった人生における意味を得ることです。
著者はどちらが優れているということを主張したいわけではないと説明していますし、その通りなのでしょう。両者を比較することで、少なくとも現代市民社会に生きる私たちにとっては、何を自明のものとして生きているかが明確になるようです。
著者の優れた考察は、人類学あるいは社会学のもはや古典的名著ともなっている真木悠介『気流の鳴る音』を思い起こさせます。
本書で興味深い箇所の一つは、プナンの人々が反省をしないということに気づいた著者の以下の考察です。
反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないかと言う点である(中略)。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。(51頁)
過去から未来に向けた一直線の矢印で近代以降の市民社会の時間軸を表現することはよくあります。しかしながら、その契機として反省という作用を置いているところが本書の特筆すべき視座なのではないでしょうか。
ビジネスの現場においても、内省あるいはリフレクションというものは良い意味で注目され、称揚される行為です。私自身もそのように思います。しかし、その内省に焦点を当てて、なぜ内省を私たちが行うのか、反対に言えばプナンの人々はなぜ内省しないのかというリサーチ・クエスチョンによって、著者は鋭く考察を加えます。
ここでの今を生きるという発想こそが、最初に引用した箇所と繋がります。すなわち、目的意識によって将来を現在よりも価値が高いものとして見出そうとするのではなく、今自体に重きを置くという発想です。
したがって、プナンの人々は過去に起きた事象を将来への時間軸の中で価値づけるということはせず、今という時点において良いことを行うことに焦点を当てるのです。翻って言えば、私たちは、将来における価値の最大化に重きを起きすぎて、現時点においてゆたかに生きるということを過小評価しすぎているのかもしれませんね。
こうした発想を所有という概念に展開しているのが以下の箇所です。
個人的に所有したいという慾への初期対応の違い。
一方は、所有慾を認め、個人的な所有のアイデアを社会のすみずみにまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人の内側に掻き立てるような私たちの社会。他方は、個人の独占慾を殺ぐことによって、ものだけでなく<非・もの>までシェアし、みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会。
プナン社会では、個人的な所有が前提ではなかった。それゆえに、そこでは、概念としての「貸し借り」は、長い間存在しなかったのである。(127頁)
著者は、当初、自身が持ってきた決して多くはない貨幣を、プナンの人々が感謝もせずにもらう行為に違和感を覚えたそうである。そこには、貨幣は誰かが所有するという発想が当たり前のものとしてあり、それを侵す行為に対する否定的な感情があります。私たちにとっては当たり前とも言えるものかもしれません。
しかし、プナンでは、貨幣をはじめとしたものだけではなくものでない存在、例えば知識や能力といったものも個人が所有するという発想ではなく、集団のレベルで共同で共有するという考え方のようです。したがって、狩猟や漁を誰かが特異な力量で優位に行うということではなく、いかにして集団の中で共有するかという生き方に繋がります。そこには、所有によって人々の間に格差が生じるということはありえません。
こうした自然な協働は、子育てにも影響しているようです。
プナンのアロペアレンティングは、彼らの生業に関わっているようには思えない。そうではなく、実子であれ養子であれ、そのあいだに垣根を設けず、みなで一緒に育てるというやり方は、プナンの社会に深く広く浸透している共同所有の原理に根ざしているという見方もできるように思われる(中略)。それは、自然に対峙するプナンが、人間同士のコミュニケーションを行う際の根本原理である。(159〜160頁)
アロペアレンティングとは代理養育のことを指します。プナンでは、養子縁組が盛んであり、実の親ではない人物による養育が当たり前の社会です。子供すらも親が所有するという発想ではなく、社会の中での共有財産として捉えているのかもしれません。
組織の中における共同での教育という文脈で捉えると、企業社会も同じなのではないでしょうか。所有というパラダイムで考えると、ある社員を育成する存在は、上司であり、メンターや育成担当といったアポイントされた存在だけを考えがちです。
しかし、そうした存在だけに育成を任せることは、育成の主体にとっても客体にとっても難しくなっているのではないでしょうか。時間の制約もありますし、変化の激しい環境において数少ない主体が育成を担っても効果は限定的と言えます。
この辺りは中原淳先生の書かれた『職場学習論』を想起させられます。
同書では、上司、上位者、同僚・同期といった三つの主体が、精神支援、内省支援、業務支援という三つの支援をどのように分有するかを考察されており、プナンの社会における育成主体の分有ということと近いと考えるのは論理の飛躍でしょうか。
飛躍かどうかはさておき、発想があっちこっちに飛ぶ余地のある書籍は、私にとってはありがたい存在です。時期を見て改めて読み直してみたい、そんな一冊でした。
【第403回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
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