2013年12月29日日曜日

【第235回】『ガウディ伝 「時代の意志」を読む』(田澤耕、中央公論新社、2011年)

 伝記から何を学び取るか。そこには読み手の態度とともに、書き手の態度も大きく関係するようだ。

 関係の濃淡の差こそあれ、同じ街で同じ時代に起きたことでお互いにまったく無関係なことなどない。関係がなさそうに見えても実はどこかで繋がっている事例を書いていくことによって、一度環境のなかに埋め戻したガウディの像が自ずから浮かび上がってくることもあるのではないか。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは「私は私と私の環境である」と言った。まさに、「ガウディはガウディとガウディの環境」なのである。(ⅱ頁)

 ある人物を描くということは、ある人物が生きた時代や背景とその人物との環境を描くことである、という視点に立って本書は書かれている。ある人物の意志というものは、ある時代における意志の一部であり、反対の側から見れば、歴史的な人物たちの意志がある時代の意志をも構成する、とも捉えられる。ガウディを描くということは、ガウディが生きた時代および当時の社会の意志を描くということなのだろう。

 こうした環境要因がガウディを生み出したと捉えられる特徴的なポイントについて、以下の四点を取り上げてみよう。

 いくつかの建築事務所でアルバイトをし、ひたすら図面を引き続けた。学業に身が入らなくても無理はない。 ただ、このアルバイト生活には、プラスの面も少なからずあった。 教室で課題として行う製図から学べることと、実際に金を出す施主がいて、その要求に従って現実の建築物に結実させるためにする製図から学べることの間には、天と地ほどの差があるのはいうまでもない。(37頁)

 実務と学術の往還関係。実務だけを行っていると抽象化の思考訓練が弱くなるが、学術だけに携わっていると顧客意識や実践的インプリケーションの抽出が弱くなる。したがって、これらを同時に、もしくは交互に行い続けることが大事なのだろう。学校で学ぶことと、アルバイト実務で学ぶこととを統合させた結果、ガウディという偉大な建築家が生み出されることになったという点は興味深い。

 ガウディのパトロンたち、「インディアノ」はこのような人種であった。バルセロナの、そしてカタルーニャの反映を支えていた彼らインディアノたちの資金は、カリブ海からやって来た。そしてその大きな部分は「もっとももうかる商品」ーー人間の売買によって生み出された。(中略) 善悪の問題ではなく、ガウディの建築を見たり論じたりするときに、その作品を可能とした資金の出所がどこであったのかということは念頭に置いておいたほうがいい。(105~106頁)

 美術作品や建築物の背後にはパトロンの存在がある。そうしたパトロンたちのどのような資金が芸術作品に投じられていたのかがここでは解説されている。著者も指摘しているように、奴隷売買というビジネスの結果として得られた資金であるから悪いということではない。あくまで、時代の意志ということを考える上では、こうした背景に意識を向けることが大事なのであろう。

 いずれにせよ自己摸倣によってムダルニズマの代表的建築家となったプッチ・イ・カダファルクが、新しい流行の前に、自分のスタイルを変更せざるを得なかったのはそのためである。 しかし、ほんの一握りの真の天才たちには、この定義はあてはまらない。彼らは、常に自己破壊と再生を繰り返すので、スタイルに縛られないからである。ガウディは生きつづけていたら、自分の流儀をひたすら継続したであろう。そして、それまで同様にそれは一時的な流行やスタイルを超越したものとなっていったであろう。 この点は、ピカソが自分のスタイルを次々に打ち破っていったこととよく似ている。きわめて稀にしか出現しないそのような超弩級の天才が二人も、同じ時期に同じ都市に暮らしていたということは奇跡としか言いようがない。その意味でも当時のバルセロナは「奇跡の都市」であった。(263頁)

 天才は自分自身のスタイルに固執せず、自らの可能性を次々に拓きながら、試行錯誤を続ける。このような意味での天才として、ガウディとともにピカソが、同じ時代の同じ場所に居た、ということは知的好奇心をかき立てる。ここでは「天才」という言葉が使われているが、私たちの日常生活やビジネスにおけるプロフェッショナルと呼ばれる存在も同様であろう。それは特別なことではなく、日常の一つひとつの工夫が私たちの殻を破るための一歩の踏み出しになるのではないか。

 建築には施主が必要であり、また、建築は人が住んだり使ったりしてはじめて完結する芸術だ、と本文中で書いた。もう一つ、建築が絵画や彫刻などほかの造形芸術と違う点は、「そこから動かせない」ということである。ガウディ展を東京で開催するとしても、サグラダ・ファミリア教会を持ってくるわけにはいかない。実物が見たければそこへ行くしかない。(中略) 現在においてそうであるように、過去においてもガウディやムダルニズマの建築物は土地の生活の一部であった。建設中や建設当初に人々の耳目を集めることはあっても、やがてそこに人が住むようになると、風景に溶け込んでしまったのである。(276頁)

 ここに、環境と建築物との相互依存関係が端的に表れていると言えるだろう。どちらかがなくなってしまったら、都市も建築物も異なったものになってしまう。モバイルミュージアムといったダイナミックな鑑賞物に意義がある一方で、こうしたスタティックな建築物にもまた、私たちの生活に欠かせない意義がある。

2013年12月28日土曜日

【第234回】『モバイルミュージアム 行動する博物館』(西野嘉章、平凡社、2012年)

 博物館という言葉から想起されるのはハコモノだ。そのハコモノにモビリティを持たせるということはどういうことなのか。本書を読む前に読者の多くが抱くであろう疑問に対して、著者は、その試みの特徴とメリットについて丹念に説明を加えている。

 「モバイル・ゲル」はいまだ実現せざるプロジェクトである。しかし、こうした思考実験は、ミュージアムとはなにかという問いに対する答えを、設備や機能といった側面から考える上で意義深い。すなわち、このプロジェクトは、展示コンテンツのコンパクト化、さらに言うならミュージアムのミニマリズムを究極まで推し進めるという、実験そのものにほかならないからである。ことばを換えると、それを欠いたならもはやミュージアムとは言えない最小限の構成要素として、なにが残るかを問うことに通じる。(30頁)

 モビリティを持たせるためには、要素を極限まで削る必要がある。要素を削り落とした上で、それをどのように配置するかというリデザインの発想が求められる。物事の本質を突き詰めて考えるという思考作業は、要素をシンプルにした上で、その組み合わせを検討する、ということを意味するのではないか。

 まずは著者のいうところのモバイルミュージアムの定義から見てみよう。

 「モバイルミュージアム」とは、固有の施設、建物、スタッフ、コレクションを常備した、ハードウェアとしてのミュージアムを指すものでなく、ミュージアム事業のあり方すなわち、小規模で、効率的な事業を積み重ねることで活動総量の増大を図るための、ソフトウェアとしての戦略的な事業運営システムのことを云わんとするものである。(44頁)

