2011年5月29日日曜日

【第27回】『労働判例インデックス(第2版)』(野川忍著、商事法務、2010年)

いま社会保険労務士(以下、社労士)の勉強をしている。社労士の資格を取得する上で求められるのは多岐にわたる細かな知識を網羅的に覚えるものであり、いわば横糸を紡ぐようなものである。人事や総務に必要な知識を幅広に理解するには適していると言えるだろう。

しかし丈夫な布地は横糸と縦糸とで織り成されてできているものである。

丈夫な布地とは、現実のビジネスで言えば、健やかな社員からなる頑強な組織である。そのため人事や総務が担う役割は、社労士のようなスキル・スタンダードによる横糸とともに、それを現実の人や組織に展開する縦糸とで紡ぎ出すことではないか。とりわけ労働法の領域で求められる知識において縦糸の位置を担うものの一つが、判例であろう。

英米法の流れを受ける日本において、判例は法律に近い重要性を持つものである。その積み重ねによって法律の修正や制定を促すものであり、この一点だけを考えても判例の持つ意味合いは重たい。

しかし、それと同時に本書を読んで判例の重たさを考えさせられたことがある。

それは、労働法の裁判を起こすことは、労働者側からすると「キャリアの死」を意味するという厳粛な事実である。企業を相手にして訴えを起こす以上、その企業にいづらくなるだけではなく、裁判は公のものであるから他社からもレッテルを貼られて見られてしまうだろう。社内外のいずれでもキャリアが閉ざされてしまいかねないのである。こうした人生を賭した判例の積み重ねで、企業における労働を取り巻く環境が整備され、更新されていることに想いを馳せると、その重みに感じ入るものがある。

このように、労働法の判例はキャリアを賭したものであるため、失礼な表現かもしれないが人間ドラマに彩られている。たとえば本書で取り上げられている、配置転換の不当性を訴えた「バンク・オブ・アメリカ・イリノイ事件」。経営方針に反発した勤続33年の課長職の社員が、それまで20代前半の女性の契約社員が担っていた支店の受付業務に左遷されたことに対して、損害賠償請求を訴えた事件である。

この訴えに対して、地裁は原告が旧知の顧客の来訪も多い職場であり、職務経験にも合致しない業務であり、著しく名誉と自尊心を傷つけられた、として請求一部任用した。こうした人の息遣いのする判例の積み重ねを持って私たちの企業での生活が保障されているのだ。判例は無機質なデータのつらなりではなく、有機的な深みのある蓄積なのである。

2011年5月21日土曜日

【第26回】『日本中世の百姓と職能民』(網野善彦著、平凡社、2003年)

職能を考えるために現在の企業やビジネスや働き方をもとに研究することはもちろん必要だ。しかし、それとともに職能の歴史をひもとくことが大事なのではないか。このような想いを漠然と持っている中で出会ったのが本書である。

百姓という言葉のイメージはお百姓さんであり、農業に携わる人ということを現代では意味しているといえるだろう。しかし、百姓という概念はもっと広い意味合いを持つものであった。多義的な仕事を内包する概念としての百姓という職業が、次第にその意味を狭めていき、現在のような意味合いへと変化を遂げたのである。

では中世における百姓とはどのような存在であったのか。

百姓を想起する際に年貢という制度を切り離して考えることは難しい。しかし年貢の起源は、私たちが現在思い浮かべるようなものと異なることが指摘されている。年貢というと、当時の百姓にとって荘園領主からの制約であり土地への束縛であるというイメージがあるが、それは当初の意味合いとしては異なるそうだ。年貢とは、当時の平民百姓が自由民としての立場を保つための条件という意味合いの方が強いらしい。現在に置き換えて考えれば、固定資産を活用しての自由な経済活動を行なうためにその代償として支払う租税ということであろうか。

現代の私たちが抱く年貢に対するネガティヴなイメージの一つは、出挙という高利の利率での種籾の貸与制度に由来すると言えるだろう。では高利で貸し出されたものの上分はどこに納められるのか。実はその対象は必ずしも荘園領主ではない。出挙の上分は神仏に仕える人々によって用いられるものであり、神仏のために使われたのである。わが国における金融の誕生とも言える出挙とは、神仏と人々の生活とのつながりによるものであり、持つものと持たざるものとの束縛関係を生み出したものではない。

