2018年8月26日日曜日

【第872回】『現場主義の競争戦略』(藤本隆宏、新潮社、2013年)


 日本の製造現場を観察し、そこで得られた知見を基に研究を進めてきた著者の講演集である。講演というテーストで述べられた文言であるために、著者が語りかけているようで読みやすく、また著者の日本の製造業に対する想いが伝わってくるようだ。

 長年あちこちの工場を見ていますと、危機における優良企業の優良現場というのは、大抵こうしたもので、挽回、改善、生き残りのための組織的な気力や実力に衰えが見られない。あわてず騒がず、淡々と日々の能力構築を続け、会社は赤字でも現場力の向上は続けています。(16頁)

 日本のものづくり現場における強みを端的に表現した箇所であり、なんとなく感じ入ってしまった。もちろん、日本の工場が全てこうした美質を持っているのではなく、「優良企業の優良現場」という限定が示すように、むしろマジョリティはそうではないのであろう。トヨタでさえ、工場によって差があると本書でも指摘がなされているのであるから、ほかは言わずもがなである。

 では、どのような状況でも改善を続けるというマインドセットの強みは、今後どのような分野で成果を出せるのか。

 「きりがない」形でお客さんの機能要求がどんどん厳しくなる、あるいは社会的な規制が厳しくなる製品でこそ、日本の産業現場に生き残りのチャンスがあるのです。なぜなら、そういう製品は設計が複雑な「擦り合わせ型」になりやすく、「多能的な技術者によるチーム設計」という組織能力が活きる世界だからです。(39頁)

 社会的な規制が厳しく、顧客の要求水準が高いという状況で「擦り合わせ型」の製造プロセスが求められる領域でこそ、日本の改善は活きる。反対にいえば、ディジタル製品をはじめとしたモジュラー型の生産方式や、製造時の規制で複数ライン間での多能工が禁じられるものづくり現場では、擦り合わせ型の改善は機能しづらいのであろう。

 こうした擦り合わせ型の改善行動を京都の花街をアナロジーとして述べている以下の箇所が面白い。

 不断に異常対応しつつ「流れ」を管理するという基本は、京都の御座敷も同じです。接客サービス業の場合は「お客の経験の流れ」に対して直接、付加価値(設計情報)を転写します。しかし、酔ったお客は挙動が乱れますから、花街の芸舞妓チームは、鉄板や部品の流れが相手のトヨタの現場以上に、異常対応の連続になります。(55頁)

 花街における多様な協働や関わり合いながら人財を育成する様子は西尾久美子さんの『京都花街の経営学』に詳しいが、たしかにトヨタと花街の強みは符合するのではないかと納得した。

 現場における付加価値は、製品やサービスの流れを重視した設計情報によって生み出される。流れは変化するものであり、顧客もしくは次の工程の変化を機敏に察知して自身のプロセスを変化させ続ける。こうした自律的行動によって価値が生み出されるのである。

【第573回】『経営戦略を問いなおす』(三品和広、筑摩書房、2006年)

2018年8月25日土曜日

【第871回】『漂流』(吉村昭、新潮社、1980年)


 火山島で生き延びた長平によるリーダーシップ発揮の物語と読むことは容易だ。しかし、それだけに集約されない、もしくは集約してはいけない何かがある。遠い過去の無人島における苦難の様を、読者に思い描かせる著者の筆致の凄みによって、安易なレッテル貼りをさせない余韻が残っている。

 その日は、美しい夕焼だった。空も海も、鮮やかな茜色に染まった。(172頁)
 洞穴の外には、夕照があふれていた。(195頁)

 仲間の死の描写の後には、夕焼けの美しさが簡潔に述べられる。無人島に置いていかれる精神的な辛さの描写の後に、シンプルな美を感じさせられる表現があることで、諦観を試みようとする長平の気持ちに寄り添うことができるのかもしれない。

 生きてみるか……と、或る日、美しい夕日の沈むのを眼にしながら、かれはつぶやいてみた。自分だけが生き残ったのも、神仏の御心によるものかもしれぬ、と思った。(198頁)

 同郷の船乗り全員に死に別れ、一人で島で生き延びようと決意するシーンである。死を美しいとは全く思わない。しかし、近しい存在の死を葛藤しながらも受け容れ、今から後の生にコミットする長平の意志は、美しいと感じた。

 「さとりとは……、口に出すこともおそろしいことだが、この島で一生を暮らそうと思うことです。しかし、私には、まだそのようなさとりの境地に達することはできません。どうしても故郷へ帰りたいと強く願っています。そこで、せめて帰郷は神仏の意におまかせしよう、それまではあせることも泣くこともやめて達者に暮らそうと思うようになりました。このように考えてから、気持がひどく楽になりました」(235頁)