 簡潔に定義づけがなされている。さらにイメージを持つために著者の喩えを見ておくと良いだろう。

 「モバイルミュージアム」は、コンパクト化された展示ユニットを、ネットワークで結ばれた場所ないし施設のあいだで循環させるシステム工学的な設計図に、それを維持し実現するための社会経済学的な運営法を複合させる試みである。従来からある巡回展とは、企図の主旨、実践の方法が異なるということ。レゴに喩えると、こうである。百ピースの各色のレゴを用意しておいて、必要に応じて彩りを考えながら十ピース、二十ピース、三十ピースと配ってゆく。これが「モバイルミュージアム」である。それに対し、従来の巡回展は、同じ百ピースのレゴからなるものであっても、すでに組み上がっていて、もはやかたちの変えられない集塊物を配る作業と言える。ここに違いがある。(41頁)

 モバイルミュージアムと通常の巡回展との相違を端的に記している。まず、組み上がったものには組み上がったものの良さというものがあるとして巡回展そのものを否定していないことに留意が必要だ。その上で、巡回展とは異なるモバイルミュージアムの利点として、時代や社会に合った組み替え、すなわちリデザインの可能性を見出している。著者が用いているレゴのアナロジーをもとに考えればその利点はイメージしやすいだろう。

 さらに利点を深掘りしてみよう。

 機動性や自在性や汎用性を活かすことで、自然史標本や文化史資料など日頃馴染みのないコンテンツを身近なものにできる。所定の場所に標本や資料を常在させることによって、ミュージアムの本来的な使命である社会教育の機会を増大し、枠組みを拡大してみせる。それが、ミュージアムに対する外部からの有形無形の支援の増大につながるなら、さらによい。感覚的美意識や学術的好奇心に働きかけることで、日常空間を文化的な香りのする場に変容させる。あるいは、そこまで言わずとも、学術の世界とはいかなるものか、文化財とはどのようなものか、そうした関心や意識の啓発に寄与する。諸々の狙いのものに実現される「モバイルミュージアム」は、既存のミュージアム・コレクションの利用価値を顕現させ、その存在に適った展示デザインを考案し、広く一般に公開してみせることから得られる公益性を、幅広い社会層の享受できるものとするための展示事業システムなのである。(43頁)

 ここでは明確に、モバイルミュージアムの有する既存の博物館への相補性というメリットが提示されている。既存の博物館が持っている可能性を、モビリティを用いることによって、様々な主体の持つ潜在的なニーズを満たすことが増大化させるのがモバイルミュージアムなのである。したがって、それは、単なる作品の陳列ではなく、展示という場のデザインなのである。モバイルミュージアムによってニーズの裾野を広げ、啓発・教育活動を行うことによって、既存の展示物の可能性がさらに高まる。こうした循環を生み出すシステムとして捉えることがモバイルミュージアムの可能性の本質を表していると言えるのではないだろうか。

 海外での「モバイルミュージアム」事業を進めるなかでわれわれが学習したことのひとつは、展覧会は一回限りで終わらせるものでなく、回帰的に反復させてもよいのではないか。否、そうあるべきなのではないかということである。それによって展示コンテンツを、よりよいものに進化洗練させることができるなら、それに越したことはない。展覧会が場所を移動するあいだに、「成長」し、「進化」する。二〇一三年春には、進化を遂げたコンテンツが東京で再公開される。海外遍歴を重ねた展覧会が、どのような成長を遂げたのか、あらためて検証する機会を設けたいと考えている。展覧会を会場を変えながら繰り返すことの意味はここにある。(123頁)

 モビリティの持つ意義の一つは、こうした異なる地域・国・文化におけるオペレーションから得られる学習効果であろう。多様な学習を通じて、個々の要素の持つ価値を再認識し、新しい組み合わせの妙が生み出される。学びの連鎖は、価値をスパイラルアップさせるというよりも、新たな引き出しを増やすという豊かな価値の再発見に繋がるのだろう。

 既存のモノのありようを多様な現代社会のニーズ、現代人の趣味嗜好に適うようデザインし直すことで、あらたな利用価値を生み出したいと考える。古い建物を改修し、新しいミュージアムに転成させること、これは「リデザイン」である。ひとたび役立てられた展示コンテンツを、別な場所に転移させ、そこで新しい展示に組み立て直して見せることもそうである。古い学術標本を霊感源として新しいファッションやモードを生み出すこと、古くなった研究用什器を修理し、必要とされる加工を施して新しい展示ケースに衣替えさせることもまた「リデザイン」である。「リデザイン」のコンセプトは、資源やエネルギーの消費の抑制・削減という緊急課題に向かい合う現代社会が、より明快なかたちで意識化すべき方法論なのである。(174頁)

 モバイルミュージアムの要諦の一つであるリデザイン。このコンセプトは、今の時代・社会においてマッチするものである。さらに私の仕事に惹き付けて飛躍させて言えば、キャリアのモビリティをも思い起こさせる話でもある。じっくりと噛み締めながら、深く考え続けたい。


2013年12月23日月曜日

【第233回】『日本のデザイン 美意識がつくる未来』(原研哉、岩波書店、2011年)

 産業デザインに携わる方の「デザイン」という言葉の捉え方は、キャリア「デザイン」を考える上で示唆に富んだ含蓄のあるものが多い。まず、著者が「デザイン」について触れている部分について三点ほど紹介してみよう。

 かつて僕は、デザインとは「欲望のエデュケーション」である、と書いた。製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。デザインとは、そのような欲望の根底に影響をあたえるものである。そういう考えが「欲望のエデュケーション」という言葉の背景にはあった。よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊饒で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。(ⅱ頁)

 ここで触れられているデザインとは、世界に存在しないものを生み出して価値を提示するというものではない。潜在的に存在する美しいかたちを「地」から括り出し、「図」として浮かび上がらせて提示し、人々の欲望を刺激する。こうした一連の教育活動や啓蒙活動とでも形容できるプロセスを著者はデザインとして定義する。受けを基本としながら積極的にしかける技能という風に捉えれば、キャリアのデザインにも応用可能な考え方であろう。つまり、日常的に上司から指示されたり顧客から依頼されるタスクを受け容れながら、それに一手間の工夫を施したり、工夫できるように他者や書籍からの学びを肥やしにしておく。これが日常単位におけるジョブデザインであり、中長期で考えればキャリアデザインとなる、と考えることは飛躍ではないだろう。

 デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同時に、気付くということのなかにもデザインの本質がある。(43~44頁)

 むろん、デザインとは人の生活とも関係する。デザインされたものを通じて、人々の生活自体や環境の本質を考えるためのきっかけになるという点に注目するべきだろう。すなわち、普段の生活において自然に溶け込んだものがデザインであると同時に、それを通じて深い思索や気づきへと至る機能もまたデザインは有するのである。

 デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。(151頁)

 ここではデザインの持つ社会性に焦点が当てられている。個人単位の意思や欲望といったレベルではなく、社会全体で共有される倫理にも影響を与えるとしている。ただし、デザインと倫理との関係は、どちらが説明変数でもう一方が結果変数であるということではなく、相互依存関係にあると言えるのではないだろうか。何れにしても、そうした見えないかたちを見える化するところにデザイナーの希有な価値はあるのだろう。