このような地域における土地を巡る関係性が社会と人民の生活のあり方を規定し、ひいてはその時代の権力主体をも規定する。平民百姓から宗教組織へ、宗教組織から権力主体へ、という流れである。西洋における権力主体がトップダウンで社会を規定するのに対して、日本における権力主体はミクロの積み重ねとしてのボトムアップで規定される、ということが言えるのかもしれない。こうした人々と社会との関係性の連なりが現代における人々と企業組織との関係性へと影響していると考えるのは自然であろう。

本書の指摘にもあるように、権力主体が西日本と東日本とで異なるところがわが国における面白い点である。西日本では天皇を中心として神仏や芸能に携わる職能が発展したのに対して、東日本では鎌倉幕府を中心として武士や武器に携わる職能が発展した。人々の自由な活動を守る存在として権力主体があり、そうした自由を享受するために年貢がある、という関係性である。

わが国の職能は同調圧力が高くオリジナリティに乏しいとも言われる。しかしわが国における職能の歴史をひもとくと、異質で多様な職業のぶつかり合いや結びつきが見出される。豊穣な可能性を有する職能について、私たちはもっと広い視点で捉えることが求められているのではないだろうか。

2011年5月14日土曜日

【第25回】【番外編】余は如何にしてアパパネ信徒となりし乎


POGとは Paper Owner Game の略称であり、実在の競走馬を用いたゲームである。デビュー前の数千頭の競走馬の中でどの馬が活躍しそうかを予想し、その相馬眼を競い合うという馬好きの矜持を賭したものとも言えるだろう。以下は私が仲間内のPOGに参加していた200912月に書いたエッセーであるが、一部冗長に過ぎるので加筆・修正している。



「ダノンパッションが右前脚屈腱炎を発症。来春のクラシックは絶望。」
124日にインターネット上のスポーツ紙各誌でこの報道を目にしたときの落胆は酷かった。ダノンパッションは、「私の馬」たちの中でようやく頭角を現した、大きなレースを勝てそうな牡馬(オスの馬)であり、それだけ期待を掛けていた存在だったのである。その彼が故障とは…。屈腱炎であれば約半年前後はレースに出られないことを覚悟しなければならない。最初から期待していなければここまで落ち込むことはなかったに違いない。明るい将来を嘱望できる存在であったが故に、故障という現実に直面して私は酷く落ち込んだのである。

将来といっても遠い話のことではない。ダノンパッションはその二週間後にG1レース「朝日杯フューチュリティーステークス」(以下、朝日杯)への出走が確定しており、上位人気が予想されていたのである。私はレースが行なわれる中山競馬場に彼を応援しに行こうと思い、期待に胸を膨らませていたのである。「私の馬」がG1で勝つシーンを目の前で見る機会が遠のく瞬間であった。

競馬において、G1レースはよくテレビ中継されているために頻繁に行なわれているイメージがあるかもしれない。しかしG1は年に十数回しか開催されないレースであり、またそうしたレースに出走できる競走馬は、ごく一部の競走馬だけである。実際、POGに参戦した初年度における「私の馬」は、G1で好勝負を演じるどころか、ただの一頭としてG1に出走することすら叶わなかったのである。

しかし暗澹とした心持ちの中で思い直した。二週間後の期待は潰えてしまったが、一週間後があるではないか。一週間後には、2歳牝馬(メスの馬)のG1レース「阪神ジュベナイルフィリーズ」(以下、阪神JF)があり、そこにも「私の馬」が出走することが確定していたのである。「私の馬」の出走が実質的に確定した11月の時点で、私は阪神JFがある阪神競馬場行きを心に決め、妻の了承を得、宿泊先も押さえ(正確には「お願い」をし)、準備を整えていたのである。POGに参戦して初めて迎える「私の馬」のG1レースへの出走は胸が躍るものであり、またもし勝つことになるようならば是が非でも現地で見たいと思っていたのである。

阪神JFに出走が確定していた「私の馬」は二頭いた(後述するように、その後タガノガルーダが出走のための抽選に通ったため、最終的には3頭が出走)。一頭目はステラリード。彼女は8月に開催されたG3・函館2歳ステークスを勝利した、私にとって恩人ならぬ「恩馬」である。というのも、POGとは獲得賞金の多寡を競うゲームであるため、賞金が高いレースでいかに勝つかというのがゲームの行方を左右する一つの大きなポイントとなる。二年目のシーズンが開始した直後に、ステラリードがG3というG1・G2に次ぐカテゴリーのレースを勝ったため、私はこれ以上ないほどのスタートダッシュを決めることができたのである。