 島に流れ着いた他藩の漂流者たちに語りかけるシーンである。遠くの理想を思い描きながらも、近くの現実的な目標にコミットし、日々を淡々と生きる。『夜と霧』を想起させるような長平の独白に思える。

 「一度は死んだおれたちだ。自分が亡者だと思えば、欲も消える。ここは海の墓場で、おれたちは亡者だ。亡者が力を合わせて、人間の生きている場所にもどれば、それでよいではないか」
 長平の言葉に、栄右衛門が深い息をつくと、
 「亡者が、船を造って帰ろうというわけだ」
 と言った。
 「そうだ。亡者が亡者の造った船で人間の生きている場所にもどってゆく……」(435頁)

 リーダーシップは個人の内側から始まる。自分自身が自分自身をリードすることが、他者を巻き込む原動力となる。一人の他者に伝わり伝播していくなかで、チームへの影響が生じ始める。さらには、多様な一人ひとりの相互影響がもたらされ、チームとしての共通目標の分有とコミットの深化が進む。

 リーダーシップ論として無理にまとめる意図はないが、現時点での私の所感を表現するとこのようになった。

【第105回】『リーダーシップ入門』(金井壽宏、日本経済新聞出版社、2005年)

2018年8月19日日曜日

【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)


 言わずと知れた古典的名著。いちおうは心理学を学んだ身として、修士に入る前、修士の学生をしている間には読んだが、それ以降は読めずにいた。

 十年ぶりに読むと、以前とは違うところに引かれることはよくある。しかし、今回の場合は、以前と同じ箇所に印象を受けた。

 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(130頁)
 
 この一節に改めて出会えただけでも、再読した意味があったと強く思う。私たちは何らかの意味があるからある行動をとるという順番で捉える。しかし、極限の状態を生き抜いた著者によれば、その順番は逆であるという。つまり、そのタイミングで求められる行動を選んでいく中で、意味が紡ぎ出されていくということなのであろう。

 目標からの逆算で合理的な現在の行動を導くという発想は、近代以降の私たちの思考パターンである。もちろん、こうした考え方も有効であろうが、それは予定調和性の高い条件下における合理的選択とも言える。予定調和性が低い状況下においては、著者の述べるアプローチが有効であり、併せて捉えたいものである。

【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)
【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)

2018年8月18日土曜日

【第869回】『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2016年)


 前作『嫌われる勇気』の哲人と青年が、三年の歳月を経て再び対話に臨む。実際に、本作は前作の出版から三年経って出版されたものであり、その間に読者から受けた質問や相談を踏まえたものなのであろう。そのため、青年の問いや反発は共感できるものが多く、だからこそ本作の世界観に再び引き込まれるように読み進められる。

 基本的な主張は、良い意味で前作と変わっていないと感じた。アドラー心理学を学んだ青年が、教育現場で実践しようとしてうまくいかなかった経験を基に対話がなされ、実践して得られる違和感へのフォローアップというところであろうか。仕事や教育といったテーマは、個人的には刺さるテーマであり、考えさせられるものが多かった。

 まずは教育について。

 自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料ーーたとえば知識や経験ーーがあれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。(123~124頁)

 小さな意思決定を、自覚的に幼い頃から行うことは大事である。もちろん、本作で述べられるように、ともすると子どもは親や周囲の期待を敏感に察して、生存戦略の一環として周囲に承認されることを目的として行動してしまう存在だ。だからこそ、周囲の大人である両親や教育者が、自己決定を子どもたちにさせることは、子どもたちを尊重することでもあり教育という文脈においても重要なのだろう。

 教育者が子どもの自律性に任せることが良いのだとすれば、放任すれば良いのかという疑問が出るだろうが、著者たちはそうした発想を明確に否定する。

 子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。(124~125頁)

 決断を尊重し、いつでも援助できる適度な距離感で見守ること。教育者の度量と力量が問われる難しい支援の有り様であるが、これが真実なのであろう。個人的には、学術上の恩師を思い起こさせられる内容である。(彼はユング心理学をベースにしていたはずであるが。。。)

 次に、仕事について。

 原則として、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことはむずかしくなりますからね。
 そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。(193頁)

 分業は人間疎外を招く元凶であり、人間を取り替え可能な存在と見做す否定的なシステムとして捉えられることがある。しかし、著者は、産業革命によってもたらされた分業というしくみには、他者と信頼し合うという側面があることを強調する。

 その上で、相互に信頼し合い助け合うためには、誠実に仕事に取り組む姿勢が必要不可欠であると述べる。ここには、仕事を通じて他者に貢献し、他者とともに協働しながらより社会に対して貢献するという発想までもが含意されているのではないか。

 アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
 ……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。(151頁)

 仕事を通じて他者に貢献し、社会に貢献するということによって、ここに私がいていい理由としての所属感を得ることができる。こうして、自分自身の存在を積極的に認めることができて初めて、他者をも積極的に認めて相互に信頼しあえる関係性を築ける、とアドラー心理学は捉えているのではないだろうか。