 デザインの意味合いについて一通り見てきたところで、本書のテーマである成熟社会・日本におけるデザインの展望について、著者は何を述べているのかを見ていこう。

 空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。茶室でのロケーションは、その力が強く作用する場を訪ねて歩く経験であり、これによって、現代の僕らの感覚の基層にも通じる美の水脈、感性の根を確かめることができた。西洋のモダニズムやシンプルを理解しつつも、何かが違うと感じていた謎がここで解けたのである。(70頁)

 現代に通じる日本におけるデザインの源流は東山文化に端を発すると著者はしている。その上で、その本質を空白という無存在に置く。茶室の佇まい、そこで求められる所作、飾られている生け花、外の庭の有り様。空間を埋めるのではなく、空間の中に空白を大胆に設けること。これが日本のデザインの基底を為すと著者はしている。

 掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。(中略) 普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。(中略) 「技術」とは、云い換えれば繊細、丁寧、緻密、簡潔にものづくりを遂行することであり、それは感覚資源が適切に作用した結果、獲得できた技の洗練ではないか。つまり、今日において空港の床が清潔に磨きあげられていたり、都市の夜景をなす灯りのひとつひとつが確実に光を放つことの背景にある同じ感受性が、規格大量生産においても働いていたのではないかと考えられる。高度な生産技術やハイテクノロジーを走らせる技術の、まさに先端を作る資源が美意識であるという根拠はここにある。(3~5頁)

 日本のデザインの源流が、現在においてどのように流れているのかがここに表れている。クリンリネスについては個人ごとの差異はむろんあるだろう。しかし、社会全体において、クリンリネスや静けさに価値を置き、そうした状態を心地よく感じる心象というものを<日本人>は共有している。一人ひとりがそうした価値観を持つ中で、社会としてのクリンリネスを実現しているのであり、それはなにもデザイナーや建築家といった特別なプロフェッショナルだけの手によるものではない。

 今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。そうすることで、これから世界が必要とするはずの、つつましさや合理性をバランスよく表現できる国としての自意識をたずさえて、未来に向かうことができる。(中略) GDPは人口の多い国に譲り渡し、日本は現代生活において、さらにそのずっと先を見つめたい。アジアの東の端というクールな位置から、異文化との濃密な接触や軋轢を経た後にのみ到達できる極まった洗練をめざさなくてはならない。(6~8頁)

 日本におけるデザインの有り様を踏まえた上で、著者はここで世界におけるその可能性について言及している。まず、美意識という豊かな感覚を資源として捉えた上で、そこにおける文化の世界への発信可能性を指摘している。とかく意見の強い者同士が対立し合う国際環境において、空白に重きを置き、クールに受容しながら価値中立的な有り様で貢献する、というスタンスは面白いかもしれない。こうした態度を成熟と呼ぶのであれば、成熟社会・日本という立ち位置に可能性があるようにも思えてくる。

 最後に、やや本筋とは離れるが、以下の興味深い点について触れておきたい。

 「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目には見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうるのだ。いじめとは攻撃されるターゲットとして対象化されることではなく「非ともだち」の結果、すなわち「ともだち」化のしわ寄せなのかもしれない。自由の行き着く先には常にそういう不安定さが潜んでいるように思う。(223~224頁)

 ここにおける「ともだち」とは、3・11後のアメリカからの援助活動である「オペレーション・トモダチ」を指している。著者はアメリカのこの活動を否定しているわけではないことを予め強調しておく。単に「ともだち」という言葉に対する違和感を著者は指摘しているにすぎないのである。たしかに、ここでの「ともだち」をFacebookにおける「ともだち」と照らし合わせれば、著者の警鐘は傾聴に値するだろう。「ともだち」になれないことへのプレッシャーとはすなわち、「ともだち」コミュニティから排除されることへのプレッシャーを意味する。幼い頃から他者を気にしすぎることは、健全な個別性を育むことに悪い影響を与える可能性もあるだろう。SNSを否定するわけではないが、コミュニティとしてどのようにあるべきかという上段を意識した上で、SNSというツールを私たちは捉え直すことが必要なのかもしれない。

2013年12月22日日曜日

【第232回】『後悔しない転職 7つの法則』(石山恒貴、ダイヤモンド社、2012年)

 本書は、転職を推奨する書籍でもなければ、指南書でもない。仕事を自責、つまり自分の責任として捉まえてしっかりと取り組むことの重要性を改めて主張する書籍である。そうした態度・行為の蓄積の結果として、必要であれば転職という意思決定を下すことはあろうが、それは結果論にすぎない。日々の仕事の目的を理解しながら、一つひとつの職務に工夫を加えながら、仕事を自分のものにすること。たしかに自明なことのようにも思える。しかし、転職という外形的なキャリアに焦点が当たりがちなテーマにおいて、こうした当たり前のことが書かれていることに、意義があるのではないか。

 成功法則に当てはまる人たちは例外なく真剣に悩んでいました。(中略)真剣に悩むと、それを解消しようとするためにさまざまな行動を取ります。たくさんの行動をするほど、判断材料は増え、考えるポイントも明確になっていきますので、その点が望ましいことであるわけです。(Kindle ver. No. 434)

 転職における成功という定義は多面的であろうが、ここでは本書の文脈を忖度して「転職によって職務に対する内的満足度が向上すること」と捉えることとしよう。仕事に飽きたり、上司や同僚とのフィーリングが合わないといった外的な理由ばかりで転職をしていると、転職を繰り返すジョブ・ホッパーになりかねないと著者は警鐘を鳴らす。そうではなく、日々の仕事の中で真剣に悩むこと、転職するか否かにおいて慎重に悩むこと。こうしたプロセスを充分に経ることで、自分自身の内面と向き合い、また今の仕事においてベストを尽くそうという意識が向上する。そうした意識と行動の変容を通じて、キャリアを考える上でのポイントが増え、視野が拡がり、結果として成功する転職へと繋がる可能性が高まるのであろう。

 このように、現在の職務をやり切るという感覚を持つことは、以下の二点から自分自身のキャリアのためになると著者は指摘する。

 第一の理由は、軸を形成するには、その前にスポンジのような吸収力が必要だということです。(Kindle ver. No. 1249)

 ここでいう「軸」とは、キャリアにおいて自分自身が大事にする礎であり、方向性であり、シャインに言わせればアンカーとなるだろう。著者は、自分自身の軸を持つことがキャリアにおいて大事であり、無論、転職というキャリアチェンジにおいても求められることになると説く。では、どのように軸を形づくることができるのか。目新しくてワクワクするような解答が用意されているわけではなく、努力をし、工夫をこらし、一つひとつの職務から学び続けること。軸を形成する為には、こうした柔軟かつ愚直な日々の努力が求められるのである。

 第二の理由は、さまざまな種類の新しい課題、難しい課題に取り組み、乗り越えること自体が自信につながり、他責的な傾向を減少させていくということです。(Kindle ver. No. 1264)

 著者は自身の職務に責任感を持つという自責の重要性を強調し、職務を他人事のように扱って責任を他者に転嫁しようとする他責を問題視する。第一の理由で述べた新しい職務(What)に対して、また職務を新しい方法(How)によって、それぞれチャレンジすることが他責になる事態を防止する。意識の問題は、意識を前向きにするというようなことではなく、行動によって変えることができるのである。