8月のそのレースで走るステラリードを応援するために当初は函館まで見に行くことも検討したのであるが、さすがにそれは断念してテレビの前で応援することにした。競馬のテレビ中継を見て心から興奮したのはディープインパクトが走った凱旋門賞以来であっただろうか。普段、「私の馬」たちは民放各局が放送する競馬中継番組には出てこない。民放のテレビ中継の放送時間は午後3時頃から4時頃の間であるが、その時間は活躍している馬が走る時間であり、そのような馬は「私の馬」のうち数えるだけしかいないからである。特に私の場合は、POG参戦一年目に指名した馬たちがほとんど活躍しなかったので、テレビ中継で「私の馬」を見たことは一年半(私が参加しているPOGの一期間は一年半である)で数回を数えるのみであった。したがって、テレビで「私の馬」を見るだけでテンションは上がるものであり、特に函館2歳ステークスでステラリードは一番人気を背負っていた。「私の馬」がテレビで中継される大きなレースで一番人気になることなど、それまで経験したことがなかった。

その結果として、ディープインパクト以来の高揚感をおぼえることとなり、ゴール前での大接戦では興奮しすぎてしまった。ゴール直前で他の馬に交わされたようにも見えたので意気消沈していたのであるが、掲示板の一番上に「私の馬」の馬番が表示されたときの感動は今でも忘れられない。それだけ忘れられない存在である彼女が今度はG1に挑戦するのである。これは見なければならないだろう。

出走することが確定していたもう一頭の名前はアパパネという。11月に行なわれたレースでレコード勝ちをしており、VTRで見るかぎり(大きいレースではなかったのでテレビで中継されていなかったのである)では強そうに見えた。もちろん、勝つことを期待してはいるのであるが、牡馬を相手にして大きいレースで敢然と勝ったステラリードよりも強いとは思えない。

1210日、大阪に移動する前日である。アパパネへの競馬評論家の評価が存外に高い。コンビニで立ち読みした競馬雑誌「ギャロップ」では2番人気に推されている。これは嬉しい誤算であるのだが、他方で、複数のスポーツ紙の報道によれば、アパパネは食欲不振で調子がいまひとつ上がらないとの報道もある。なんとも悩ましい状況である。

一方、ステラリードの評価は著しく低い。ギャロップでは△印(競馬新聞・雑誌における印の意味合いは◎⇒○⇒▲⇒△の順番で評価が高い)が二つ付いているのみである。私の事前の予想ではアパパネよりもステラリードの方が高い評価であろうと思っていたので、案外である。阪神JFの前哨戦とも言える11月のあるレースでたしかにステラリードは負けた。しかし力負けには思えなかったし、それほど悪い内容であったようには思えないため、私の中でステラリードの強さに対する確信は揺らいでいない。とはいえ、POGをやるようになってから競馬評論家の競走馬を見る目の凄さをまざまざと見せ付けられることが多いので、不安は募る。

期待と不安が交錯し、しかしややもすると不安な気持ちが大きくなる中、翌日、大阪へと移動。

1213日、阪神JFのレース当日。梅田を経由して、仁川へと向かう。一人で競馬場に行くことは久しく経験していない。十数年ぶりであろうか。新鮮な気持ちを抱きつつ、阪神競馬場には初めて訪れるため、漠然とした不安な気持ちもある。

しかし期待の方が大きいようだ。ステラリードとアパパネに続いて、抽選を潜り抜けてタガノガルーダが阪神JFへの出走を決めたため、まさかの「三頭出し」である。「私の馬」が出走する初めてのG1レースにしては、いささか威勢が良すぎる。繰り返しになるが、POG一年目に指名した「私の馬」たちはG1出走には一頭も縁がなかったのだから。

競馬場に辿り着いて阪神JFの単勝オッズを見ると、一桁倍率の馬が5頭もいる混戦模様である。2歳のレースのオッズのばらつきはこのようなものなのかもしれないが。その中でもアパパネは人気を集めており、2番人気である。どの「私の馬」にもがんばってほしいが、三頭出しともなると気持ちが図々しくなる。来年以降のレースへの出走を見据えると、ステラリードには3着に甘んじてもらって、アパパネとタガノガルーダで1・2着を独占してほしい、とまで大それた夢を見てしまうのである。

