2013年12月7日土曜日

【第227回】『<育てる経営>の戦略』(高橋伸夫、講談社、2005年)

 著者は冒頭で、本書の前に出版されビジネス書の枠を超えたベストセラーとなった『虚妄の成果主義』について、自ら以下のように要約している。

 ある程度の歴史を持った(つまり、生き延びてきた)日本企業のシステムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムだった。仕事の内容がそのまま動機づけにつながって機能してきたのであり、それは内発的動機づけの理論からすると最も自然なモデルでもあった。他方、日本企業の賃金制度は、動機づけのためというよりは、生活費を保障する観点から平均賃金カーブが設計されてきた。この両輪が日本企業の成長を支えてきたのである。それは年功序列ではなく、年功ベースで差のつくシステムだった。(7頁)

 著者の拠って立つ論拠は、突き詰めて言えばデシに尽きる。デシを嚆矢とした内発的動機づけの理論を論拠に置いて、「日本型」年功制こそが日本企業においては機能することを一貫して主張している。

 では著者の述べる「日本型」年功制の特徴とは何か。以下の二点に絞られる。

 第一に主観的評価である。いわゆる成果主義型人事においては、仕事に対して給与で報いようとするが故に、給与を正当化するための客観的評価が必要となると著者はしている。こうした客観的評価とは、上司や人事が責任逃れをするための方便に過ぎないと以下のように強弁する。

 評価することは、それ自体に責任が伴うものなのだ。こんなことは当たり前のことではないか。本来評価というものは、おおげさにいえば、上司が己の全存在をかけておこなうべきものなのであって、ダメならダメ、よいならよいとはっきり判断して、自分が責任をもって伝えるべきなのだ。最後の最後は主観的なのである。上司の判断そのものなのだ。(23頁)

 ある面では正鵠を射た主張であろう。つまり、部下のポテンシャリティを信じるという性善説に立てば、という留保がつくことにはなるのではないだろうか。たとえば、PIP(Performance Improvement Program)をはじめとしたネガティヴサイドをケアする人事の施策を行わざるをえない状況も現実にはままある。そうした場合には、労働法の判例法理に鑑みると、主観的な評価だけではいささか心もとない。著者は引用箇所の後に抜擢人事の例を挙げているが、そうしたポジティヴな人事の運用であればこそ成り立つロジックとも言えるだろう。

 原点に立ち戻って、一体、何のために評価をしてきたのか、何のために評価をすべきなのかを考え直してほしい。同じ金と時間をかけるのであれば、評価よりも、人材の育成にこそ金と時間をかけるべきなのだ。(64頁)

 先ほどの主観的評価に関する論点に加えて、このような補足が為されれば首肯できる。評価の客観性を過度に求める人事制度の運用では、評価の作業に時間が掛かりすぎる。評価の時期には会議室が満室になり、挙げ句の果てには、そのせいで評価のスケジュールが遅延するという笑えない話もよく聞かれる。これでは本末転倒であろう。

 評価に時間をかけるのではなく人材の育成にリソースを割く、という著者の論旨は明快だ。これが第二の点、次の仕事によって人を育てるという点に繋がる。

 金ではなく次の仕事を求めているのである。そうやって与えられる新しい仕事、次の仕事を通して、人は仕事の面白さに目覚め、成長していく。金では人は育たない。次の仕事を与えられることで、はじめて人は育つのだ。(92頁)

 デシのソマパズルを想起してほしい。金銭が直接的な報酬になることによって、人は、仕事そのものに本来感じる魅力の度合いを減衰させてしまう。したがって、金銭によって直接的に人の成果に報いるということは時に逆効果である。そうではなく、一つの仕事の成果が、次のより大きな仕事へのチャレンジに繋がること、さらにはチャレンジを通じて成長感を得ることによって人は育ち続けるのである。

 これは「年功序列」ではない。あくまでも「日本型年功制」と呼ぶべきものなのである。日本型年功制では、仕事の成果は短期的・直接的には金銭的な報酬に連動しない。「次の仕事内容」が報酬なのである。(77頁)

 ために、著者のこだわる「日本型年功制」はぬるま湯を許容する「年功序列」ではないという点を私たちは充分に意識するべきであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