2019年10月26日土曜日

【第998回】『リーダーシップからフォロワーシップへ』(中竹竜二、阪急コミュニケーションズ、2009年)


 早稲田ラグビーを復権させた清宮克幸氏を引き継いで監督となった著者。前任者の華やかな有言実行とは異なるスタイルは、一見して意外であったが前任者に劣らない卓越した成果を継続して出し続けた。その秘訣を明らかにした本書のエッセンスは、このタイトルに端的に現れている。

 全員がリーダーと同じ気持ちでいること。与えられたり指示されたりするのを待つのではない。最終的に決断を下すのはリーダーだけれど、常にフォロワーもリーダーと同じように主体性を持って考える。これは私の理想とする組織でもある。(106頁)

 役割としてリーダーとフォロワーは相対的なものとして一つの組織の中に現れる。もちろん、ある人物が固定的にリーダーであり、フォロワーであるということはない。相対的な役割によって、ある場面ではリーダーシップを発揮する人物が、違う場面ではフォロワーシップを担うのである。だからこそ、ある特定の状況において、リーダーとフォロワーとは意識を共有し両者ともに主体性を持って考えて行動することが求められるのである。

 主体性を持ってどのように行動するのか。行動する際の拠り所として、強みを中心にして自身のスタイルを構築し続けることを著者は主張する。さらには、リーダーとしての自分自身がスタイルを創るだけではなく、リーダーとしてフォロワーのスタイルを構築するために全力を注ぐことを提案する。

 このように相対的にリーダーシップとフォロワーシップが生じるのであるから、組織にはリーダーが複数いても良いことになる。

 組織の区切り方によってリーダーというものは変わっていく。(中略)
 その原理を積極的に応用したのがマルチリーダー制である。常に複数のリーダーを置くことで、誰がリーダーになってもフォロワーはそれに順応できる組織風土を作るための体制である。(177頁)

 リーダーが組織に複数いても良い、というよりも複数いることによるメリットがここでは提示されており、納得的だ。本年のラグビーW杯の日本代表でも複数リーダー制を用いていたという。だからこそ、リーチ・マイケルだけに頼らず、彼が試合に出ていない場面でもチームとしての力を発揮できたのであろう。

【第570回】『オシムの言葉』(木村元彦、集英社、2005年)

2019年10月22日火曜日

【第997回】『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一、守屋淳訳、新潮社、2010年)


 本書が流行する意味がよく分かり、また流行していることに安心感をおぼえる一冊であった。正直、渋沢栄一の『論語と算盤』を以前読んだ時にあまり頭に入ってこなかったのでそれほど期待していなかった。ただ訳者の大胆な現代語訳は、今を生きる私たちにとって、渋沢だったらどのようなニュアンスで伝えたかという意図で書かれたものであり、すんなりと入ってきたようだ。

 渋沢はなぜ『論語と算盤』を著したのか。訳者の解説によれば「「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だ」(9頁)として、渋沢の座右の書であった論語を解説したそうだ。日本の資本主義の父とも言われる著者が、論語をその基盤に置いているのだから、現代の資本主義社会を生きる私たちの血肉となる内容となっていることに驚きはないだろう。

 特に興味深いと感じたのは、仕事の中における趣味に関する考察の部分である。

 仕事をするさい、単に自分の役割分担を決まり切った形でこなすだけなら、それは俗にいう「お決まり通り」。ただ命令に従って処理するだけにすぎない。しかし、ここで「趣味」を持って取り組んでいったとしよう。そうすれば、自分からやる気を持って、
「この仕事は、こうしたい。ああしたい」
「こうやって見たい」
「こうなったら、これをこうすれば、こうなるだろう」
 というように、理想や思いを付け加えて実行していくに違いない。それが、初めて「趣味」を持ったということなのだ。わたしは「趣味」の意味はその辺にあるのではないかと理解している。(106頁)

 趣味一般としてはやや古風な考え方かもしれない。しかし、仕事において工夫をしてみる、意義を自分なりに考えてプラスアルファしてみる、という意味ではこれほど腑に落ちる考えはないのではないだろうか。

 同一労働同一賃金の流れの中で、日本企業も職務主義へと舵を切ろうとしている。総論としては反対はしないが、そこで失われるものは一つひとつの仕事に意味を見出そうとしたら、能力を蓄積しようという働く個人の営為になりかねない。しかし、渋沢の上記のような考え方を、私たちは持ち続けることが、日本資本主義の叡智として重要なのかもしれない。

 自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。(134頁)

 個人の営為として持ち続けることは、勉強するために勉強するのではなく、実践と結びつけようとしてインプットすることである。現代の日本社会には、美辞麗句を施して見てくれをよくするだけの「学びごっこ」のいかに多いことかと、渋沢なら慨嘆するかもしれない。

【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第662回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年10月19日土曜日