阪神競馬場は思いのほかきれいだ。大変失礼な先入見であるが、訪れる前までは「阪神」という言葉のイメージから、野次が多く雑然とした競馬場を思い描いていたのである。東京競馬場や中山競馬場よりもむしろ整然としていて好印象を持った。

レースが始まる時間まで余裕を持って訪れたのは一長一短であった。レースを見逃す恐れがないという意味では落ち着いて構えていられるのであるが、時間があるためにレースのことを考えすぎてしまい、心が落ち着かず、なんだかふわふわとした気分である。ディープインパクトを応援するために競馬場を訪れたときもそうであったが、他のレースの馬券を検討して気を紛らわすということもできないのである。かといって、阪神JFのレース展開を具体的に検討するというわけでもない。ひたすら、「私の馬」たちが勝ってくれるかどうか、またパドックで彼女たちの姿を見逃さないようにパドックが込み始めるタイミングを見計らうことに意識が向かってしまう。その結果、いたずらに場内を散策し、パドック場の下見と本馬場の下見とを何度となく繰り返すこととなる。

午後3時。パドック場に「私の馬」たちが現れる。テレビ局の人たちや競馬関係者で溢れた華やかなパドック場を「私の馬」たちが闊歩する姿を見られるなんて夢ではなかろうか。自分の興味がないレースにおけるパドックの周回時間はいたずらに長く感じるものだが、興味があるレースにおいてはとても短い。もっと見ていたいのに、あっという間にパドック場を出て出走馬は馬場へと向かう。私もそれに合わせて馬場が見えるところへといそいそと移動を開始する。

スタート直前、思わず目を覆いたくなることが現実となる。アパパネがゲート入りを嫌い、なかなかゲートに入らないのである。人間、ここまで最悪の状況というのはどうやら予想できないらしい。「私の馬」がこのようなことになってしまうなんて、全くもって想像できなかった。アパパネはもうダメだろう。暴れてしまって最悪の場合には出走すらかなわないかもしれないし、出走できたとしてもテンションが上がりすぎて暴走してしまうかもしれない。せっかく二番人気にまでなっているのに勝てないのか。アパパネへの期待の分を、ステラリードとタガノガルーダに期待を掛けよう。

その約1分半後。

ゴール手前の坂道を先頭で登りきり、ゴール板の前を真っ先に横切ったのはそのアパパネであった。腕が震えた。私の携帯電話にはアパパネが「私の馬」であることを知悉する知人・友人からメールが何通も届くのであるが、携帯電話を動かす手が心もとない。

レースが確定するのを待つことなく、競馬場の出口へと向かい、帰路に着いた。目の前の幸運をにわかに信じられず、晴れやかな舞台から逃亡するかのような不思議な感覚である。駅のホームに着き、電車に乗る。当たり前のルーティンをこなすことで、冷静さを取り戻す。冷静になるとともに、嬉しさがこみ上げる。「私の馬」がG1を獲ったのだ。と同時に、あろうことかレース直前に勝手に勝利を諦めたアパパネに対して心の中で何度も謝りながら、車窓からの大阪の景色を見るともなく眺めた。

2011年5月7日土曜日

【第24回】『大局観』(羽生善治著、角川書店、2011年)

著者の本をこれまでも好んで読んできた。二十歳前から将棋界の第一人者として活躍する傍ら、将棋だけに邁進するのではなく異分野のプロフェッショナルと盛んに交流をはかる姿勢には棋界を引っ張ろうという気概を感じる。むろん、著者は棋界に対する意識からこうしたことをしているわけではないだろう。異分野の人々との対話から深く内省し、新たな知見を紡ぎ出しているのだろう。

これまでの書籍も刺激的であったが、本書もまた、示唆に富む良書であった。とりわけ、勝負勘や人生観、対人関係といった領域に関して刺激を受けたことについて記してみたい。

第一に、勝負において著者は本書のタイトルにもなっている大局観を重視している。大局観を使う上では、将棋における終局の場面を想起することが大事であるそうだ。「詰み」の場面から逆算する発想を重視し、その逆算の際に読みや直感を大事にする、というアプローチを取るのである。

将棋を指す際には、現在の局面をもとにして数手先を読むということを考えてしまいがちだ。少なくとも私にとってはそうであり、これが素人の発想ということなのだろう。卑近な例で恐縮であるが、これは麻雀を考えれば理解し易い。現在の自分の手や河から今後の局面を想像することはもちろん大事であるが、それ以前に、自分の手が出来上がった状態から現在の打ち手を逆算するのはセオリーである。他者との駆け引きが求められるゼロサムゲームにおいては、逆算と積み上げを用いた戦略的思考が求められるということであろう。

