2012年4月30日月曜日

【第81回】『十字架の七つの言葉(改訂三版)』(西谷幸介、ヨルダン社、2001年)


 初詣と称して年始に神社に行き、結婚式は教会式で挙げ、親戚の葬儀の際にはお寺を訪れる。おそらくは日本に住む他の日本人の多くと同様の行動を行なってきた。こうしたことは諸外国の方からは違和感を持たれると言われるが、私自身はさしたる違和感を持たずに行なってきたことを正直に白状したい。
 特定の宗教を持たない人間にとって、キリスト教とは本授業の名称にもあるようにキリスト教「学」という学問のイメージが強い。換言すれば、私にとってのキリスト教とは、世界を認識するための一つの視座であり、それを学ぶことで日常に起こる出来事を解釈できる有益なツールと言える。
 このように、一つの学問として私が理解していたキリスト教の要諦を一言で述べれば、一神教の宗教であるということになろう。
 本書に出会うまでに読んできたキリスト教に関連する書物をもとにした一神教と多神教との違いは以下の通りである。たとえば橋爪大三郎は大澤正幸との対談の中で多神教における神(神様)とは人間の「仲間」と形容している(橋爪・大澤、20頁)。それに従えば、多神教の社会においては、神からの視点で物事を捉えるというよりは、あくまで人間を中心とした視点で物事を捉えることになると言えるだろう。
 橋爪はこうした多神教の神との対比として「一神教における神(God)は人間ではない」(橋爪・大澤、21頁)とする。このように捉えれば、Godは多神教における神様のような人間の仲間ではなく、まったくの「アカの他人」にすぎないこととなる(同上)。そうであるからこそ、一神教ではアカの他人であるGodが創造主として人間を「創造する」ということになる。唯一無二のGodの視点から世界を見るという鳥瞰的な構図であると言えるだろう。
 こうした一神教の構図をもとにして、キリスト教においては人間および世界自体を創造する全知全能の存在であるGodと人間との対話、すなわち祈りが成立する。対話により「問いかけと応答や契約の一方の当事者である人間の主体性、責任」が生じる(小田垣、15頁)。祈りによって、Godに従う(subject to)ことで、自身の主体性(subject)が明確になるという構図がここに生まれることになる。

 私がこれまで理解していたキリスト教に対する考え方と近しいと感じた部分は、著者が一つめの言葉に関する第二の観点として「すべての人の父であられる神」と述べている点である。つまり、神と人間とを対置する文化圏において人間の主体性が重視され、それが人間の尊厳や人権という西洋近代の思想の礎となったという著者の指摘は私が読書前に抱いていたイメージと同じである。
 しかし、私が本書を読んで刺激を受けたのは、一つめの言葉に関する他の二つの観点である。以下の二つの観点、すなわち第一の観点と第三の観点については、本書を読むまではキリスト教に対するイメージとして持っているものとは異なるものであった。
ではどの部分が私が抱いていた従前のイメージと異なっていたのであろうか。
 第一の「祈りの人イエス」において著者は、限界状況に接したとき人は「自分の有限な考えに固執しない、我を張らない、という謙遜な思い」が生じると述べる。キリスト教の考え方として第二の観点にあるような主体性を産み出す作用としての印象が強かった私にとって、謙遜という観点は全く見落としていた点である。しかしよく考えてみれば、限界状況を迎えた中でGodという絶対的な存在の前に跪き、自身のそれまでのあり様や価値観のこだわりをなくすということは納得的である。
 第三の「他者の幸せのための執り成し」においては、著者はエゴイズムの罪について述べている。すなわち、「イエスの十字架の死の背後にあるのは、かつて生きた人々も今の時代に生きる私たちも含めて、すべての人間に共通する「罪」の思い」であり、「自分の幸せと利益のためなら、人を押し退けても傷つけても、抹殺しても平気だ」という考え方を否定しているのである。キリスト教では神と一個人との関係性のみが重視されていると考えていた私にとって、こうした個人同士の連帯に関する記述は新鮮であった。レビ記・19章・18節にも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(新共同訳)とあるような隣人愛に対する理解が欠落していたが故の誤解であったと考えられる。

