2012年6月3日日曜日

【第86回】『戦略人事のビジョン』(八木洋介・金井壽宏、光文社、2012年)


 残念ながら、人事の実務家が著す書籍には面白いものが少ないように思う。むろん、高橋俊介さん、城繁幸さん、平野光俊さん、原井新介さんといった方々の著作のように例外があることは事実である。つまらないものと興味深いものとの違いは比較すれば分かり易い。後者の著作は、企業における戦略を踏まえた上で人事の役割を深く考え、中長期的な人材開発・組織開発に焦点が置かれている。それに対して、前者は日頃の日常業務に焦点を当てすぎていたり、コンサルタントが評価システムや研修といった自社の商材を売る目論みが強すぎて近視眼的に過ぎる。

 この比較に基づけば、本書は後者に属する書籍である。まえがきにもあるように「人事の役割がこのままでいいとは思っていない人事部門の人たち、人事の仕事を通じて日本を元気にしたいと本気で願っている人たち、とりわけキャリアの若い時期に人事部門に配属された人たち」を想定読者と捉えようとする著者の気構えにも表れているようだ。

 とりわけ興味深く感じたのは、戦略人事の役割、人材育成と組織開発、リーダー育成、という三点である。

 戦略人事という言葉は戦略と人事とから成る。著者は戦略を、企業における「ふつうの人に理解できるもの」であるべきものとする。すなわち、企業の中心に近い部門にいたり、高いポジションにいたりする少数の人材だけではなく、「ふつうの人」にも理解可能なものでなければ戦略でない、というのである。戦略を社員に噛み砕き、「ふつうの人である社員とのコミュニケーションを図り、そのやる気を最大化し、企業の生産性を向上させること」が戦略人事の要諦であるとしている。より具体的に言えば、日常的なコミュニケーションとともに、評価制度や教育制度といった特定場面でのコミュニケーションをデザインする、ということになるだろう。感銘を受けると共に、やや耳が痛く自省を促される言葉である。

 戦略人事という視点が欠けると、巷間に流布する人事部門に対する誤解が生じることとなる。現場に隠れて悪いことを画策しているのではないか、管理職の代わりに考課評価を人事が担っているのではないか、相当な力を持っているのではないか。こうした「人事アフィア神話」が肥大化する理由は、その会社の人事に戦略性が欠落しているからという著者の指摘はごもっともである。社内コミュニケーションを促進するどころか阻害してしまうこうした作用は害悪であり、だからこそ戦略人事という役割は人事にとって不可欠なのであろう。

 次に人材育成と組織開発について。人材育成とは人事部門がデザインした場面のみで行うものではなく、日常の業務やミーティングに積極的に関与して行うべきものであると著者は述べている。非常に納得的である。どうしても評価面談や集合研修といった場は特別な場として社員に意識されがちであり、日常の業務との近接性が弱くなりがちだ。たしかに、そうであるからこそそういった場をいかにデザインするかという視点の重要性に変わりはない。しかし、より業務に近い場面に対して関与することが、社員個人の人材育成に良い影響を与え、それが組織開発の一歩になることは間違いないだろう。そのために、「本物の人事」にはコーチングとファシリテーションという二つのスキルが必要不可欠であると著者は述べる。人事として社員に対して一方的に正しいことを伝達するので良ければ、他部門に対して文書や口頭での指導を行い、学校の授業のような教育研修を提供すれば良いのであろう。しかし、人事に戦略性が求められる現代の企業においては、相手に動いてもらうために、自身の職務経験に根ざしたコーチングや、場を活性化し相手の経験を引き出すファシリテーションが必要になるのである。

 最後のリーダー育成についてはさすがはGEという印象だ。特に、学生時代に運動部のキャプテンを務めていたが、企業でのリーダーシップの発揮に悩む受講者への著者の働きかけが秀逸である。著者は運動部におけるリーダーシップと企業におけるリーダーシップとを対比的に説明したという。前者は、最年長学年の人間が部長として下級生に対してリーダーシップを発揮すれば事足りるのに対して、後者では部門内にも年下の部下がいたり、他部署のエライ人や経営層に対しても影響を与える必要がある。その受講者は年下へのリーダーシップが得意であるのに対して、年長者や上長へのリーダーシップに課題があることに気づかされたのである。こうした場をしつらえ、相手を動かす働きかけが「本物の人事」に求められるのであろう。

 ここで述べた三点をはじめとした戦略人事に必要なことを、著者が自身の経験に根ざした温かみのある言葉で表している点が本書の特長であろう。人事の担当者として、読みながら思わず背筋が伸びる良書である。

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