 最後に、本筋とはそれるが、本書では、カルト的な存在としての宗教に対する話や、メサイヤコンプレックスの話など、安易な自己啓発的な考えを否定するウィットに富んでいる。解説は抜きにして、興味深かった二つの話を引用して終えたい。

 ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。(30頁)
 他者を救うことによって、自らは救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする、心的な倒錯です。(162頁)

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第554回】『働くということ』(黒井千次、講談社、1982年)

2018年8月17日金曜日

【第868回】『マラソンの強化書』(小出義雄、KADOKAWA、2015年)


 高橋尚子や有森裕子を指導し、オリンピックで三大会にわたってメダル獲得を支援したコーチとして有名な著者。その著者が、私たち一般の人々に向けてマラソンに臨む準備や日頃の練習について平易に解説してくれている。

 優しさに溢れたような、著者の人柄のあたたかさが滲み出る文体が、マラソン初心者を動機づけてくれる一冊だ。既刊の『マラソンは毎日走っても完走できない』『30キロ過ぎで一番速く走るマラソン』の要点を絞って編集してくれているのも、ありがたい。

 図や絵を用いながら噛み砕いて説明がなされ、また実際のレースの何週間前にどのような練習をすれば良いかについて事例を交えながら解説してくれている。こうした具体的かつ実践的な内容は明快である。

 こうした実践的なアドバイスの背景にある考え方が以下に端的に要約されている。

 では、具体的に「体」のどこに負荷をかければいいのでしょう? マラソンの練習で負荷をかける場所は2カ所です。ひとつは、脚ーー42・195キロを(めざしたタイムで)走りきれるように負荷をかける。もうひとつは心肺ーー速いスピードで走っても耐えられるように負荷をかけます。(3~4頁)

 ジョギングが日常的でマラソンにも複数回出ているベテランの方には当たり前のことなのかもしれないが、初心者にとってはポイントが明確になりわかりやすい。具体的なアドバイスや事例を考える際にも、このポイントを意識して、自身の練習に取り入れたいと思った。

【第165回】『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)
【第782回】『職業としての小説家』(村上春樹、スイッチ・パブリッシング、2015年)

2018年8月16日木曜日

【第867回】『決めて断つ』(黒田博樹、K Kベストセラーズ、2015年)


 野茂英雄、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大、大谷翔平といった歴代の日本人メジャーリーガーのような派手さはない。しかし、シーズンを通じてローテーションを守って二桁勝利を毎年のように積み上げていた著者には、不思議な魅力を感じていた。一人のプロフェッショナルとしてだけではなく、「漢気」と形容される彼の人としての素晴らしさが、本書には随所に溢れている。

 僕は中学生以来、野球を楽しいと思ったことは本当に一度もないし、特にメジャーに来てからはシーズン終盤になると性も根も尽き果て、体力的にも、精神的にも余力が残っておらず、「もう、こんなしんどいことはしたくない。引退しよう」と真面目に考えるようになっていた。(9~10頁)

 著者の野球に対するひたむきな態度は、真摯な想いに裏打ちされたものだったのであろう。たのしむとかポジティヴといった姿勢が好ましく言われる昨今の状況の中で、ともすると不器用とも取られるような考え方は新鮮である。

 さらにいえば、高校時代にエースになれずに甲子園の土も踏めず、大学野球でも知る人ぞ知るレベルの存在であった著者の現実感覚が現れているようだ。圧倒的多数の「普通の人」にとって、勇気付けられるマインドセットである。

 振り返ってみると、自分はいろいろなことに気づくのが遅い。それでも結局は、一歩、一歩進んでいき、そこで気づくしかない。(59頁)

 日米通算で200勝を達成した名投手が、「気づくのが遅い」と書かれると恐れ入るばかりである。ここでの気づきとは何か。おそらく、違和感に気づいたり、目指す姿と現状とのギャップに気づくだけではなく、その気づきに基づいて試行錯誤を繰り返して改善行動へと繋げて結果を導くことまでを含むのではないか。ここまで考えた理由として、以下の箇所が挙げられる。

 野球に即して言えば、エースと呼ばれるためには段階を踏む必要がある。
 たとえばルーキーの投手が15勝したとしても、その投手が2年目にエースと呼ばれることはない。「エース」と呼ばれるためには、1年だけの実績ではダメで、2年目のジンクスを跳ね返し、3年、4年と安定的に勝ち星を積み重ね、重要な試合でエースと呼ばれるにふさわしい投球をしてこそ、周りが「エース」として認めることになる。
 僕は、その間の段階こそが重要で、段階ごとに目標を立て、邁進することに注力している。それが「目の前の目標にこだわる」という意味だ。(70頁)