 これらの二つの観点はいったい何を意味しているのだろうか。
 私が考えたのは「開く」というキーワードである。「自分の有限な考えに固執しない、我を張らない、という謙遜な思い」は自分自身を世界に対して「開く」ことであろう。また、「自分の幸せと利益のためなら、人を押し退けても傷つけても、抹殺しても平気だ」と考えることを諌めるのは他者と自身との壁を「開く」ということではなかろうか。反対の側面から述べれば、私自身のキリスト教に対するイメージが、あまりに個人と神との限定された関係性に焦点を当てすぎていた、ということが言えるだろう。
 では、なぜ上述した二つの観点に刺激を受けたのであろうか。それは、私が本学に入る以前に研究してきた組織行動論におけるキャリア論との親和性に思い至ったからであったと考えている。
 第一に、自分自身を世界に開くという点について説明を試みることとする。従来のキャリア理論においては、ある職務において求められる知識・スキルと、自身の保有する価値観や知識・スキルをマッチングすることに重きを置いていた。それは、環境変化が穏やかで職務特性も固定的であった時代においては最適な戦略であったと言える。しかし、環境変化が激しく、職務の内容が変化するスピードが早い現代においては、そうしたスタティックなキャリア理論ではなくダイナミックなキャリア理論の重要性が増している。
 このような現状において、動的なキャリア理論の一つであるクランボルツ教授のPlanned Happenstance理論をもとにキャリア理論を展開している花田光世はバリューストレッチを重視している。すなわち、仕事や生活で辛かった経験へ対処を経て得られた新しい自身の気づきを「今まで慣れ親しんだ考え方、価値観が通用しない世界、自分をとりまく安定した環境が破壊された結果」として積極的に評価するということである(花田ら、14頁)。自分自身のあり様を固定的に捉えるのではなく、むしろ自身の中に潜在的に存在する価値観を引き出すために、外的な環境やイベントを利用するということである。
 第二に、自分と他者との壁を開くという点について。自分自身を環境に対して開くことは、他者とのつながりを生むための整備を行なっているに過ぎない。他者とのつながりを生むためには、主体性を持ちつつも他者に対して開いていない「自立」ではなく「自律」していることが必要である。自律とはすなわち「他者のニーズを把握し、それとの調整をはかりながら、自分自身の行動のコントロールを行い、自らを律しながら、自己実現をはかること」と言えるだろう(花田ら、19頁)。
 しかし、自分自身を開き、他者との関係性を築き続けるということが困難であることは想像に難くない。開くというと聞こえは良いが、それは自己のアイデンティティーの可変性を肯定することであり、自分自身を再定義することが求められるからである。とりわけ、厳しい現実に直面した時に自身のアイデンティティーをポジティヴに組み替える可能性を見出すことは容易ではないだろう。
 こうした困難について、著者は第六の言葉「成し遂げられた」の解説の中で、日常的な試練や挫折の経験の多さを指摘している。その上で、「人間はイエスにおいて私たちの救いを成就してくださった神に信頼するなら、それらの経験もけっして無意味ではなく、また厭うべきものでもなく、私たちの人生をむしろ豊かにし、確かにするものだと悟る術を身につけていく」ものと述べる。その前提に立った上で「それらを人生の重荷ではなく、重しとして受け止める希望の訓練を受けてい」くことを主張しているのである。
 この部分は組織行動論の分野でも研究されていることであり、慶應義塾大学大学院の前期博士課程論文として上梓した拙論でも述べた点である。拙論の研究成果を要約すれば、職務の特性やそれによる職務経験が近似している状況でも、働く個人がその職務をどのように意味付けるかによって、意欲のあり様は異なる。換言すれば、説明変数としてのキャリア意識が、被説明変数としてのモティベーションに有意な影響を与える、ということである。したがって、職場という個人にとって辛い経験が時に起こる環境において、それを自身にとってどのように「重しとして受け止め」られるかが大事な視点となってくる。こうした知見について、キリスト教と組織行動論とが同じような結論を出していることは興味深い点である。