 成功法則に当てはまる人々は、会社から「やりたいこと」をやるという指示が自分に出るように、事前にうまくコントロールしていたのです。(Kindle ver. No. 1481)

 自責という概念を、職務を自分自身のものとしてだけ捉えるのでは窮屈に思えるかもしれない。上司から指示されたものを粛々とこなすというイメージを想起させるからである。しかし、自責で職務を捉えることは、自分自身の創意工夫や、自身の方向性とアラインメントが取れた職務を自身に引き寄せることに繋がると著者は指摘する。つまり、自責によって成果を出すという説明変数が、自身が大事にしたい職務という結果変数を生み出すのである。さらに言えば、当初思い描いた「理想の仕事」というものは、将来時点から振り返ってみれば成長途上の自分自身が生み出した低い理想にすぎないことは多いだろう。そうではなく、自責で与えられた職務で成果を出し続けることで、自分自身の視点が上がり、理想の職務像や方向性が修正される。そうした修正能力や補正能力こそが、私たちの「やりたいこと」を柔軟に捉え、自分自身の成果が組織や企業の成果へと繋げることになるのではないだろうか。

 最後にTipsを一つだけ。

 資格を取得するのであれば、まず自分の専門性の裏づけとなる経験、スキル、能力を理解したうえで、その専門性の方向性に合った資格を取得し、知識面を強化していくことが望ましいでしょう。自分の専門性の方向性とは関係なく、やみくもに資格を取得しても、企業から見れば、無計画に勉強しているように見えるので、これは不利な要素になりかねません。(Kindle ver. No. 710)

 職務が複雑になり、求められる能力要件が複雑になればなるほど、シンプルな解決策としての資格に魅了されるという現象が生じる。とりあえずMBAに留学する、TOEICで730点を取る、簿記を受験する。資格を取得する上でのプロセスで学ぶもの、取得するという結果を得ることによる自己効力感を否定するつもりはない。しかし、取得した後に自分自身の職務経験との繋がりをどのように見出すことができるか。もっと言えば、そうしたものの方向性を事前に見極めた上で、何を行うべきかを考えるべきなのだろう。資格取得は、その選択肢の一つにすぎないのである。

2013年12月21日土曜日

【第231回】『続・悩む力』(姜尚中、集英社、2012年)

 前作『悩む力』に続き、著者は漱石を用いながら現代社会を縦横無尽に描き出す。

 漱石の作品には大きな特徴があります。それは、主な登場人物が中流以上ばかりだということです。 そういう人たちが、豊かさゆえに、あるいは教育の高さゆえにどつぼにはまる姿ーー、ほとんどそればかりを書いたといってもいいくらいです。底辺に生きる人間のたくましさだとか、プロレタリアートのがんばりだとかいったことには、漱石は少なくとも作品中ではほとんど関心を示していません。 そのように、漱石の小説に展開されているのは、当時としてはかなり上のほうの特殊な人たちの世界だったのですが、しかし一〇〇年後の現在、そのような状況は一般化、大衆化してまんべんなく社会を覆うようになりました。(27~28頁)

 漱石は、自身の作品の中で自我を扱ったと言われることが多い。彼が生きた時代において自我をテーマとして取り上げようとする場合、中流以上を扱わざるを得ないという側面があったのであろう。こうした自我が問題となる現象は、現代のマジョリティに共感を与える、というのは興味深い偶然の一致なのか、それとも漱石が現代を見越してテーマにしていたのか。

 いま世の中を見回せば、実際、このように知性があって、世の中への批評眼もあって、志もあって、なおかつ引きこもり状態になっている人というのは、案外多いのではないかと思います。これも一つ、漱石の先見性であったといえるかもしれない。(70~71頁)

 自我が嵩じてコントロールできなくなると引きこもりが増えるのであろう。そうして引きこもった方の知識レベルはむしろ平均よりも高いケースが多いというのが現代の特徴だ。知識レベルが高いからこそ、自分が失敗したりできないことに対する幻滅感が高まり、自我とのギャップから引きこもるということだろう。引きこもりとは、個人の病ではなく、社会的な病である。

 そのようにして生まれた不特定多数のバラバラの個人は、その後の社会のなかで、変動期になると急進化し、安定期になるとその多くが「私の世界」に閉じこもる傾向を見せました。こうした現象は、現代のネット社会において、より急速に増殖しつつあるといえます。 ネット社会では、形状としては、すべての個人が水平的に平等で、どこかに中心があるわけでもなく、しかも、みながどこにも固定されない形で横につながっている状態です。そしてみなが直接目標にアクセスできる形です。かつて日比谷焼打ち事件に参加した群衆の、一〇〇年後の姿といえないでしょうか。(87~88頁)

 個人がバラバラであるにも関わらず、何かが起こると顔の見えない個人どうしが一気に集約する。ネットでの炎上や、3.11後に日本人のほとんどが「自粛」モード一色になった現象を想起すれば、こうした著者の示唆には首肯せざるを得ない。こうしたバラバラでありながら集約することができる、という現象はインターネットというツールがもたらした功罪であるとも言えよう。

 では、私たちはどのように生きるのか。著者はいくつかのヒントを提示している。

 私には、むしろ苦悩や受苦に目を向け、その意味についてより深く掘り下げていくことで、はじめて新たな幸福の形が見えてくるように思えるのです。(42頁)

 何に対してもポジティヴに捉える、という考え方は一見して私たちの心身にとって良いように思える。しかし、何がポジティヴで何がネガティヴかという発想は、ともすると外的な価値判断に自分自身を委ねるという状態になりがちだ。ある事象がポジティヴであるかネガティヴであるかという判断を留保すること。何に対しても自然な態度を持ち、意味を見出そうとし続けることが私たちには求められるのではないだろうか。

 次に、意味を見出そうと掘り下げるためには私たちはどうすればいいのか。

 「まじめ」という言葉は、やがて来るであろう個人の究極の孤独の時代に、他者との「共鳴」を可能にする最後の砦として、漱石が想いを託したキーワードだったのかもしれない、と考えたりします。 ウェーバーもまた、知の合理化と専門化によって世界の意味がバラバラに解体していくなかで、学問にたずさわるものが最も心を砕かねばならないことは「知的廉直(誠実)」だと言いました。 そこには、はからずも共通点があります。いや、はからずも、ではないかもしれない。彼らは二人とも同じことを考えて、まじめたれと言ったのではないかという気もします。 まじめであるということは、自分のほかに何一つ信を置けるものがなく、何を信じてよいかわからず、絶叫したくなるようなときにも、確実に、人間にとってよすがとなるものだという気がします。(161~162頁)

 「まじめ」に取り組むという極めてシンプルな行為や態度が挙げられている。「まじめ」ということは、自分自身に閉じたもののように思えるかもしれない。しかし、著者によれば、「まじめ」という謙虚な態度の中に、知を育み、他者との共鳴を生み出すという積極的な意味合いを見出している。

