2012年6月24日日曜日

【第89回】『なんのための仕事?』(西村佳哲、河出書房新社、2012年)


 「働き方研究家」を自称する著者の最新著である。十年ほど前に著者が著した『自分の仕事をつくる』は何度も読み返すほどの素晴らしさであったが、本作もまた再読したくなる良書であった。

 仕事の目的を題材とした著作は多い。そのほとんどが精神性を重視するものであったり、漠然とした観念を扱うものである。そうした中にあって、本書ではリアリティを徹底的に追求するものであり、読みながら自身のキャリアや働き方について考えさせることが多かった。その中でも特に考えさせられた点について述べていきたい。

 第一に、著者は「大切にしたいと考えている」ことを問うのではなく、働いている中で実際に「大切にしている」ことは何か、と問う。つまり、思考を介在して取る行動ではなく、自然と身体が動くように自分が繰り返していることはなにか、と問うているのである。

 この視点の変換は大きい。つまり「大切にしたいと考えている」というスタンスでは、自身の思考による創作が入ってしまう。もちろん、そうした観点も大事であろうが、思考があまりに介在することによって、しっくりこなかったり、無理が生じてしまうということがある。そうした創作物は、ともすると自分で創ったものが自分自身を不幸にするといういわば疎外を生じかねない。

 そうではなくて、実際に自分が自然と繰り返していることに着目すること。これを明らかにすることは、自分自身が気づいていない自分自身の内なる多様性に目を向けることに繋がる。こうしたことを行った後にはじめて、「大切にしたいと考えている」という将来軸のスタンスを少し加味するのが良いのではないだろうか。

 第二に、働く上での対象についてである。著者は具体的で身近なものに自分の力と時間を投資している人に共感をおぼえるという。崇高な理念や競争を勝ち抜くための企業戦略も大事であろう。しかし、私たちが貢献し、その結果としてときに感謝を得られる対象は、あくまで具体的で私たちの身近なものである。そうした対象に対して限りあるリソースを投入するということは、仕事にいわば命を吹き込むということになるのだろう。

 こちらから命を吹き込むことによって、対象からも命を吹き込まれることになる。仕事の文脈で言えば、それは対象からの評価でありフィードバックである。それは、自身と対象との絶え間ない相互交渉であり、その結果としてポジティヴな緊張関係が生まれる。そうすることで、お互いに成長し合える関係性が生じるかもしれない。

 ここから派生するのが第三の長期的な関係性である。著者が行ったインタビューの中で、あるインタビュイーは、商売を交わすことで人と長く関わることの面白さを述べている。さらに、それが一時的なもので終わらないことが楽しいところであり、それと同時に辛い部分でもあると言う。

 営業活動もそうであるし、企業内における人材育成もそうである。単発的ではなく長期的に関係性を継続すること。辛いことと楽しいことをはじめとしたすべてを受け容れることが、働くということであり、働く目的なのではないだろうか。

2012年6月18日月曜日

【第88回】『マネジャーのキャリアと学習』(谷口智彦、白桃書房、2006年)


 優れた学術書は最良のテクストである。

 学術書は、リサーチ・クエスチョン、調査、考察、実践的含意から成り立つが、その前段として研究結果の正当性および新規性を明らかにするために先行研究が行われる。学術書を読むとは、その研究成果を学ぶだけではなく、そこに至る先行研究を学ぶことが学習効果を高めることとなる。本書における先行研究は、経営学、とりわけ組織行動論を学ぶために適していると言えるだろう。

 先行研究とは単に自身の研究に先行する論文を羅列するということではない。否、客観的に羅列するということは土台できないものであり、研究者の興味・関心の影響を必然的に受けることにならざるを得ない。そこに研究者の力量が表れるとも言えるだろう。

 本書の場合、心理学、社会学、経験、学習理論という四つの観点をもとに企業というコンテクストにおけるキャリアと学習について丹念に先行研究がなされている。その中で、特に興味深いと思われた点は、以下の二点である。

