2013年12月21日土曜日

【第231回】『続・悩む力』(姜尚中、集英社、2012年)

 前作『悩む力』に続き、著者は漱石を用いながら現代社会を縦横無尽に描き出す。

 漱石の作品には大きな特徴があります。それは、主な登場人物が中流以上ばかりだということです。 そういう人たちが、豊かさゆえに、あるいは教育の高さゆえにどつぼにはまる姿ーー、ほとんどそればかりを書いたといってもいいくらいです。底辺に生きる人間のたくましさだとか、プロレタリアートのがんばりだとかいったことには、漱石は少なくとも作品中ではほとんど関心を示していません。 そのように、漱石の小説に展開されているのは、当時としてはかなり上のほうの特殊な人たちの世界だったのですが、しかし一〇〇年後の現在、そのような状況は一般化、大衆化してまんべんなく社会を覆うようになりました。(27~28頁)

 漱石は、自身の作品の中で自我を扱ったと言われることが多い。彼が生きた時代において自我をテーマとして取り上げようとする場合、中流以上を扱わざるを得ないという側面があったのであろう。こうした自我が問題となる現象は、現代のマジョリティに共感を与える、というのは興味深い偶然の一致なのか、それとも漱石が現代を見越してテーマにしていたのか。

 いま世の中を見回せば、実際、このように知性があって、世の中への批評眼もあって、志もあって、なおかつ引きこもり状態になっている人というのは、案外多いのではないかと思います。これも一つ、漱石の先見性であったといえるかもしれない。(70~71頁)

 自我が嵩じてコントロールできなくなると引きこもりが増えるのであろう。そうして引きこもった方の知識レベルはむしろ平均よりも高いケースが多いというのが現代の特徴だ。知識レベルが高いからこそ、自分が失敗したりできないことに対する幻滅感が高まり、自我とのギャップから引きこもるということだろう。引きこもりとは、個人の病ではなく、社会的な病である。

 そのようにして生まれた不特定多数のバラバラの個人は、その後の社会のなかで、変動期になると急進化し、安定期になるとその多くが「私の世界」に閉じこもる傾向を見せました。こうした現象は、現代のネット社会において、より急速に増殖しつつあるといえます。 ネット社会では、形状としては、すべての個人が水平的に平等で、どこかに中心があるわけでもなく、しかも、みながどこにも固定されない形で横につながっている状態です。そしてみなが直接目標にアクセスできる形です。かつて日比谷焼打ち事件に参加した群衆の、一〇〇年後の姿といえないでしょうか。(87~88頁)

 個人がバラバラであるにも関わらず、何かが起こると顔の見えない個人どうしが一気に集約する。ネットでの炎上や、3.11後に日本人のほとんどが「自粛」モード一色になった現象を想起すれば、こうした著者の示唆には首肯せざるを得ない。こうしたバラバラでありながら集約することができる、という現象はインターネットというツールがもたらした功罪であるとも言えよう。

 では、私たちはどのように生きるのか。著者はいくつかのヒントを提示している。

 私には、むしろ苦悩や受苦に目を向け、その意味についてより深く掘り下げていくことで、はじめて新たな幸福の形が見えてくるように思えるのです。(42頁)

 何に対してもポジティヴに捉える、という考え方は一見して私たちの心身にとって良いように思える。しかし、何がポジティヴで何がネガティヴかという発想は、ともすると外的な価値判断に自分自身を委ねるという状態になりがちだ。ある事象がポジティヴであるかネガティヴであるかという判断を留保すること。何に対しても自然な態度を持ち、意味を見出そうとし続けることが私たちには求められるのではないだろうか。

 次に、意味を見出そうと掘り下げるためには私たちはどうすればいいのか。

 「まじめ」という言葉は、やがて来るであろう個人の究極の孤独の時代に、他者との「共鳴」を可能にする最後の砦として、漱石が想いを託したキーワードだったのかもしれない、と考えたりします。 ウェーバーもまた、知の合理化と専門化によって世界の意味がバラバラに解体していくなかで、学問にたずさわるものが最も心を砕かねばならないことは「知的廉直(誠実)」だと言いました。 そこには、はからずも共通点があります。いや、はからずも、ではないかもしれない。彼らは二人とも同じことを考えて、まじめたれと言ったのではないかという気もします。 まじめであるということは、自分のほかに何一つ信を置けるものがなく、何を信じてよいかわからず、絶叫したくなるようなときにも、確実に、人間にとってよすがとなるものだという気がします。(161~162頁)

 「まじめ」に取り組むという極めてシンプルな行為や態度が挙げられている。「まじめ」ということは、自分自身に閉じたもののように思えるかもしれない。しかし、著者によれば、「まじめ」という謙虚な態度の中に、知を育み、他者との共鳴を生み出すという積極的な意味合いを見出している。

 最後に、「まじめ」に生きる意味を見つけ出すためには、時間軸について留意する必要があることを著者は指摘する。

 過去の蓄積だけがその人の人生であり、これに対して未来というのはまだ何もなされていない、ゼロの状態です。あくまでも、未来はまだないものであり、無にほかなりません。はっきりとしているのは、過去は神によっても変えられないほど確実なものということです。極言すれば、「私の人生」とは、「私の過去」のことであり、「我が輩は過去である」といってもいいのです。 ですから、過去を大事にするということは、人生を大事にすることにほかならず、逆に、「可能性」だとか「夢」だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえるかもしれません。 「未来」へ、「未来」へ、私たちが先のほうにばかり目を向けたくなるのは、これもまた市場経済の特性ととてもマッチしています。市場経済においては、消費の新陳代謝を加速させるために、徹底的に未来だけが問題とされるからです。そこで、市場のなかにどっぷりと浸かっている私たちのほうも、思わぬうちにそのような市場の価値観に引っ張られてしまわざるをえないのです。(186~187頁)

 将来像を描くためには、単に未来を描こうとするよりも、過去を振り返ってからの方が、より遠い未来を、より広い次元で描くことができる、という心理学の実験がある。過去を充分に振り返って、自分自身の人生を描くことこそが、自分自身の将来を見透かす上でも必要なのだろう。

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