 最後に、「まじめ」に生きる意味を見つけ出すためには、時間軸について留意する必要があることを著者は指摘する。

 過去の蓄積だけがその人の人生であり、これに対して未来というのはまだ何もなされていない、ゼロの状態です。あくまでも、未来はまだないものであり、無にほかなりません。はっきりとしているのは、過去は神によっても変えられないほど確実なものということです。極言すれば、「私の人生」とは、「私の過去」のことであり、「我が輩は過去である」といってもいいのです。 ですから、過去を大事にするということは、人生を大事にすることにほかならず、逆に、「可能性」だとか「夢」だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえるかもしれません。 「未来」へ、「未来」へ、私たちが先のほうにばかり目を向けたくなるのは、これもまた市場経済の特性ととてもマッチしています。市場経済においては、消費の新陳代謝を加速させるために、徹底的に未来だけが問題とされるからです。そこで、市場のなかにどっぷりと浸かっている私たちのほうも、思わぬうちにそのような市場の価値観に引っ張られてしまわざるをえないのです。(186~187頁)

 将来像を描くためには、単に未来を描こうとするよりも、過去を振り返ってからの方が、より遠い未来を、より広い次元で描くことができる、という心理学の実験がある。過去を充分に振り返って、自分自身の人生を描くことこそが、自分自身の将来を見透かす上でも必要なのだろう。

2013年12月15日日曜日

【第230回】『ひとの居場所をつくる』(西村佳哲、筑摩書房、2013年)

 ふと立ち止まり、深呼吸をして、五感を解放してみる。すると、周囲の見慣れた風景の中から、普段は気付かないものが立ち上がり、いつもと異なった世界がそこに広がっていることに驚くことがある。

 著者の本は、これまでも好んで何冊も読んできた。読むたびに、忙しい日常の中で立ち止まることの大切さに気付かされる。ランドスケープ・デザイナーである田瀬理夫さんとの対談をもとにして編まれた本書もまた、ページをめくりながら、何度となく心地よい深呼吸をすることとなった。

 以下では、読みながら思わずハッとさせられたポイントについて、述べていくこととしたい。まずは、感覚を解放するという点について三点から解説を試みる。

 わたしたちが毎日くり返している、ごく他愛のないことの積み重ねが文化であり、景観をも形づくる。 その累積を可能にするのが自分の仕事だと思っているし、そのための試みを自分たちなりにつづけているんです、ときかせてくれた。(11~13頁)

 文化とは意識的に創り出せるものではない。また、要素還元的に因数分解を行い、何をもって構成されているかを論理的に記述することもできない。そうではなく、日常の、個別具体的な、行動や人の有り様の蓄積によって、文化は、嫌が応にも形づくられる。こうした環境との相互交渉を通じた自然の営為を、人がしっくりするかたちで、文化として蓄積することをデザインすること。こうした行為は、景観という観点では田瀬さんの職業であろうが、異なる観点に置き替えてみれば、仕事をする私たち一般にも当てはまるのではないだろうか。こうしたいわば美意識に近いものを持っているか否かによって、仕事を通じて生み出す価値は異なってくるように思える。

 ランドスケープ・デザインは、境界線を消すというか、解き放つというか、そんな仕事だと思う。(144頁)

 境界線を引く作業とは、理性によって分類・識別を行うことによって、自と他を分けることだ。むろん、境界線という存在自体が悪であるということではなかろうが、境界線があまりに多い状況というのは、人間的な営為とは矛盾するものだろう。田瀬さんは、あまりに多い境界線を消し、理性によって制約されすぎた世界を、感性に解き放つということを意識して活動されているのだろう。

 現代的な生活の中で耳にする音は、どれも近い。音楽も電話も耳の中まで入り込んできたし、テレビやオーディオまでの距離は数メートル。キャンプにでも行けば話は別だけれど、遠くの音に耳を澄ませる機会は、都市生活者の日常にはほぼないだろう。 こうした環境の中で、意図せず「自分」の宇宙というか領域感覚が小さくなっている者同士が集まって、これからの社会のあり方や暮らし方について話し合っても、概念的になりやすい気がするし、小さな空間の充実が散積してゆく事態に留まってしまうんじゃないか。(256~257頁)

 私たちの感覚意識が解き放たれず、あまりに狭い領域に集約している現代社会に対する著者の警鐘と捉えてよいだろう。外界をセンスする上で、近くのものしかセンスしていなければ、世界観は狭いものとなってしまう。その結果、私たちは遠くの物音を聞かないこと、遠くの景色を眺めないこと、理性で識別できない感覚をセンスしないこと、が当たり前となってしまう。これは、日々の生活の蓄積が人間にとってネガティヴに作用し、現代の悪しき文化となりかねない。

 ここまで取り上げた感覚を解放することの重要性を理解した上で、私たちの日常の生活や仕事においてどのように活かすか。著者と田瀬さんの対談から、そのためのヒントとなりそうな示唆に富んだポイントを三点紹介する。

 この場所を人間だけでなく「馬」とともに営んできたことも大きいのかも。人の思惑や事情とは無関係に生きている生き物がいて、日々待ったなしの事態を引き起こしてきたことが。同じく、年周期の中でくり返される畑や田んぼの仕事も、彼らを駆動してきた大切なエンジンなのかも。 時間をかけて土地にかかわってゆくとき、個人の事情に拘泥せずに済むリズムや軸があるのは大切なことかもしれない。(30~32頁)

 遠野で生活を送る田瀬さんならではの言葉である。動物と関わることの大切さ、という点も無論あろうが、日常的に動物と関わることは都会に住む人々にとっては難しい。そこでここでは、「日々待ったなしの事態」が引き起こされるという点に着目したい。私たちの日常の仕事の中において、突発的な業務や、理不尽な指示、際限のないルーティンワークと手戻りの繰り返し、といった「待ったなしの事態」はお馴染みの現象だ。そうした制約をネガティヴなものとして捉えるのではなく、肯定的に捉えることができるのではないか。換言すれば、○○という制約がなければという思考様式を私たちはよく取りがちであるが、果たして制約がなければすべてが解決するということはあるのだろうか。むしろ、制約が多い環境であるからこそ、私たちは意識的であろうと無意識的であろうと、私たちにとって本質的に大事なものを選べるということがある。

 生態系(自然)の力を活かしながら、糧として人が必要な収量を得てゆくには、せめぎ合うものがありますよね。でもそれは、人生のデザインそのものという気がする。(40~41頁)

 先ほどの点においては、日々の生活や仕事の中における制約というスパンであったのに対して、ここでは人生という長いスパンにおける視点で捉えられている。日々の制約の積み重ねが人の人生を形づくるものであり、かつ、それはデザインである。つまり、自分自身が主体的に環境を形成するということでは必ずしもなく、むしろ環境を受け容れ、環境とのすり合せを豊かにすることで、現在の自分自身の有り様や他者との関係性を創り上げる。人生のデザインとはこうしたことなのかもしれない。

 人生のマスタープランはないです。そういうの立てたことない。それは成り行きというか、なるようにしかならないというか。 なにも思い通りにはならないですよね。 ただ「自分はああしてみたい」「こうしたい」という、「したい」ことが、なにについて多いか?というくらいの話だと思います。思い通り、計画どおりにやっている感じではないですよ。仕事も人生も。(166~167頁)