 第一に、若林(1987)を引用し、初期キャリアにおける垂直交換関係、すなわち上司との関係性がその後のキャリアに影響を与える点を強調している。具体的には、「上司への近づきやすさ」「上司が自分に示す柔軟性」「上司が支持や配慮をしてくれる度合い」「上司が自分の希望や問題点を理解してくれる程度」といったものが上司との関係を示す尺度として描かれている。私の場合、こうした配属当時の直属上司とこういった緊密な役割上の交換関係を経験することができたことはありがたい限りである。

 第二に、Schon(1983)が述べている実践家の実践に関する技術的合理性モデルと反省的実践家モデルである。既に確立された目的に合わせて解決策を導き出す前者では環境変化の激しい現状には対応しきれず、後者のモデルの重要性が増している。すなわち、意味が不確かな状況の意味を認識する場合には、注意を向ける事柄を名付け、その事柄に注意を向ける文脈に枠組みを与えることを相互に行う過程を通じて問題じたいを設定する必要があるのである。

 こうした先行研究を踏まえての研究成果もまた興味深いものである。

 実践的インプリケーションの部分で著者は、「いくら課題が与えられてもそれを無意味なものと捉えると、もはや学習は進まない。課題をイベントとして捉え、前向きに対処し、課題実行のプロセスを経る必要がある。そして、その過程は「心理的な揺れ」が存在するため、上司、部下、同僚など周りの人間から様々なサポートを得ることもまた重要である。」とする。

 こうした職務に主眼を置いた視点も大事であるが、それと同時に個人に主眼を置いた視点もまた大事であろう。すなわち、従業員個人の中長期的な成長を支援するために、成長のいわばロードマップを従業員と上司とが設定するのである。その中に企業にとって求められるものを入れこむことができれば、個人が求めるものと企業が求めるものとを統合することができるだろう。

2012年6月10日日曜日

【第87回】『21世紀のキャリア論』(高橋俊介、東洋経済新報社、2012年)


 リストラクチャリングによる雇用の流動化はニュースになる。最近で言えば、パナソニックの本社人員の大幅削減がその典型である。しかし、雇用の流動化はいま私たちの働き方に関わる問題の一事象に過ぎないと著者は主張する。より広い視野で捉えれば、企業目線で言えば職務の流動化があり、その結果として個人目線で言えばキャリアの流動化が起きているのである。

 職務の流動化とは2000年頃から人事の世界では言われている。端的に言えば、企業において求められる職務が環境変化に応じて変化し、それに付随して求められるマインドやスキルのセットが変化する、ということである。しかし、こうした職務の流動化の話はなかなか一般的な認識として日本企業の中で定着していないように思える。それはおそらく、学歴や資格といった制限された領域の中で有用な固定的な知識が重視される日本企業の風潮を表しているようだ。そこに縋りたいという過去の「成功者」たちの心境も反映しているのかもしれない。

 もう一つのキャリアの流動化も大きな問題である。キャリアという概念に対しては静的なイメージを持つ人が多いようである。十数年後の自分のあるべき姿をイメージし、そこからリバース・エンジニアリングを掛けて五年後には〇〇の経験を積み、三年後までには△△の資格を取得し、そのために今は□□という仕事をやるべき、といった発想である。これは、日本企業の多くで行われる「入社して○年後の自分を考えよ」という採用面接にも影響されているのであろう。企業が将来を静的に捉えよというメッセージを発し、学生もそれを受けて将来を静的に考えようとしているという共犯関係である。

 著者が主張するキャリア自律という考え方は、上述した静的なキャリア概念とは大きく異なる。具体的には「「若いうちに自分の人生やキャリアを決めろ」という仕組みではなく、試行錯誤しながら生涯にわたって自分の人生や仕事、キャリアのあり方を考え続けるプロセス」と定義している。今の企業においてどちらがより現実に即したスタンスであるかは自明であろう。