 私自身の研究についてキリスト教という新しい観点から見直すことができたことは有意義であったと考える。冒頭でキリスト教学は世界を認識するための一つの有益な視座であると私は述べた。本書を読み、理解したことをアウトプットしている今もその気持ちは変わらない。しかし、キリスト教とは私が思っていたようなツールというような表面的な視座ではなく、人生観や世界観といった深遠な視座なのではないかとより積極的に捉え直している。
 ここで必要なのは自戒や内省といった自らの内面を見つめ直す作用であろう。内村鑑三は「内省はもう一つの世界が我々の目に示される時に始まる」と内省の重要性について触れている(内村、127頁)。自身の生活に意味をより見出すものとして、また他方で夜郎自大になることを戒めるものとして、キリスト教という視座によって物事を考える訓練を続けていきたい。
 同時に、キリスト教を学問として学ぶことの有用性をさらに理解した今でも、入信しようとまでは思っていない。したがって、特定の宗教を持たない人間がキリスト教に入信するに至るまでの心的過程についてはよく分からない。現時点で持っている仮説としては、限界状況に私が接していないからというものが仮の答えであるが、今後の授業やキリスト教との接触の中で考えていきたいテーマである。本書を通じて学んだ通り、本を読んで文章を書いたことである現象を理解した、と思うような奢りを持つことなく、自戒しながら謙虚に生きることを自分に課していきたい。

【参考文献】
花田光世・宮地夕紀子・大木紀子「キャリア自律の新展開」『一橋ビジネスレビュー』2003年 SUM
橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社、2011年
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社、1995年
塩川太嘉朗「シェアードサービスにおける働き方とそれに伴う働く意識についての研究」慶應義塾大学大学院前期博士課程論文、2009年
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波書店、1938年

2012年4月22日日曜日

【第80回】『法律学習マニュアル[第3版]』(弥永真生、有斐閣、2009年)


 大学院で学ぶことの難しさの一つは、学び方をいかに学ぶか、という点にあるのではなかろうか。大学院にわざわざ進学するということは、研究する内容に対する興味・関心は当然あるだろう。しかし、内容への興味・関心だけで卒業できるのは学部の話であり、修士を取るためには研究内容を論文として正当化させる必要がある。学術的に正当な論文を執筆するためには、研究のプロセスである学び方や研究のしかたを押さえることが求められるが、これが難しい。少なくとも、初めて修士論文を書いた三年前の私にはそう思えた。

 この四月より、二十歳の頃から慣れ親しんできた組織行動論および人事論から労働法へと研究テーマを変えて二つ目の修士号を取得しようとしている。研究に対する基本的な態度やスキルには共通する部分が多いもので、特に先行研究への投入量がものを言う点は変わらない。入学前の約半年間、理論書と判例を何度となく読みこなせたのは、前回の轍を踏んだからであると得心している。しかし、具体的な研究内容はやはり学問領域が異なれば全く異なるものである。それは具体的には、最終的に書くことが求められる学術論文の要素が異なるからであり、そこからリバース・エンジニアリングすれば、研究手法の違いも自ずと明らかになるはずである。

 では、法学にはどういった研究プロセスが求められるのか。その答えの一つが、本書に書かれている。

 まず、経営学と共通する点としては、論文を「芋づる式」に積み上げていく点である。具体的には参考文献や注で指摘されている文献を読み進め、テーマを掘り下げて理解するということである。