 人生や仕事について、目標を立てて計画へと落とし込むというアプローチを取らないとしても、徒に帰納的にのみ捉える必要性もまたない。ではどのように構えると良いのか。田瀬さんは、方向性について自分自身の感覚も含めて捉まえることの意義をここで触れているように私には思える。こうした捉え方は、キャリア理論において述べられている点と近しく、大変興味深い。(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)


2013年12月14日土曜日

【第229回】『日本型人事管理』(平野光俊、中央経済社、2006年)

 修士時代、人事の機能について学術的に考察する上で、本書は私にとってのバイブルの一つであった。数百の論文や書籍を渉猟する過程で、この本に出会った時は、知的興奮をおぼえたものだ。日本におけるHRMの有り様をアメリカ型企業におけるそれとの比較によって明らかにし、その展望を示唆することが本書の目的である。彼我のマネジメントの相違は、本書が述べるように、求められる人事管理の相違に繋がる。私自身は、修士号を取得した後、日本企業での人事実務を経験し、現在は外資での人事実務を担っている。自分自身を被験者としたいわば人体実験の過程で、日々、肌感覚をもって経験している事象を改めて抽象化して深く学ぼうと思い、本書を再読することにした。

 まずは「先行研究レビュー」のレビューから始めよう。

 本書では、日本型の組織モードと、アメリカ型の組織モードとの違いを明確にするために、情報システム特性と人事管理特性という二つの軸に基づいて二つの理念型を明らかにしている。

 情報システム特性は、「集中的情報システムと分権的情報システムに分類される」こととなる(59頁)。前者(CI)は「情報管理および意思決定がセンターに集中されるシステム特性で、センターはタスク単位間の活動と取引を規定する集中的な計画策定とその実行指示に関する権限を有している」(59~60頁)。ために「ヒエラルキーに沿った垂直的コーディネーションと仕事の専門化」(60頁)が集中的情報システム特性の特徴となる。反対に、後者(DI)では「センターによって作成される計画は単に一定期間における作業活動のフレームワークを提示しているにすぎず、各タスクは計画策定後の事後的な現場情報にしたがって、アドホックに活動する権限を有している」(60頁)。したがって「責任権限の配分が曖昧であり、非ヒエラルキー的な水平的コーディネーションと伸縮的な職務の仕分け」(60頁)がその特徴となる。

 他方の人事管理特性とは、「組織の個々のメンバーが仕事のコーディネーション様式と一貫した技能形成、情報処理、そして意思決定を行うように動機づけるインセンティブ・システムやトレーニング方法(キャリア開発)の選択様式、および人事管理の主体が人事部であるかラインであるかの相違」(60頁)を示すものである。こちらについても、情報システム特性と同様に、センターに集中化するか(CP)、各セクションに分権化するか(DP)、という集中化と分権化という軸でプロットされる。

 両者を掛け合わせると、日本型はDIかつCPという象限にプロットされる。つまり、タスクを通じた情報は現場で柔軟に運用されることで知恵も現場に蓄積されるが、それがシステムを通じた標準化によって本社スタッフが集約することはあまりない。一方で、人事情報については本社スタッフが細かなものも含めて現場の社員の情報を集約し、本社主導での人事異動や採用が行われる。

 アメリカ型は日本型の逆だ。システムにより現場におけるタスク情報を標準化して集約化する(CI)一方で、ライン主導の採用とラインに閉じたプロフェッショナル・キャリアを積ませる人事特性(DP)がその特徴である。

 こうした既存の日本型企業とアメリカ型企業とを先行研究レビューによって同定した上で、現在の両者の企業がどのような動きをしているかについて、著者は調査・分析を行う。その考察において、特筆すべき理論的示唆について見ていこう。

 ある日本の化学メーカーにおける調査の結果として、情報システム特性がDIからCIへ、人事管理特性がCPからDPへと接近している様を観察したと結論づけている。大事な点はこうした動きのプロセスである。つまり、「まず情報システム特性の変化が先行し、それに適合させる形で人事管理特性が追随することが確認された」(199頁)というのである。実務的なインプリケーションへの翻訳を試みれば、現場における情報がITを用いて集約・標準化する傾向が強まり、現場における知識を全社において共有する動きが生じる。それに付随する形で、人事情報に関する本社サイドのコントローラビリティがやや低下し、ラインにおける人事情報が閉じる傾向が出始める。つまり、ラインにおける採用権限の強化、人材の抱え込みが生じる頻度が増える、ということである。

 こうした状況に対して人事の対応はどうあるべきか。著者は以下の三点がポイントとなることを結論として述べている。

 第一に、職能資格制度から役割等級制度への移行である。日本型の職能資格制度からアメリカ型の職務等級制度へとドラスティックに変わることもあろうが、その副作用への対応として日本企業は役割等級制度を生み出した。つまり、「事前に決められた職務等級の基準に基づく職務評価の厳密な運用でなく、当該社員の能力に応じた職務範囲の伸縮に柔軟に対応する」(206頁)ために役割等級制度が適用されているのである。

 しかし、「役割等級制度であってもランクや職務割当の決定権をラインに委譲するように作用するので、ラインと本社人事部の人事情報の偏在は大きくなる」(232頁)。したがって、人事情報の偏在を減少するべく、本社人事部が人事情報を集約(CP)しようとする力学が働くことになる。それが第二、第三のポイントである。

 第二のポイントはコア人材の人事部個別管理強化である。いわゆるサクセッション・プランが該当し、次世代の経営者候補となるコア人材を養成するという目的のもとに、本社人事部が人事情報を個別に管理する。集約する人事情報をもとに、部門を超えた異動をも本社人事部が主体的に動かすことになる。こうすることで、現場の文脈における粘着度の高い人事情報を本社人事部が集約するのである。

 第三はキャリア自律支援である。具体的には、キャリアアドバイザーやキャリアカウンセラーの導入であり、キャリアを考えてもらうワークショップの開催が該当する。第二のポイントが職務におけるパフォーマンスといった人事情報に特化するのに対して、キャリア自律支援では各人のソフト面の情報を吸い上げる機能を持つと言えるだろう。

2013年12月8日日曜日

【第228回】『マネジャーの実像』(H・ミンツバーグ、日経BP社、2011年)【2回目】

 本書はマネジメントに携わる役割、とりわけ中間管理職に焦点を当てたものである。先ず著者は、中間管理職を取り巻くリーダーシップとマネジメントという近しい概念について以下のように述べる。

 マネジャーとリーダーを区別するのではなく、マネジャーはリーダーでもあり、リーダーはマネジャーでもあるべきなのだと、理解する必要がある。(13頁)

 マネジメントとリーダーシップ、マネジャーとリーダーとを厳密に分けようとするのは神学論争にすぎない。両者の定義を考える上では、ドラッカーを引用しても良いだろうし、コッターを引用しても良いだろう。しかし、管理職として求められるのは両者を兼ね備えることであり、両者を識別することではない。

 優れた管理職はリーダーでありマネジャーでもある、という視点に立った上で、リーダーシップをややもすると重要視しすぎる現状について以下のように警鐘を鳴らす。

 実際には、いま私たちが憂慮すべきなのは、マイクロマネジャーではなく、おおざっぱにリーダーシップを振るいすぎる「マクロリーダー」だ。組織の上層部の人間が現場を知らずに「大きなビジョン」だけを振りかざし、いわば遠隔操作でマネジメントをおこなおうとする風潮がある。一般に、マネジメントの過剰とリーダーシップの不足を問題視する論者が多いが、私に言わせれば、問題はリーダーシップの過剰とマネジメントの不足である。(12頁)