第二に、人生観についてはラッキーに関する記述が興味深い。いつもラッキーなことに恵まれているという人は外発的な偶然性に委ねているのではなく、内発的な必然性を創り出してラッキーを活用できるようにしている、というのである。つまり、どのような状況になっても対応できるように常に準備をする、ということであろう。

ラッキーについて態度や精神論でうやむやな議論をする自己啓発本をするものが多い。それに対して、著者が述べていることは、イチローが大事にする準備に通ずるものであり、クランボルツ教授のPlanned Happenstance Theory を髣髴とさせる至言であるのではないか。プロフェッショナルや研究者が異口同音にいうことには深みと重みが感じられる。

最後に、ビジネスにおける対人関係を想起させる部分があった。コーチングにおいて、教わる側が教える側に対して積極的に質問をすることが大事である、というのである。質問や傾聴といった教える側の知識やスキルばかりに目が行きがちであるが、コーチングにおいては教わる側の言動もまた重要である。

この話は最近、ある方と話していて「援助を受ける力が初期キャリアの人々には重要」という指摘を受けたのであるが、上記の部分を読んでそのことを思い返した。忙しいミドル・マネジャーに管理職研修やコーチング研修と称した負荷を掛けすぎるのではなく、マネジメントを受ける側に対する「援助を受ける力」の強化を行なうことが、ビジネスの現場で求められているのではないだろうか。

<参考文献>
『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』ぴあ、2005
J.D.Krumboltz, Luck is no accident 2nd edition, Impact Publishers, 2010





2011年5月1日日曜日

【第23回】『会社法【第2版】』(伊藤靖史・大杉謙一・田中亘・松井秀征著、有斐閣、2011年)

会社法について学ぶのは本書が初めてである。普段はあまりに自明すぎて意識して考えることが少ない「会社」というものについて、法的な観点から考えさせられる良い契機であった。初学者なりに感じ取った部分を書いてみたい。

日本において株式会社制度が導入されたのは、1872年に制定された国立銀行条例において株主の責任規定が明示されたことが萌芽であると言われている。では、なぜそれまでの日本における商習慣の延長上として企業の制度を作るのではなく、西洋からの輸入物である株式会社制度を導入したのか。

本書によれば、そこには資金調達の側面に理由があるとしている。つまり、諸外国からのプレッシャーに伍するために殖産興業の推進が必須命題であった明治政府にとって、巨額の長期資金を企業に結集させるしくみとして株式会社制度が輸入されたというのである。

こうした背景を持って導入が進んだ株式会社制度には、いくつかの主体間におけるバランスに対する「配慮」があり、それが興味深く思えた。たとえば、単独株主権と少数株主権との比較である。

単独株主権とは、「1株でも株式を保有する株主であれば行使できる権利」である。他方、少数株主権とは、「行使のために一定数の議決権、または総株主の議決権の一定割合の議決権もしくは発行済株式数の一定割合の株式を有することが必要とされる権利」である。

このような二つの権利はお互いに牽制し合う緊張感のある関係性にあると言えるだろう。単独株主権を広く認めすぎると、あまりに多くの株主が自由に主張を言い合う百家争鳴の状況に陥り、何も決められなくなってしまうという状況に陥る可能性がある。したがって、環境変化に対していち早く対応することが難しくなってしまうだろう。

そうかといって、少数株主権に重きを置きすぎることにも課題がある。多くの権利を少数株主権にしてしまうと、多数派株主や取締役の権限濫用に対する対抗手段がなくなってしまう。その結果、少数の株主を保有するというインセンティヴが減衰してしまい、多くの資金を集めるという株式会社の本来の意義にもとることになってしまう。このように対立しがちな個別の事象についてバランスを考えることが会社法では求められているのである。

本書の内容を全て理解した、というレベルからは程遠く、会社法にはどのような項目があり、どのような議論が為されているのかについて目を追っただけにすぎない。しかし、よく分からないなりに項目を拾い読みするという読書のスタイルにもそれなりに意味があるのではないか。その場で理解できないことであっても、後日なんらかのキーワードが気になって調べことで理解する、ということはよくあることだ。そのためには、分からない状態でもまずインプットしておかないと、そもそも調べるという行動に移ることはないだろう。