比叡山には一度だけ訪れたことがある。使い古された霊験あらたかという形容がいかにも当てはまるような静謐とした所であった。もう一度訪ねてみたいと思い、司馬遼太郎さんの解説を読もうと、本書に手が伸びた次第である。
もっとも、最澄に対して神秘性を付加したり、個人崇拝をしないということも叡山文化のめでたさであり、同時に坂本の風のよさでもあるにちがいない(39頁)
比叡山の門前町である坂本に関する著者の形容である。歴史の教科書にも太字で必ず出てくる最澄という人物を、いたずらに特別視しない町の風土に心地よさを感じる。
子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。書のにおいが似るというのは、偶然ではないかもしれない。(41頁)
最澄の書を見ての所感である。様々な歴史的人物を創作の対象としてきた著者ならではの慧眼といえよう。『坂の上の雲』も読み返したくなってしまう。
【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)
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