 ではキャリア自律を意識してどのように行動するべきであろうか。

 まず、静的なジョブ・マッチングに捉われないことが重要である。静的なジョブ・マッチングの最たる例は適職診断である。消極的な意味での例としては、今の仕事は自分に合っていない(マッチしていない)ように思えて友人の方が生き生きと働いているように思えるいわば「隣の芝生が青く見える」類いのものである。これが病的な「青い鳥症候群」として、一時期のアメリカで問題となったジョブ・ホッパーを産み出したことは記憶に新しい。

 こうした静的なジョブ・マッチングではなく、動的な価値観のマッチングが重要である、というのが著者の主張である。これは、仕事自体が自分に合っているか否かというよりも、仕事の中で発揮している能力が自分らしい能力なのかどうかという点でのマッチングを重視する考え方である。このように捉えれば、職務の流動化が進んだとしても、普遍性の高い自身の保有能力をもとにして今後の自身の職務にアジャストすることができるようになり、キャリアの流動化に対応し易くなる。

 動的な価値観のマッチングのために必要なものとして著者は三点を指摘している。

 一つめは自身の人生とキャリアを継続的に切り拓く良い習慣や能力を身に付けること、である。学生までは、試験期間に集中的に勉強することで良い成績を得られることができ、断続的な学習経験が結果的に学歴という結果に結びつくというルールであった。学校の序列が固定的であり、そこで求められる学習能力が固定的であったために適用できたものであり、職務の流動化とキャリアの流動化が進行する社会においては通用しない。したがって、職務の中で自分なりに工夫し、それを自身の将来の職務に応用可能なレベルまで普遍化すること。また、自身のスキルセットをプロアクティヴに更新し続けることが必要なのである。

 二つめは深い学びをする習慣を身につけることである。報酬を上げること、特定の資格を取得することといった学習内容とひもづかない功利的な学習は学習内容の重要性を軽視するものである、という心理学者の市川伸一氏の文献を引用して著者は指摘している。こうした学習内容を軽視する学びでは、丸暗記型の学習になり易く、職務に応用できるレベルの普遍化ができない。また、予見性の低い領域で失敗することを恐れてしまい、新しい領域を学び続けるというチャレンジにネガティヴな影響を与えるという。そうなると職務の流動化に対応できず、「過去の栄光」にしがみついていつまでも自分をアップグレードできない心的状況を招いてしまいかねない。こうした学習内容を軽視する学びではなく、学習内容の原理原則に戻り、普遍性の高い学びを積み上げることが今の時代には求められている。さらに言えば、そうした学びに高い確率で付随する失敗経験から学ぶ姿勢が合わせて必要とされるだろう。

 三点めとして自分らしい幸せなキャリアに導く仕事観や働く意味を意識することが挙げられている。自身が自社や社会に対してどのような価値を提供しているかという提供価値を継続的に定義し、再定義を繰り返し、その結果として自身のキャリアを構築するというプロセスが必要であろう。自分自身の提供価値とは、なにも自分にとって重要であるということを意味しない。むしろ、自身にとって大事な内因的な仕事観と、企業や社会から求められる規範的仕事観とを統合することで見出すものである。

 キャリアを学ぶことは仕事を学ぶことに他ならない。仕事とは社会と人との結節点であるのだから、それを学ぶことは社会を学ぶことであり、人を学ぶことである、社会と人とが変化し続ける以上、キャリア論もまた変化し続けるだろう。働き続ける以上、キャリア論は今後も折りに触れて学び続けたい領域である。

2012年6月3日日曜日

【第86回】『戦略人事のビジョン』(八木洋介・金井壽宏、光文社、2012年)


 残念ながら、人事の実務家が著す書籍には面白いものが少ないように思う。むろん、高橋俊介さん、城繁幸さん、平野光俊さん、原井新介さんといった方々の著作のように例外があることは事実である。つまらないものと興味深いものとの違いは比較すれば分かり易い。後者の著作は、企業における戦略を踏まえた上で人事の役割を深く考え、中長期的な人材開発・組織開発に焦点が置かれている。それに対して、前者は日頃の日常業務に焦点を当てすぎていたり、コンサルタントが評価システムや研修といった自社の商材を売る目論みが強すぎて近視眼的に過ぎる。