 マイクロ・マネジメントという言葉が否定的に使われ易い現状に対する痛烈な批判と言えるだろう。現場を知らずにリーダーシップばかりを振りかざすことは、現場のためにならない。私たちは改めてマネジメントの重要性、ひいては現場の情報を吸い上げる中間管理職の機能に注目する必要があるのだろう。

 中間管理職の多くはプレイングマネジャーであり、とにかく時間が逼迫しているケースが多いのが現在の彼(女)らの悲哀である。そうした状況の中でうまく対処している優れたマネジャーは何を行っているのであろうか。

 マネジャーは状況をコントロールするために、新しい義務をつくり出したり、既存の義務をうまく利用したりしている。 うまくいくマネジャーとそうでないマネジャーの最も際立った違いは、おそらくここにある。成功するマネジャーは、誰よりも大きな自由を手にしている人物ではなく、手持ちの自由を最大限活用できる人物のようだ。(51頁)

 個人の趣味のようなチームビジョンを提示したり、飲みニケーションを試みることが良いマネジャーではない。忙しい現場を混乱させることを招きかねないばかりか、それ以上に忙しいマネジャー本人にとっても苦痛だろう。組織にとって必要な業務を通じて、求められる役割の中で有効活用することがマネジャーには求められるようである。現実を踏まえた極めて合理的かつ分かり易い実務的なインプリケーションと言えるだろう。

 このように考えれば、仕事の多様性、働く社員の多様性が高まる現在の企業においては、効率的にマネジャーが動くためには上下の問題だけではないことが分かるだろう。

 マネジメントとは、組織階層のタテの関係だけでなく、対等な人物同士のヨコの関係に関わるものである。(45頁)

 マネジャーは部下との関係性、上司との関係性だけを考えれば良いものではない。企画を通すためには、斜め上の上司や他部署のマネジャーへの調整が必要不可欠だ。したがって、上司や部下との関係性だけではなく、他部署のマネジャーとの良好な関係性を耕し、認められていることが求められる。むろん、他部署のマネジャーとの関係性が優れていないマネジャーが、自身の上司や部下との関係性だけは優れている、ということはあまりないのであろうが。

 ではマネジメントはどのように開発されるのか。

 マネジメントは実践の行為であり、主として経験を通じて習得される。したがって、具体的な文脈と切り離すことができない。(14頁) かなりの量のクラフトに、ある程度のアート、それにいくらかのサイエンスが組み合わさった仕事ーーそれは実践の行為と呼ぶのが最もふさわしいだろう。(16頁)

 マネジメントを開発するためには、研修(サイエンス)だけでは足りず、個々人の創造性(アート)を加えても足りない。経験(クラフト)が揃ってはじめて実践の行為としてのマネジメントが開発されることになる。机上の空論ではなく、実務における実践こそが重要であると同時に、科学的な知見に基づいた研修や、幅広い教養に根ざしたアートも寄与することを忘れてはいけない。

 では、マネジメントに求められるスキルやマインドセットをどのようなプロセスで開発すれば良いのか。著者は振り返りの重要性を述べている。

 振り返り(省察)とは、「検討、調査、分析、総合、結合を通じて、『(ある経験が)自分にとってどういう意味をもつのかじっくり慎重に考える』こと」である(中略)。「リフレクト(振り返る)という英単語の語源は、「折り曲げる」という意味のラテン語だ。この点からもわかるように、まず内面に着目し、その次に外面に目を向けることを通じて、見慣れたものごとを別の角度から見る活動が「振り返り」である(中略)優れたマネジャーは自分の頭でものを考えるのである。(324頁)

 reflectの語源から紐解いている点が興味深い。柔軟に、かつ多様な側面から自分自身のマネジメント行動を見つめ直すこと。そこから見出したものを自分の頭で、いわば客観的に分析すること。その上で、自分自身のこれからのマネジメント行動の改善に活かすようにすること。これらを含めた総体がマネジメントに求められる振り返りなのだろう。

 優れたマネジャーは、振り返りのための時間を取りづらい環境のなかで、振り返りをおこなう方法を見いだしている。(326頁)

 「忙しいから振り返る時間がない」というマネジャーから予想される反論について、予め釘を刺している。振り返りの時間を設ける上での工夫はいくらでもある。北海道大学の松尾教授も指摘しているように、業務を行いながら行う振り返りや、他者を利用した振り返りといった点が参考になるだろう。(『「経験学習」入門』(松尾睦、ダイヤモンド社、2011年)

 最後に、はじめてマネジャーになる際に心がけたい点について。

 新人マネジャーたちは、「指示するのではなく、説得することを通じて人々を導く術を学び」[Hill 2003:100]「なにをもって成功とみなすかの基準を改め、それまでと異なる方法で仕事から満足感を得ることを学ぶ必要があった。要するに、まったく新しい職業上の人格を形成しなくてはならなかった」[Hill 2003:x]。具体的には、どうすればいいのか。「マネジャーになったばかりの人は、過酷な自己開発のプロセスに放り込まれたのだと自覚」して、「仕事の経験を通じて学習する」ことを目指すべきだ(223頁)

 プレイヤーとマネジャーでは全く異なる役割が求められることになる。したがって、プレイヤーとしての力量を一旦脇において、マネジャーとしての業務経験を謙虚に積み上げていくしかないのだろう。こうしたマインドセットであれば、マネジャーになった当初からパフォーマンスを高くしなければならないといったように自分自身を追い込むことは避けられそうだ。

2013年12月7日土曜日

【第227回】『<育てる経営>の戦略』(高橋伸夫、講談社、2005年)

 著者は冒頭で、本書の前に出版されビジネス書の枠を超えたベストセラーとなった『虚妄の成果主義』について、自ら以下のように要約している。

 ある程度の歴史を持った(つまり、生き延びてきた)日本企業のシステムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムだった。仕事の内容がそのまま動機づけにつながって機能してきたのであり、それは内発的動機づけの理論からすると最も自然なモデルでもあった。他方、日本企業の賃金制度は、動機づけのためというよりは、生活費を保障する観点から平均賃金カーブが設計されてきた。この両輪が日本企業の成長を支えてきたのである。それは年功序列ではなく、年功ベースで差のつくシステムだった。(7頁)

 著者の拠って立つ論拠は、突き詰めて言えばデシに尽きる。デシを嚆矢とした内発的動機づけの理論を論拠に置いて、「日本型」年功制こそが日本企業においては機能することを一貫して主張している。

 では著者の述べる「日本型」年功制の特徴とは何か。以下の二点に絞られる。

 第一に主観的評価である。いわゆる成果主義型人事においては、仕事に対して給与で報いようとするが故に、給与を正当化するための客観的評価が必要となると著者はしている。こうした客観的評価とは、上司や人事が責任逃れをするための方便に過ぎないと以下のように強弁する。