 その際には、研究するテーマについて、主要なテキストや体系書がどのように論じ、どこに争点があるのかを整理する必要がある。とりわけ法学においては、一つのテーマに対して複数の学説があることが通常であり、さらには判例と必ずしも一致しないため、どこが共通していてどこが異なるのかを整理する必要があるだろう。

 次に、経営学との最も大きな違いは、論文や学術書に加えて判例を加える必要があるということであろう。判例の原文はお世辞にも読み易いものではなく、本書でも外国語を学ぶような感覚で学べ、と書かれている通り大変な作業である。

 では、判例をどのように分析するか。

 第一に著者は、テーマに関する最高裁や大審院の裁判例を押さえ、必要に応じて下級審裁判例も収集せよ、という。第二に、個々の裁判例の前提になっている事実を踏まえ、要件と効果を明らかにし、その当てはめをどのように行なっているかを整理する必要がある。要は法的三段論法で判例を整理するということであろう。その上で第三に、年表のようなものを作成することで、それぞれの判例の関係性や、時代による変遷の経緯を明らかにするのである。

 と、あたかも分かったような気でここまで書いてきたが、「学ぶ方を学ぶ」ための書籍とは、自身の研究が進むたびに気づきの質と量が増えていくものである。研究の進捗とともに、折に触れて読んでいきたい一冊である。

2012年4月15日日曜日

【第79回】『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』(小熊英二、毎日新聞社、2011年)


 2009年の自民党から民主党への政権交代は、その後の民主党政権のパフォーマンスはさて置き、日本の政治史上における一つの転換点であったことは間違いないだろう。それは国政レベルでの実質的に初めてのマニフェスト選挙であり、その内容は、財政規律の強化、子ども手当の実現、公共工事の削減、消費税の5%据え置き、等であった。ここで重要なのは、なにが取り挙げられたのかではなく、なにが取り挙げられなかったか、である。

 2009年だけではなく近年の国政選挙で主要な争点として取り挙げられなくなったものは、平和および憲法九条の問題である、と著者は指摘する。平和の問題とは戦争の記憶を前提として生じるものであり、戦争を直接的に体験した世代の占める割合が著しく低下したことが第一の理由であると述べている。

 第二の理由として、冷戦構造の終結が挙げられる。冷戦時における国際間の戦争は米国とソ連との代理戦争であり、日本が平和憲法をもとに参戦しないことに道理的な問題は存在しなかった。しかし冷戦後には、人権を蹂躙する政府に対する抗議行動としての地域紛争に対して国家間でのコンセンサスを以て対応するケースが急増した。そうした状況において、平和を実現するための戦争に、平和的な憲法を理由に軍隊を派遣しないという道理は通じにくくなっているのである。莫大な戦費負担にも関わらず諸外国から批判を受けた湾岸戦争でのトラウマも相俟って、特に大きな議論もなく自衛隊の海外派遣は黙認されるようになりつつある。

 こうした冷戦構造の終結は思想界にどのような影響を与えたのか。著者はそれを1970年パラダイムの終結と表現している。1970年パラダイムとは、高度経済成長によって日本のマジョリティーはパイの分配にあずかるため革命を起こそうとしなくなったこと、沖縄や在日コリアンやアイヌ、被差別部落などのマイノリティーの存在、さらにアジアに対する戦争責任が注目されたこと、等から成る。すなわち、立ち上がらないマジョリティーへのいら立ちと、そのマジョリティーを撃つ足場としてのマイノリティーとアジアへの注目とに集約されるだろう。

 思想の変化は社会の実態の変化より十数年遅れて生じるという著者の見解に照らして考えれば、1970年パラダイムの萌芽は55年体制と形容される自民党支配の体制および高度経済成長の結果として生まれたものと言えるだろう。現代に目を転じれば、バブル崩壊から十数年後に当たる2006年の流行語大賞「格差社会」という言葉に集約された。思想界と現実との時間軸におけるズレを自覚的に把握することで、私たちが気づける範囲は広がるのではないだろうか。