 この比較に基づけば、本書は後者に属する書籍である。まえがきにもあるように「人事の役割がこのままでいいとは思っていない人事部門の人たち、人事の仕事を通じて日本を元気にしたいと本気で願っている人たち、とりわけキャリアの若い時期に人事部門に配属された人たち」を想定読者と捉えようとする著者の気構えにも表れているようだ。

 とりわけ興味深く感じたのは、戦略人事の役割、人材育成と組織開発、リーダー育成、という三点である。

 戦略人事という言葉は戦略と人事とから成る。著者は戦略を、企業における「ふつうの人に理解できるもの」であるべきものとする。すなわち、企業の中心に近い部門にいたり、高いポジションにいたりする少数の人材だけではなく、「ふつうの人」にも理解可能なものでなければ戦略でない、というのである。戦略を社員に噛み砕き、「ふつうの人である社員とのコミュニケーションを図り、そのやる気を最大化し、企業の生産性を向上させること」が戦略人事の要諦であるとしている。より具体的に言えば、日常的なコミュニケーションとともに、評価制度や教育制度といった特定場面でのコミュニケーションをデザインする、ということになるだろう。感銘を受けると共に、やや耳が痛く自省を促される言葉である。

 戦略人事という視点が欠けると、巷間に流布する人事部門に対する誤解が生じることとなる。現場に隠れて悪いことを画策しているのではないか、管理職の代わりに考課評価を人事が担っているのではないか、相当な力を持っているのではないか。こうした「人事アフィア神話」が肥大化する理由は、その会社の人事に戦略性が欠落しているからという著者の指摘はごもっともである。社内コミュニケーションを促進するどころか阻害してしまうこうした作用は害悪であり、だからこそ戦略人事という役割は人事にとって不可欠なのであろう。

 次に人材育成と組織開発について。人材育成とは人事部門がデザインした場面のみで行うものではなく、日常の業務やミーティングに積極的に関与して行うべきものであると著者は述べている。非常に納得的である。どうしても評価面談や集合研修といった場は特別な場として社員に意識されがちであり、日常の業務との近接性が弱くなりがちだ。たしかに、そうであるからこそそういった場をいかにデザインするかという視点の重要性に変わりはない。しかし、より業務に近い場面に対して関与することが、社員個人の人材育成に良い影響を与え、それが組織開発の一歩になることは間違いないだろう。そのために、「本物の人事」にはコーチングとファシリテーションという二つのスキルが必要不可欠であると著者は述べる。人事として社員に対して一方的に正しいことを伝達するので良ければ、他部門に対して文書や口頭での指導を行い、学校の授業のような教育研修を提供すれば良いのであろう。しかし、人事に戦略性が求められる現代の企業においては、相手に動いてもらうために、自身の職務経験に根ざしたコーチングや、場を活性化し相手の経験を引き出すファシリテーションが必要になるのである。

 最後のリーダー育成についてはさすがはGEという印象だ。特に、学生時代に運動部のキャプテンを務めていたが、企業でのリーダーシップの発揮に悩む受講者への著者の働きかけが秀逸である。著者は運動部におけるリーダーシップと企業におけるリーダーシップとを対比的に説明したという。前者は、最年長学年の人間が部長として下級生に対してリーダーシップを発揮すれば事足りるのに対して、後者では部門内にも年下の部下がいたり、他部署のエライ人や経営層に対しても影響を与える必要がある。その受講者は年下へのリーダーシップが得意であるのに対して、年長者や上長へのリーダーシップに課題があることに気づかされたのである。こうした場をしつらえ、相手を動かす働きかけが「本物の人事」に求められるのであろう。

 ここで述べた三点をはじめとした戦略人事に必要なことを、著者が自身の経験に根ざした温かみのある言葉で表している点が本書の特長であろう。人事の担当者として、読みながら思わず背筋が伸びる良書である。