 気づき、試行錯誤を繰り返し、結果を長期間に渡って出し続ける。これを愚直かつ真摯に行うために、気づきが遅いと捉え、悲壮な覚悟でマウンドに向かう、ということになるのであろう。こうまでして練習に向かうモティベーションは何だったのか。

 結局、自分を練習に駆り立てるモチベーションとは、「怖いから」ということに集約されている。
 打たれることに対する恐怖心。
 自分がダメだったときの恐怖心。
 すべては恐怖心から逃れるために練習を積み重ねていく。(190頁)

 ここまで徹底されているからこそ、プロフェッショナルなのだろう。プロフェッショナルとは、一様なものではなく、多様なあり方があることに、改めて気づかされる良書であった。

【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)
【第499回】『不動心』(松井秀喜、新潮社、2007年)
【第428回】『自己再生』(斎藤隆、ぴあ、2007年)
【第45回】『心を整える。』(長谷部誠、幻冬社、2011年)

2018年8月15日水曜日

【第866回】『ノモンハンの夏』(半藤一利、文藝春秋社、2001年)


 ノモンハン事件はなぜ起きたのか。なぜあれほどの損害を招いたのか。あの失敗を陸軍はどのように活かしたのか。本書はこうした問いに対して、絶望的な回答を納得的に与えてくれる。しかし、後世を生きる私たちにとっては学びとなる内容であり、繰り返してはならない教訓である。

 こうして外側のものを、純粋性をみだすからと徹底して排除した。外からの情報、問題提起、アイデアが作戦課にじかにつながることはまずなかった。つまり、組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道としてわが道を邁進した。(15頁)

 陸軍のエリート集団である中央の作戦課の描写である。現場を見ず、思考によって得られる抽象化された概念だけで主張を紡ぎ出す。抽象化されたものをそのまま具体案に落とすため、自分たちにとって都合の良い独りよがりなアイディアとなり、それは往々にして現実と乖離する。

 会議では「過激な」「いさぎよい」主張が大勢を占め、「臆病」とか「卑怯」というレッテルを貼られることをもっとも恐れる。(175頁)

 具体ではなく抽象を好むコミュニケーションにおいては、現実にどう適応するかではなく、その場での雰囲気や勢いのみが求められるのであろう。その結果、内輪でのコミュニケーションにおいては、同質性の中での程度を競うくだらない不毛な議論となる。では、こうした「エリート」がどのように育ったのか。

「畢竟、陸軍の教育があまりに主観的にして、客観的に物を観んとせず、元来幼年学校の教育がすこぶる偏しある結果にして、これドイツ流の教育の結果にして、手段をえらばず独断専行をはき違えたる教育の結果にほかならず、……」
 天皇の、正しくかつ厳しい陸軍批判である。陸軍大将である畑がはたしてどんな想いで聞いたことであろうか。(250頁)

 昭和天皇による痛烈な批判がどこか心地よくすらある。

 対して、ノモンハンで対峙した相手国であるソ連の首脳のノモンハンに対する捉え方は現実的であり、大局を捉えたものである。

 どう変化するかわからないヨーロッパ情勢を目の前にして、ソ連の運命のかけられているような不気味な瞬間はいぜんとしてつづいている。そのようなときに、アジアで全面戦争が起るようなことがあれば……国際問題における政治技術というものは、敵の数を減らすことであり、昨日の敵をよき隣人に変えることである、とスターリンはそんなことを考え、苦虫を噛みつぶしたような表情のまま、廊下の往復をつづけていた。(419頁)

 変化を所与のものとし、各ステイクホルダーの立場に立って考えを客観的に整理し、自身の打ち手を考える。自身の現在の考えに固執せず、意見を変えることにも躊躇せず、決定したら速やかに行動に移す。彼我の戦力差もあるが、戦略に対する捉え方の差もあまりに大きく、当時の日本陸軍がソ連に負けたのは必然なのであろう。

【第46回】『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第611回】『昭和陸軍全史1 満州事変』(川田稔、講談社、2014年)
【第244回】『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一ら、ダイヤモンド社、1984年)

2018年8月14日火曜日

【第865回】『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊、KADOKAWA、2015年)


 人工知能は流行の概念であり、ともするとビッグワードにすらなりかねない、それだけの可能性を有している。ビッグデータ、機械学習、ディープラーニング、ロボティクス、といった近接概念との包含関係や相違を理解し、人工知能のそもそも論を平易に解いてくれるありがたい入門書である。

 囲碁は、将棋よりもさらに盤面の組み合わせが膨大になるので、人工知能が人間に追いつくにはまだしばらく時間がかかりそうだ。人間の思考方法をコンピュータで実現し、人間のプロに勝つには、第5章で出てくるような特徴表現学習の新しい技術が何らかの形で必要だろう。(80頁)