【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 いやはや予測を裏切る展開となった。主人公を最後のシーンへと誘ったのは一体なんだったのか。いかようにも解釈できる余韻を持たせた結末であり、読者は色々と考えることができる。悪はなぜ生まれ、伝播していくのか。この物語を読んでいると、どうしても悲観的に考えてしまう。

 自分の中に堆積していた様々な記憶の断片が、何か大きな棒のようなものを差されて、力任せに一掻きされたように、底から身を翻しつつ湧き起こっては、しばらく渦を巻きながら意識の内側を巡り、その色を混濁させた。(103頁)

 切れぎれの、今にも夢の向こうが透けて見えそうな昨夜のうっすらとした眠りは、どうにか掻き集めても、三時間程度の分量にしかならず、その頼りない手応えの分だけ、体には重みが残った。(440頁)

 どちらも主人公の内面を描写している。彼が抱える悩み、葛藤、暗部を、読者があたかも目の前に想起できるようだ。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月14日月曜日

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 インターネットの匿名性による犯罪。私が知る限りでは、著者は推理小説を書く方ではない。そのため、中盤以降から話題の中心となる犯罪を犯した人物は想像に難くない(誤解かもしれないが)。ある予期を持って読み進めることになり、誰が犯人なのかというよりも、なぜ殺人を犯すのかという点に関心が湧く。

 プロットとは直接関係ないが、思わず首肯したのがこちら。

 他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身にとって何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう。(453頁)

 新しい形の犯罪であるにもかかわらずやや古い印象を抱くのは、本書のハードカバーが出版されたのが2008年だったからだろうか。その後に、FacebookやInstagramといった実名でのSNSが主流になったために、インターネットの匿名性というものに古いイメージを持ってしまう。

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)
【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

2019年10月13日日曜日

【第994回】『64(下)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 この展開はすごい。下巻の中盤あたりからラストに向けた畳み掛けが見事。上巻から散りばめられた様々なエピソードが、これがそれに繋がるのかと感嘆するようにこれでもかと結びついていく。組織とは何か、正義とは何か、報道による知る権利とは何なのか。人間ドラマを通じて様々なことを考えさせられる。

<ひと月で慣れる。ふた月で染まる。人事は例外なくそうだ>(128頁)

 「人事」という機能に対する皮肉な台詞もそうだよなと思わさせられる。

 事件は何度でも人を試す。暗がりを、三上は一歩一歩踏み締めて歩いた。(396頁)

 ネタバレにならないように書くと、事件が新たな事件を生み出す。そこには様々な感情が綯い交ぜになり、誰が何の権利で誰を裁くのかという究極の難問が生じる。そもそも、人は人を裁けるのだろうか。裁けるとしたら、その根拠は何なのだろうか。

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)

2019年10月12日土曜日

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 警察機構を題材とした小説であり、暗い印象のある書き出しから始まる。冒頭からしばらくは人物同士の関係性がわかりづらいが、次第に明らかになりかつ物語に引き込まれているのは、さすがの展開力と言え、文句なしに面白い。

 三上は階段の踊り場に立ち尽くした。
 上の階は刑事部。下は警務部。自分の立っている場所が、そのまま己の置かれた立場に思えた。(160頁)

 元々は刑事部の出身であり、自分自身を生粋の刑事だと思っている主人公。しかしながらキャリアの初期の段階で広報部というスタッフ部門にわずかながら経験し、現在も広報部という警務部側に色分けされる立場で働く。その葛藤が文章によく現れている。

 三上は運転席のウインドウを少し下げた。冷気が頬を撫でる。わずかばかりの葉を残した歩道の冬木立が北風に鳴いている。(313頁)

 ここの表現もまた、いい。主人公の置かれる厳しい環境が、情景に描写されている。

【第905回】『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤、講談社、2009年)

2019年10月5日土曜日

【第992回】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(古田徹也、角川書店、2019年)


 哲学書は難しい。その中でも『論理哲学論考』は難解だ。しかしあまりに有名な本であり、何とか少しでも理解してみたい。こうした願望に答えてくれる、『論理哲学論考』の入門書的解説本が本書である。

 元々の書籍が難解なのだから平易に解説するのにも限界がある、と思うなかれ。読み応えはあるものの、理解はできるレベルである。何回か読み直しながら、「論考を理解した!」と言えるまで繰り返して読みたい良書である。ウィトゲンシュタインに挫折した全ての方に推奨したい。

 世界の具体的なあり方を描き出す命題はすべて、要素命題が操作によって結合したものとして理解できる。そして、要素命題を構成する名はそれぞれ、世界のなかの何らかの対象(物)に対応する。それゆえ、「経験的な実在は、対象の総体によって限界づけられている。その限界はまた、要素命題の総体において示される」(五・五五六一節)と言いうる。(245頁)

 論考は、世界の全てを対象にして哲学というアプローチで表し尽くそうとしている。そのスコープのすごさは、上記のような記述に現れている。まだ理解したとはとても言い切れない。しかし、その面白さには気づいたように思える。読み直して少しずつ理解していきたい。

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)