2017年8月11日金曜日

【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

 今年行われた第2期電王戦で現役の将棋のタイトルホルダーである佐藤天彦名人が将棋ソフト「ポナンザ」に敗れたことはまだ記憶に新しい。そのポナンザの生みの親が、本書の著者である。AIを語る上で最適な人物の一人であることは間違いなく、期待を裏切らない興味深い一冊であった。

 人間は物事を見続けているなかで、適切な一般化や隠れているノウハウを発見するのが得意です。(中略)
 しかし残念ながらコンピュータには、一般化する能力がほとんどありません。ですから人間にとっては途方もないように感じる5万の棋譜ですら、教師としては足りないということになります。コンピュータにはより多くの棋譜が必要なのです。(60頁)

 コンピュータと比較して人間が得意としていることは、一般化や抽象化であるという。私たちが他者と話していて、頭がいいと思う人は、記憶力が優れた人物よりもこうした特徴を有する人物ではないだろうか。

 頭がいいということは知性があると換言できるだろう。知性とは「目的を設計できる能力」(171頁)であるの対して、AIが保有する知能は「目的に向かう道を探す能力」(171頁)だ。他者から与えられたものではなく、自分自身で目的を設定し、その目的に合致した一般化を行うことが知性的な人物が長けた行動特性、ということであろう。

 しかし、人間が持つこうした知性が、必ずしも知能に対して常に優れているというわけではない。

 人間は、あらゆることに意味を感じ、物語を読み取ろうとします。この能力=知性によって人工知能にもならぶパフォーマンスを出すこともありますが、それは意味や物語から離れることができないという制約にもなっています。
 一方、人工知能は、意味や物語から自由なために人間を超えることができますが、目的を設計するという知性を持つことはできていません。(181~182頁)

 一般化は人間の得意技であるが、それに縛られることでデメリットが生じることがあると著者は指摘する。将棋に置き換えれば、定跡や格言といった高度な抽象化はほぼ全ての局面において通用するが、百パーセント正しいわけではない。私たち人間は、一般化されたセオリーに過度にこだわってしまい、そうしたものからかけ離れた発想を持つことが阻害されてしまう。

 こうした意味性や物語性を度外視し、目的に向かう最短距離を目指すことができるのが人工知能である。未知の領域に出会った時のデメリットはあれども、膨大な計算によって既知の領域を増やすことで適用可能な領域を拡げられるのが人工知能のメリットであろう。

 こうして人間と人工知能との得意領域が峻別されていれば良いが、そうした楽観論は残念ながら通用しないようだ。囲碁の世界的棋士を圧倒したアルファ碁で使われていることで有名なディープラーニングは、知性を学習可能な人工知能であるという。人工知能が人間に近づいているというように捉えることも可能であろう。このように捉えれば、本書で指摘されているのは、人工知能と人間の対比というよりも、知性・知能とは何か、というより一般的な問題であるように思えてくる。

 人間の結果を模倣して学習するプログラムは、人間の間違いも学習するのです。もちろんこういった間違いは強化学習をするなかで少しずつ解消されていきますが、少なくともポナンザに関しては、いまだに人間から学習したときの名残があると思います。同じように、人間の知性を上回るようなコンピュータが将来生まれたとしても、必ずそのコンピュータは人間から学習した名残をとどめているはずです。(198頁)


 というのも人工知能はもはや知性や知能といった領域において人間を包含する存在になり得るからである。では私たちが世界に対して貢献でき得るものは一体なんなのか。おそらくは、データにすることができず、私たちが意味を見出して価値を創り出す領域が、人間が今後も行う領域になるのではないか。これが、本書を読んだ段階での私の仮説である。


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