 この箇所は二つの意味で興味深い。

 第一に、著者の予測よりも早く、本書の発刊から二年後の2017年にAlphaGoがトッププロを破った事実は、人工知能の進展の速さを物語るものであろう。

 第二に、「特徴表現学習の新しい技術が何らかの形で必要」という著者の指摘は、ディープラーニングに基づく人工知能同士の膨大な対局で能力を向上させたAlphaGoの出現を正確に予測していたという点である。

 では、人工知能の技術向上を飛躍的に実現するディープラーニングとは何か。人工知能関連の書籍を数冊読んでも理解しきれていなかったが、以下の箇所は概念的に理解がしやすい。

 ディープラーニングは、データをもとに、コンピュータが自ら特徴量をつくり出す。人間が特徴量を設計するのではなく、コンピュータが自ら高次の特徴量を獲得し、それをもとに画像を分類できるようになる。ディープラーニングによって、これまで人間が介在しなければならなかった領域に、ついに人工知能が一歩踏み込んだのだ。(147頁)

 特徴量とは、意訳を恐れずに記せば、ある事象の善悪を判断する根拠の捉え方、のようなものである。囲碁に置き換えれば、ある局面の優劣をどのように捉えるか、膨大な可能性のある次の一手の価値判断をどのように置くか、ということである。

 こうした価値判断は、将棋のソフトでもそうであったように人間が介在する余地がこれまではどうしてもあった。だから、著者は囲碁のソフトがトッププロに勝つにはまだ時間がかかると考えていたのであろう。

 しかし、ディープラーニングという技術は、人間業の要素が強かった特徴量の設計を自ら行えるようにしたのである。そして、AlphaGoは、ディープラーニングの技術どうしの相互フィードバックによる特徴量設計能力の向上を実現した。

 では、どのようにコンピュータは、特徴量の設計能力を身につけたのか。

 特徴量や概念を取り出すということは、非常に長時間の「精錬」の過程を必要とする。何度も熱してはたたき上げ、強くするようなプロセスが必要である。それが、得られる特徴量や概念の頑健性(ロバスト性とも呼ぶ)につながる。そのためにどういうことをやるかというと、一見すると逆説的だが、入力信号に「ノイズ」を加えるのだ。ノイズを加えても出てくる「概念」は、ちょっとやそっとのことではぐらつかない。(168頁)

 ある概念を捉えるために、その概念自体を学ぶだけではなく、ノイズを加えるという点が興味深い。たしかに、私たち人間もある概念を理解するためには近いが異なる概念との対比による経験が寄与するものである。

 たとえば、虫好きな少年であっても、蜘蛛は昆虫ではないと親から指摘されると、昆虫とは何かという理解が飛躍的に進む。ビジュアルやサイズだけで感覚的に捉えるのではなく、定義を明確に理解し、それに基づいた判断ができるようになる。

 こうして人間が固有のものとして持っていたはずの能力を人工知能が身につけていく現代および未来において、私たちはどのように対応すればいいのか。著者の具体的なアドバイスを最後に引用する。

 短期から中期的には、データ分析や人工知能の知識・スキルを身につけることは大変重要である。ところが、長期的に考えると、どうせそういった部分は人工知能がやるようになるから、人間しかできない大局的な判断をできるようになるか、あるいは、むしろ人間対人間の仕事に特化していったほうがよい、ということになる。
 さらに忘れてはならないのが、人間と機会の協調である。(中略)人間とコンピュータの協調により、人間の創造性や能力がさらに引き出されることになるかもしれない。(232~233頁)

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)
【第738回】『人工知能はいかにして強くなるのか?』(小野田博一、講談社、2017年)
【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

2018年8月13日月曜日

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)


 半歩遅れどころか十歩か百歩くらい遅れて、このベストセラーをようやく読んだ。アドラー心理学の要点がコンパクトにわかりやすくまとめられており、対話形式でのストーリーも面白く、ストレスなく読み進められる。流行した理由がよくわかる気がする。

 アドラー心理学の定義から始めてそれを深掘りしていくという展開ではなく、序盤では、アドラー心理学の多様な側面が様々な観点から記される。キーワードを拾ってみると、アドラー心理学とは「人間理解の真理」(23頁)であり、「過去の「原因」ではなく、いまの「目的」」(27頁)を考える「勇気の心理学」(53頁)と言えそうだ。

 こうしたまとめだけではわかりづらいので、怒りという私たちが陥りがちな感情をどう扱っているのかを見てみたい。

 怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
 怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。(106頁)

 上述したまとめにある通り、アドラー心理学では、怒りは何らかの原因があって自動的に発露される感情とは捉えない。そうではなく、怒りを発露するという手段を用いることで何らかの結果を得ようとするという考え方を取る。

 このように考えれば、怒りという手段以外の有効なコミュニケーションツールを用いれば、異なる結果や他の存在へのインパクトを与えることができる。何より、怒りを用いるかどうかは自身の選択にある、という考え方は、私たちにとって救いとなるのではないだろうか。