 こうした状況下において、著者は現在の思想状況に対して、拡散する社会の中で全体を把握しようとする意識の希薄化が感じられることに警鐘を鳴らす。具体的には「たとえ困難であろうとも、政治・経済・思想・文化などの知見を総合し、歴史的なパースペクティブを持って現在の私たちの位置を見定める努力が必要」と述べている点は納得的だ。ただし、著者と私とは1999年~2003年および2007年~2009年の間、SFCの教員と学生という関係性を有していたため、自学を礼賛するかのように思える点は割り引いて受け止めていただければ幸いである。

2012年4月8日日曜日

【第78回】『教育効果測定の実践 企業の実例をひも解く』(堤宇一編著、日科技連、2012年)


 企業における人材育成の効果測定は難しい。それを文章にすることはさらに難しく、実務に役立つ書籍はなかなか見当たらない。そのような状況の中で、編著者の前作である『はじめての教育効果測定』は、私にとって教育施策の効果測定における数少ない優れたテクストであった。本書もまた、前作の議論を踏襲しつつ、副題にもある通り具体的な企業での事例をふんだんに用いた意欲作となっている。

 私にとって大きな学びとなったのは以下の四点である。

 第一に、特定の教育イシューについて、門外漢である場合は専門家と協同するということである。企業内での人材育成担当として、また外部のコンサルタントという立場として育成に携わってきたが、外部の専門家と協同した経験は決して多くない。時間がないという理由でつい省きがちな視点であるが、著者が指摘する通り、専門家と協同することで教育施策が解決すべき問題点をクリアにできる。問題点を正確に把握できていなければ、どんなに分かり易いコンテンツでも意味はないのであるから、専門家と協同することの効用は計り知れないであろう。

 第二に、受講者の上司を研修実施の前の時点で巻き込むである。著者が指摘するのは二つのメリットである。一点目は、私自身も意識して実践してきたものであるが、受講者本人が修得したスキルを現場で発揮し定着することを支援するためのものである。研修の最後に行動計画を作成し、それを人材育成部門とともに現場の上長にも報告する、ということが典型的な例であろう。二点目は、受講者本人を起点にして職場レベルでの実践の担保を行なうということである。そのためには、研修を行なう前の時点から、研修の狙いや学習項目を事前に上司に伝え、それを中長期的にどのように展開していくのかを丁寧に説明する必要があるだろう。これは、単に教育施策だけではなく、職場開発や組織開発と呼ばれる領域にも広がる大きな可能性を有した取り組みといえるのではないだろうか。

 第三に、事前課題の効用である。研修を行なうためになんとなく事前課題を設けるということが時折見られるが、意図のない事前課題では意味がない。そうではなく、研修開始の時点で、受講者全員が同じような課題意識を持ち、もっと言えば同じレベルでのレディネスを持たせるために事前課題を用いるべきなのである。受講者の中に、研修への温度感が低かったり、適切ではない期待を持って参加する者がいると、研修に前向きに取り組もうとしている受講者の意欲を殺ぐことになりかねない。研修の場をしつらえるために、事前課題が果たす役割は存外大きいのである。

 第四に、事務局の研修への参加である。この点は、とりわけ私がコンサルタント時代に研修のオブザーバーを勤める際に読んでおきたかったポイントであり、読んでいていたく反省しきりであった。著者によれば、研修の受講者から見れば、講師だけでなくオブザーバーを含めた全ての人間が研修の場を構成するメンバーなのである。したがって、オブザーバーが文字通り客観的に引いた視点のみである場合、受講者が研修の場で本音を語ることの障壁となりかねない。

 このように列挙してみると、本書がいわゆす研修「後」のアンケートをはじめとした教育効果測定に特化した書籍でないことが明らかであろう。アンケートをはじめとした効果測定は、事前の全体のデザインを為してこそ初めて意義を見出せるものなのである。研修後についでのようにアンケートを取るような粗相がないよう、自分自身に強く言い聞かせたい。