 評価することは、それ自体に責任が伴うものなのだ。こんなことは当たり前のことではないか。本来評価というものは、おおげさにいえば、上司が己の全存在をかけておこなうべきものなのであって、ダメならダメ、よいならよいとはっきり判断して、自分が責任をもって伝えるべきなのだ。最後の最後は主観的なのである。上司の判断そのものなのだ。(23頁)

 ある面では正鵠を射た主張であろう。つまり、部下のポテンシャリティを信じるという性善説に立てば、という留保がつくことにはなるのではないだろうか。たとえば、PIP(Performance Improvement Program)をはじめとしたネガティヴサイドをケアする人事の施策を行わざるをえない状況も現実にはままある。そうした場合には、労働法の判例法理に鑑みると、主観的な評価だけではいささか心もとない。著者は引用箇所の後に抜擢人事の例を挙げているが、そうしたポジティヴな人事の運用であればこそ成り立つロジックとも言えるだろう。

 原点に立ち戻って、一体、何のために評価をしてきたのか、何のために評価をすべきなのかを考え直してほしい。同じ金と時間をかけるのであれば、評価よりも、人材の育成にこそ金と時間をかけるべきなのだ。(64頁)

 先ほどの主観的評価に関する論点に加えて、このような補足が為されれば首肯できる。評価の客観性を過度に求める人事制度の運用では、評価の作業に時間が掛かりすぎる。評価の時期には会議室が満室になり、挙げ句の果てには、そのせいで評価のスケジュールが遅延するという笑えない話もよく聞かれる。これでは本末転倒であろう。

 評価に時間をかけるのではなく人材の育成にリソースを割く、という著者の論旨は明快だ。これが第二の点、次の仕事によって人を育てるという点に繋がる。

 金ではなく次の仕事を求めているのである。そうやって与えられる新しい仕事、次の仕事を通して、人は仕事の面白さに目覚め、成長していく。金では人は育たない。次の仕事を与えられることで、はじめて人は育つのだ。(92頁)

 デシのソマパズルを想起してほしい。金銭が直接的な報酬になることによって、人は、仕事そのものに本来感じる魅力の度合いを減衰させてしまう。したがって、金銭によって直接的に人の成果に報いるということは時に逆効果である。そうではなく、一つの仕事の成果が、次のより大きな仕事へのチャレンジに繋がること、さらにはチャレンジを通じて成長感を得ることによって人は育ち続けるのである。

 これは「年功序列」ではない。あくまでも「日本型年功制」と呼ぶべきものなのである。日本型年功制では、仕事の成果は短期的・直接的には金銭的な報酬に連動しない。「次の仕事内容」が報酬なのである。(77頁)

 ために、著者のこだわる「日本型年功制」はぬるま湯を許容する「年功序列」ではないという点を私たちは充分に意識するべきであろう。

2013年12月1日日曜日

【第226回】『人事と法の対話』(守島基博・大内伸哉、有斐閣、2013年)

 人事管理論(HRM)の学者と労働法の学者とが、それぞれの立場から企業における人事に関するテーマについて語るという興味深い対談書である。事業会社で働く人事担当者としては、自分たちが取り組むテーマについて俯瞰しながら、問題を問題として捉まえられるようになる刺激的な一冊である。

 以下では、とりわけ興味深く感じた三点について考察を加えていく。

 第一に、賃金について。

 大内 法律の世界では、労働基準法では「賃金は労働の対償だ」という捉え方で、労働に対する報いとされています。その対償性をどういう基準で判断するかについては不明確なところが残っていますが、いずれにせよ労働に対する対償という捉え方が法律家の賃金論です。一方、人事管理論では、もっといろいろな機能というか、インセンティブの機能も与えている。(69頁)

 人事管理論と労働法という二つの側面から見た賃金観の違いがこれほどまでにくっきりと表れているのが面白い。労働法の考え方は、働く個人に寄り添ったものであるということが分かる。なぜなら、労働の対償としての賃金という考え方には、働く個人が投資した時間や労力に対する償いという概念が内包されているからである。それに対して、人事管理論では企業が主体である。つまり、企業が求める行動を社員に取らせるために、その誘因として、またそうした優秀な人材をリテインするための一環として、賃金を位置づけているのである。ここには、主体の違いに伴う、賃金の捉え方の違いが表れている。人事としては、経営の視点と働く個人の視点とから、両者の均衡をどこに置くかが課題となることは自明であろう。

 第二に、判例法理について。

 大内 いまのお話を敷衍すると、労働法のルールは、法律と判例で構成されていますが、その中の判例は実際に訴訟が起きているところでの紛争を解決するための規範なのです。そうすると大企業とか、組合のあるところが多いわけです。(中略) 判例法理というのは、おそらく大企業限定型というか、大企業によりピッタリするものなのかもしれません。しかし、これが判例という形で法的ルールになると、結局一般化してすべての企業や従業員に適用されてしまうので、どうしてもずれが出てくるのです。(212頁)

 日本における法制度の基本的な考え方は英米法であり、したがって判例主義を取る。こうした法学の教科書的な解釈から鑑みれば、労働法の分野における判例法理のあやうさが、上記の指摘に端的に表れている。指摘されてみれば当たり前のように思えてしまうが、裁判例にまで至るようなケースというのは、企業側が資金的にも期間的にも裁判に耐えられる大企業であることが多い。したがって、判例は大企業のものをもとにして積み上げられることになる。しかし、大企業でのケースを中心とした判例が蓄積されて法理になると、それは大企業だけではなく、日本で事業を展開するあらゆる企業において適用されることになる。ここに、多くの企業における現実と判例との乖離現象が生じる。判例主義を取る以上は宿命的なこの齟齬に対して、どのように対応するのか。人事としては、現実を捉えながらプロアクティヴにきめこまかな対応を心がける、ということしかできないのではないだろうか。

 第三に、定年制について。

 守島 ほんとうは五〇歳だと遅いと思います。というのは、一つのスキル、能力を蓄積して他のところへ移るにしても、独立してものになるレベルまでいくには、やはり、一〇年ぐらいはかかるのだと思うのです。そうすると、五〇歳で始めて一〇年経つと六〇歳ですから、かなり高年齢になってしまいます。例えば四〇歳とか、三五歳ぐらいで一旦のポイントを置いて、そこでもう一回ということはあり得るとは思いますが、五〇歳は少し遅いような気がします。 大内 そうすると、やはり四〇歳定年みたいな話になってくるのですね。第二のキャリアを考えるということだと、四〇歳が限界ということですね。(227~228頁)

 昨年の国家戦略会議での議論で東大の柳川准教授の四〇歳定年制を彷彿とさせる考え方である。多様な生き方や働き方を前提とした場合、ユング派の言葉を使えば「人生の正午」と呼ばれるこうした時期に従業員に自分自身の選択を求めることもあり得るだろう。終身雇用を所与のものとしてきた旧来の日本の大企業に勤務する方には受け容れがたい部分もあろうが、個人的には合理的であると考える。ただし、こうした考え方を受け容れられない多数派に対して、企業として事前にメッセージを与えることは必要不可欠であろう。定年制とキャリアとは車の両輪であり、定年制を変えるのであれば、キャリアの取り組みをも充実させることは人事の対応として外せないのではなかろうか。