 対話を通じて、最終的には行動面と心理面のそれぞれで私たち読者が意識する目標を以下の四つに端的にまとめられている。

行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識

 ①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は自己受容に関する話ですね。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。(242~243頁)

 本書では、自己受容を語る際に自己肯定感を否定的に捉えているが、必ずしもそうした見方を取る必要はないのではないか。自己効力感と対比して、自己肯定感を「限界も含めて、どのような情況のどのような自分であっても認めることができる」というように捉えれる考え方がある。このような考え方に基づけば、自己肯定感は、本書で捉えられる自己受容と近しいもののように思えるが、いかがだろうか。

 ②で扱われている社会や仲間という意識については以下の箇所が参考になる。

 あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。(188頁)

 与えられるではなく与える、という言葉はやや使い古された言い回しではあるが、だからこそ真理の一面を捉えているとも言えるのだろう。本書では、与えることによって見返りを期待するような承認欲求が強く否定され、与えることだけにフォーカスすることが説かれている。

 見返りを期待して何かを与えると、それが得られない時に落胆を感じ、与えたこと自体を後悔するということは多くの人が経験しているのではないだろうか。このように考えれば、いま目の前の他者に何かを与えることに集中するという姿勢は潔いだけではなく、現実的な心の持ち様なのかもしれない。

【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第747回】『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ、今村浩明訳、世界思想社、1996年)
【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)

2018年8月12日日曜日

【第863回】『さあ、才能に目覚めよう(新版)』(トム・ラス、古屋博子訳、日本経済新聞出版社、2017年)

 統計分析を一時的に生業としていた身としては、診断ツールに関する信頼性と妥当性の重要性を意識してしまう。ストレングス・ファインダーを受験する機会があり、十数年前との比較とはいえ、まったく同じなのか、変わるとしたら何か、興味深く受験してみた。

 結果は以下の通りである。

【2004年】
(1)学習欲
(2)最上志向
(3)目標志向
(4)未来志向
(5)内省

【2018年】
(1)学習欲
(2)調和性
(3)内省
(4)収集心
(5)分析思考

 過半数は不変かと予想していたため、信頼性を疑ってみたくも思ったが、結論としては、妥当性が担保されていて、信頼性も一定程度はある、と考える。強みは仕事や生活を重ねることで以前のものを基にしながらも日々更新するものであり、中長期的には変わるものだと考えるからである。このように考えた場合、以前の受験から今回の受験までの生活上の変化やキャリアの変遷をとらえれば、個人的には納得できるものであった。

 では、前回と今回との相違からの気づきについて記してみる。

 まず、みなさんの目を引き、かつ私を知っている方からは「当たり前」とも言われそうな点が、前回と今回とで変わらず堂々たる第一位を連覇した「学習欲」であろう。前回の受験時は、修士に入る前の段階で、日々忙しく勉強に飢えていて学びたい欲求が高かった時期なので納得だが、実は今回は意外な気がしている。知人・友人からは「学習欲がトップに来るのは当たり前」「自分のことをわかっていない」と笑われそうだが、そのようなものなのである。

 ただ、過去を顧みれば、高校生の途中段階で学ぶたのしさを感じてからずっと、学習欲求はたしかに落ちていない。そのインプットする領域が拡がったり、アウトプットすることで自分の血肉にしようと外部に保管するべくブログに著しているのは【収集】の為せるわざであろう。

 修士時代には、先行研究が途中からたのしくなってしまい、ひたすら論文を渉猟して自身の研究領域を同定するのに自然と時間をかけた。(おかげで期日までに論文を書き終えられるかヒヤヒヤした…)

 読書については、2005年頃から脳科学やデザイン、2010年頃からは小説(明治・大正期)・古典(特に中国)・宗教学、2015年頃からは現代小説・歴史といったように分野を拡げたのは【収集】と【学習欲】の合わせ技によるものだろう。

 次に興味深いのは二番目にランクした【調和性】である。

 前回受験した際、自分の書籍には、この【調和性】には×の印がついており、おそらく自分には強みとして存在しないものと自身で考えていたようである。当時はコンサル営業をしており、顧客との関係が主な業務であり、チーム内でも上司・先輩に教えていただくジュニアな状態だったから発揮されていなかったのであろう。

 その後、事業会社に移り、プロマネとしてミーティングで合意を得て前に進めること、チームメンバーの納得を得ながらチームとして成果を出すこと、HRBPとしてステイクホルダー間の利害を調整してファシリテーションすること、といった経験を経て、それぞれの場面での難局を乗り切る礎としてこの強みが顕在化したのではないか。研修時のファシリテーションを想起しても【調和性】があるのは納得的であり、悪く言えば、自身の弱みを生み出している強みでもある。

