2013年12月1日日曜日

【第226回】『人事と法の対話』(守島基博・大内伸哉、有斐閣、2013年)

 人事管理論(HRM)の学者と労働法の学者とが、それぞれの立場から企業における人事に関するテーマについて語るという興味深い対談書である。事業会社で働く人事担当者としては、自分たちが取り組むテーマについて俯瞰しながら、問題を問題として捉まえられるようになる刺激的な一冊である。

 以下では、とりわけ興味深く感じた三点について考察を加えていく。

 第一に、賃金について。

 大内 法律の世界では、労働基準法では「賃金は労働の対償だ」という捉え方で、労働に対する報いとされています。その対償性をどういう基準で判断するかについては不明確なところが残っていますが、いずれにせよ労働に対する対償という捉え方が法律家の賃金論です。一方、人事管理論では、もっといろいろな機能というか、インセンティブの機能も与えている。(69頁)

 人事管理論と労働法という二つの側面から見た賃金観の違いがこれほどまでにくっきりと表れているのが面白い。労働法の考え方は、働く個人に寄り添ったものであるということが分かる。なぜなら、労働の対償としての賃金という考え方には、働く個人が投資した時間や労力に対する償いという概念が内包されているからである。それに対して、人事管理論では企業が主体である。つまり、企業が求める行動を社員に取らせるために、その誘因として、またそうした優秀な人材をリテインするための一環として、賃金を位置づけているのである。ここには、主体の違いに伴う、賃金の捉え方の違いが表れている。人事としては、経営の視点と働く個人の視点とから、両者の均衡をどこに置くかが課題となることは自明であろう。

 第二に、判例法理について。

 大内 いまのお話を敷衍すると、労働法のルールは、法律と判例で構成されていますが、その中の判例は実際に訴訟が起きているところでの紛争を解決するための規範なのです。そうすると大企業とか、組合のあるところが多いわけです。(中略) 判例法理というのは、おそらく大企業限定型というか、大企業によりピッタリするものなのかもしれません。しかし、これが判例という形で法的ルールになると、結局一般化してすべての企業や従業員に適用されてしまうので、どうしてもずれが出てくるのです。(212頁)

 日本における法制度の基本的な考え方は英米法であり、したがって判例主義を取る。こうした法学の教科書的な解釈から鑑みれば、労働法の分野における判例法理のあやうさが、上記の指摘に端的に表れている。指摘されてみれば当たり前のように思えてしまうが、裁判例にまで至るようなケースというのは、企業側が資金的にも期間的にも裁判に耐えられる大企業であることが多い。したがって、判例は大企業のものをもとにして積み上げられることになる。しかし、大企業でのケースを中心とした判例が蓄積されて法理になると、それは大企業だけではなく、日本で事業を展開するあらゆる企業において適用されることになる。ここに、多くの企業における現実と判例との乖離現象が生じる。判例主義を取る以上は宿命的なこの齟齬に対して、どのように対応するのか。人事としては、現実を捉えながらプロアクティヴにきめこまかな対応を心がける、ということしかできないのではないだろうか。

 第三に、定年制について。

 守島 ほんとうは五〇歳だと遅いと思います。というのは、一つのスキル、能力を蓄積して他のところへ移るにしても、独立してものになるレベルまでいくには、やはり、一〇年ぐらいはかかるのだと思うのです。そうすると、五〇歳で始めて一〇年経つと六〇歳ですから、かなり高年齢になってしまいます。例えば四〇歳とか、三五歳ぐらいで一旦のポイントを置いて、そこでもう一回ということはあり得るとは思いますが、五〇歳は少し遅いような気がします。 大内 そうすると、やはり四〇歳定年みたいな話になってくるのですね。第二のキャリアを考えるということだと、四〇歳が限界ということですね。(227~228頁)

 昨年の国家戦略会議での議論で東大の柳川准教授の四〇歳定年制を彷彿とさせる考え方である。多様な生き方や働き方を前提とした場合、ユング派の言葉を使えば「人生の正午」と呼ばれるこうした時期に従業員に自分自身の選択を求めることもあり得るだろう。終身雇用を所与のものとしてきた旧来の日本の大企業に勤務する方には受け容れがたい部分もあろうが、個人的には合理的であると考える。ただし、こうした考え方を受け容れられない多数派に対して、企業として事前にメッセージを与えることは必要不可欠であろう。定年制とキャリアとは車の両輪であり、定年制を変えるのであれば、キャリアの取り組みをも充実させることは人事の対応として外せないのではなかろうか。


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