2013年12月23日月曜日

【第233回】『日本のデザイン 美意識がつくる未来』(原研哉、岩波書店、2011年)

 産業デザインに携わる方の「デザイン」という言葉の捉え方は、キャリア「デザイン」を考える上で示唆に富んだ含蓄のあるものが多い。まず、著者が「デザイン」について触れている部分について三点ほど紹介してみよう。

 かつて僕は、デザインとは「欲望のエデュケーション」である、と書いた。製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。デザインとは、そのような欲望の根底に影響をあたえるものである。そういう考えが「欲望のエデュケーション」という言葉の背景にはあった。よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊饒で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。(ⅱ頁)

 ここで触れられているデザインとは、世界に存在しないものを生み出して価値を提示するというものではない。潜在的に存在する美しいかたちを「地」から括り出し、「図」として浮かび上がらせて提示し、人々の欲望を刺激する。こうした一連の教育活動や啓蒙活動とでも形容できるプロセスを著者はデザインとして定義する。受けを基本としながら積極的にしかける技能という風に捉えれば、キャリアのデザインにも応用可能な考え方であろう。つまり、日常的に上司から指示されたり顧客から依頼されるタスクを受け容れながら、それに一手間の工夫を施したり、工夫できるように他者や書籍からの学びを肥やしにしておく。これが日常単位におけるジョブデザインであり、中長期で考えればキャリアデザインとなる、と考えることは飛躍ではないだろう。

 デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同時に、気付くということのなかにもデザインの本質がある。(43~44頁)

 むろん、デザインとは人の生活とも関係する。デザインされたものを通じて、人々の生活自体や環境の本質を考えるためのきっかけになるという点に注目するべきだろう。すなわち、普段の生活において自然に溶け込んだものがデザインであると同時に、それを通じて深い思索や気づきへと至る機能もまたデザインは有するのである。

 デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。(151頁)

 ここではデザインの持つ社会性に焦点が当てられている。個人単位の意思や欲望といったレベルではなく、社会全体で共有される倫理にも影響を与えるとしている。ただし、デザインと倫理との関係は、どちらが説明変数でもう一方が結果変数であるということではなく、相互依存関係にあると言えるのではないだろうか。何れにしても、そうした見えないかたちを見える化するところにデザイナーの希有な価値はあるのだろう。

 デザインの意味合いについて一通り見てきたところで、本書のテーマである成熟社会・日本におけるデザインの展望について、著者は何を述べているのかを見ていこう。

 空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。茶室でのロケーションは、その力が強く作用する場を訪ねて歩く経験であり、これによって、現代の僕らの感覚の基層にも通じる美の水脈、感性の根を確かめることができた。西洋のモダニズムやシンプルを理解しつつも、何かが違うと感じていた謎がここで解けたのである。(70頁)

 現代に通じる日本におけるデザインの源流は東山文化に端を発すると著者はしている。その上で、その本質を空白という無存在に置く。茶室の佇まい、そこで求められる所作、飾られている生け花、外の庭の有り様。空間を埋めるのではなく、空間の中に空白を大胆に設けること。これが日本のデザインの基底を為すと著者はしている。

 掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。(中略) 普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。(中略) 「技術」とは、云い換えれば繊細、丁寧、緻密、簡潔にものづくりを遂行することであり、それは感覚資源が適切に作用した結果、獲得できた技の洗練ではないか。つまり、今日において空港の床が清潔に磨きあげられていたり、都市の夜景をなす灯りのひとつひとつが確実に光を放つことの背景にある同じ感受性が、規格大量生産においても働いていたのではないかと考えられる。高度な生産技術やハイテクノロジーを走らせる技術の、まさに先端を作る資源が美意識であるという根拠はここにある。(3~5頁)

 日本のデザインの源流が、現在においてどのように流れているのかがここに表れている。クリンリネスについては個人ごとの差異はむろんあるだろう。しかし、社会全体において、クリンリネスや静けさに価値を置き、そうした状態を心地よく感じる心象というものを<日本人>は共有している。一人ひとりがそうした価値観を持つ中で、社会としてのクリンリネスを実現しているのであり、それはなにもデザイナーや建築家といった特別なプロフェッショナルだけの手によるものではない。

 今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。そうすることで、これから世界が必要とするはずの、つつましさや合理性をバランスよく表現できる国としての自意識をたずさえて、未来に向かうことができる。(中略) GDPは人口の多い国に譲り渡し、日本は現代生活において、さらにそのずっと先を見つめたい。アジアの東の端というクールな位置から、異文化との濃密な接触や軋轢を経た後にのみ到達できる極まった洗練をめざさなくてはならない。(6~8頁)

 日本におけるデザインの有り様を踏まえた上で、著者はここで世界におけるその可能性について言及している。まず、美意識という豊かな感覚を資源として捉えた上で、そこにおける文化の世界への発信可能性を指摘している。とかく意見の強い者同士が対立し合う国際環境において、空白に重きを置き、クールに受容しながら価値中立的な有り様で貢献する、というスタンスは面白いかもしれない。こうした態度を成熟と呼ぶのであれば、成熟社会・日本という立ち位置に可能性があるようにも思えてくる。

 最後に、やや本筋とは離れるが、以下の興味深い点について触れておきたい。

 「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目には見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうるのだ。いじめとは攻撃されるターゲットとして対象化されることではなく「非ともだち」の結果、すなわち「ともだち」化のしわ寄せなのかもしれない。自由の行き着く先には常にそういう不安定さが潜んでいるように思う。(223~224頁)

 ここにおける「ともだち」とは、3・11後のアメリカからの援助活動である「オペレーション・トモダチ」を指している。著者はアメリカのこの活動を否定しているわけではないことを予め強調しておく。単に「ともだち」という言葉に対する違和感を著者は指摘しているにすぎないのである。たしかに、ここでの「ともだち」をFacebookにおける「ともだち」と照らし合わせれば、著者の警鐘は傾聴に値するだろう。「ともだち」になれないことへのプレッシャーとはすなわち、「ともだち」コミュニティから排除されることへのプレッシャーを意味する。幼い頃から他者を気にしすぎることは、健全な個別性を育むことに悪い影響を与える可能性もあるだろう。SNSを否定するわけではないが、コミュニティとしてどのようにあるべきかという上段を意識した上で、SNSというツールを私たちは捉え直すことが必要なのかもしれない。

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