 三番目の驚きは、あれほど上位にいた「志向」系が軒並みベスト5から落ちている点で
ある。若い時分には理想家肌で向こう見ずな側面があり、それが三つの「志向」を強みにしていたのであろう。

 反対に、【分析思考】が前回入っていなかったことには驚きである。この十数年の間に、人事内での多様な職種や職場環境に挑戦しアジャストするうえで、論理性ほど役に立った汎用的なスキルもなかった。自身のそれまでの文脈から一歩引いた仕事が求められる中で、論理性がより強化されたのかもしれない。

【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第252回】『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』(石山恒貴、日本生産性本部、2013年)
【第441回】改めて、キャリアについて考える。
【第538回】『ソース』(マイク・マクマナス、ヒューイ陽子訳、ヴォイス、1999年)

2018年8月11日土曜日

【第862回】『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰、ダイヤモンド社、2018年)


 本書の冒頭において研修転移は、「研修で学んだことが、仕事の現場で一般化され役立てられ、かつその効果が持続されること」(17頁)と定義づけられている。この定義について、著者たちは、一般化と持続という二つの概念に峻別してさらに補足を加える。

 一般化とは「研修で学んだことを現場で適用されること」(18頁)であるのに対して、持続とは「現場に適用された内容の効果性が、ただちに失われるのではなく、持続すること」とされている。乱暴にいえば、研修場面での気づきや学びだけにとどまらず、現場で適用可能であり、それを単発ではなく持続的に使えている状態を指していると言えよう。実務の場面においては、研修転移が実現している状態は望ましいものであり、だからこそ、本書が実務家に受け入れられているのであろう。

 こうした定義づけを行った上で、研修転移に関する先行研究が整理されて論じられている箇所が勉強になる。研修転移のルーツとして研修評価の研究が存在し、研修評価研究は以下の三つの段階に分けられるという。

 (1)4段階モデルの時代:1950年代~1987年

 研修評価の先駆けは、有名なカークパトリックの四段階、すなわち、反応、学習、行動、成果の四つである。この中でも、「行動変化の測定がもっとも難しく、また最も重要である」(25頁)とカークパトリックは述べたという。これが、現代の研修転移研究に至るまで課題として取り組まれ続けている点であろう。

 (2)ROIの時代:1990年代

 ビジネスにおいて投資対効果が厳しく問われる時代になると、企業における研修にも投資対効果が求められるようになった。カークパトリックの四段階が実データで妥当性が検証されなかった(29頁)こともあり、どのような効果が得られるかという点に研修評価研究での注目点が移ったのである。

 (3)4段階モデルの洗練化時代:2000年代~

 こうして、研修の受講後における行動や成果に着目される流れの中で、既存の研修評価に関する研究のメタ分析が行われ始めた。Powell & Yalcin(2010)では、マネジメント研修の効果のメタ分析によって、行動および成果のレベルには至っていないことが明らかにされている。

 では、行動レベルにどのようにインパクトを与えうるか、という点で研修転移研究が2000年代から盛んになってきた。たとえば、Sitzmann et al.(2008)のメタ分析では、研修における講師のスタイルが事後の行動予測に影響を与えているという。

 講師が受講生との心理的距離を縮めるようなインストラクションスタイルであったときに、受講生の反応はよくなり、その結果「研修内容を現場で実践できそう」だと考える自己効力感が高まるというのです。(31頁)

 また、カークパトリックの四段階を検証したSaks & Burke(2012)の以下の発見事実は、実務家に対する有意義な実践的な含意を有している。

 より具体的には、研修受講者に対して受講後に「行動変化の度合い」について質問しで尋ねたり、リマインドをかけたりすることが、現場での実践を促すことを発見したのです。(32頁)

 さらには、四段階モデルの提唱者であるカークパトリックの息子であるジェームス・カークパトリックは、Kirkpatrick & Karkpatrick(2005)等で、成果・行動からのリバース・エンジニアリングで研修を企画することの重要性を提唱している。

 新カークパトリック・モデルでは、レベル4の成果から研修企画、設計を考え始めるという逆転の発想と、レベル3の「重要な行動」の現場実践を促進する環境要因にも目配りしている点が評価できると思います。(33頁)

 このように、ビジネスからのプレッシャーの強い成果の追求と、従来の人材開発部門の主たる領域であった反応・学習との間の橋渡しをする要素が行動である。では、どのように研修で身につけられる求められるべき行動の領域を定義し、それが得られるように研修の企画・実践に落とし込み、事後にフォローを行うか。

 受講者への事後のリマインド、受講者を取り巻くステイクホルダーの巻き込み、反転学習による研修に臨むマインドセットの涵養、など企画サイドができることは多い。本書ではそうした事例も盛り込まれており、研究知見と事例から学び、実践に活かして試行錯誤していきたいものである。

【第684回】『フィードバック入門』(中原淳、PHP研究所、2017年)
【第728回】『人材開発研究大全』<第2部 組織参入後の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
【第269回】『研修開発入門』(中原淳、ダイヤモンド社、2014年)
【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)

2018年8月5日日曜日

【第861回】『下り坂をそろそろと下る』(平田オリザ、講談社、2016年)


 失われた二十年を経て、がんばって働けば経済状況が上向き生活が良くなるという高度経済成長時のパラダイムは幻となった。しかし、それに替わる新しいパラダイムは何か、その中でどのようなマインドセットで私たちは日々の生活に臨むと良いのか。

 本書では、我々が直面しているものは下り坂であり、それをゆっくりと、周囲の景色を楽しみながら下っていくというメタファーで語られる。各地域における実際的な取り組みを読み進めていくと納得がいくと共に、その取り組みの素晴らしさにハッとさせられるものも多かった。

 一つの章の中で、女川(宮城県)について扱われていた箇所がある。二年前、当時在籍していた企業でのリーダーシップ開発を目的とした選抜研修を企画・運営していた際に、女川でのセッションを行ったことがある。その際のセッション自身や女川の方々との対話の中での気づきを思い出した。

 これまでの「まちづくり」「まちおこし」に決定的に欠けていたのは、この自己肯定感ではなかったか。雇用や住宅だけを確保しても、若者たちは戻ってこない。ましてIターンやJターンは望むべくもない。選んでもらえる町を作るには、自己肯定感を引き出す、広い意味での文化政策とハイセンスなイメージ作りが必要だ。(73頁)

 女川駅から海を望む景色の美しさは、まさにアートである。「千年に一度のまちづくり」というコンセプトに基づいて、景観も含めたデザインの素晴らしさを思い出した。あのようなデザインされたまちであれば、住む方々は自己肯定感を持ち、自分たちのまちに対するコミットメントも高まるのではないか。

 これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。滑りやすい下り坂を下りて行くのに絶対的な安心はない。オロオロと、不安の時を共に過ごしてくれるリーダーシップが必要なのではないか。(150頁)

 女川のまちづくりに関わる多様な組織や立場のリーダーたちと接していて感じたのは安心感である。この方々となら、困難なプロジェクトでも一緒にやり遂げられるのではないか、という安心感をおぼえた。外からワークショップで訪れた他所者に対してもオープンに接してくれる、こうした温かみがある自然体のリーダーシップが、今の時代に求められる一つのあり様なのかもしれない。

【第10回】『「働きたくない」というあなたへ』(山田ズーニー、河出書房新社、2010年)

2018年8月4日土曜日

【第860回】『自民党と公務員制度改革』(塙和也、白水社、2013年)


 「自民党」による「公務員」を対象とした「制度改革」をめぐる一連の動きは、特殊なイシューというよりは、どこの組織でも起こっているイシューのように思えた。何らかの制度を変えようとすれば、ステイクホルダーごとに多様な利害や思惑が絡み合うことになり、文字通り一筋縄では行かないものである。

 同じ自民党による制度改革・行政改革のイシューでも機能したケースと、本ケースのように頓挫したケースとがあるが、その違いは何か。

 公務員制度改革のような多様な利害が絡み、抵抗勢力が自らの足元の官僚機構である場合、いくら渡辺や甘利などの行革相が奮闘しても、法案の成立という大事までは成し得ない。繰り返しになるが、中曽根や橋本の行革も首相自身のリーダーシップによって成し遂げられている。これまで本書が紹介してきたように、今回の改革は、公務員の人事に関する権限を政治の側に再配分しようという試みであり、官僚制全体を相手にしている。その点でシングルイシューである国鉄や郵政の民営化よりもその難易度は高い。(291頁)

 私たちは、郵政民営化が(どこまで実現できたかはさて置いて)成功したように、公務員制度改革が実現しなかったのかは自民党の瑕疵によるものであると安易に捉えがちだ。しかし、郵政の所管省庁である総務省を対象とした郵政民営化と、全省庁を対象とした公務員制度改革とはスコープがあまりに異なる。同じ俎上に乗せて議論することは公正ではないのだろう。

 ただ、著者が指摘する首相のリーダーシップを主要因とする考え方には少し疑問も感じる。首相という外的役割としての「リーダー」のリーダーシップに期待するのは、イシューが多様で複雑であるほど難しく、むしろ多様な主体によるリーダーシップの共鳴現象が必要なのではないか。私が理解する限りでは、郵政民営化も、小泉首相(当時)のリーダーシップばかりが注目されたが、他の主体のリーダーシップの発揮が十分ではなかったために、その事後の実行・フォローで骨抜きにされた側面もあったのではないか。

 他山の石としたい良質なケースに迫真の描写で迫った力作であった。

【第817回】『宿命』(高沢皓司、新潮社、2000年)