仏教の起源は現在のインドであるが、それが中国を経て日本へと伝来する過程で、その受容の有り様は変わってきている。第一に大きいのは言語であろう。仏教伝来時の直接の送り手は中国であり、インドではない。したがって、サンスクリット語から直接日本の言葉に置き換えて理解したのではなく、中国の言語を介して私たちは仏教を理解したのである。
そこで仏教を理解しようとするのであればインドにおける元々のテクストから学ぶ必要があることを著者は述べている。たとえば初期の大乗仏教における代表的な書籍の一つである『中論』をもとに自己と他者との関係性を以下のように解釈している。
「真の自己」に目覚めることは、利己的になるということではない。「真の自己」に目覚めることは、他者の「真の自己」に目覚めることでもある。それは、あらゆるものとの関係性の中で存在しているという縁起の関係としての自己に目覚めることでもあるのだ。ここに他者への慈しみという行為が成立するのである。(50~51頁)
他者との慈しみという行為の前提として、自身と他者との縁起という関係性を気づくことが必要であり、そのためには自分自身という有り様に気づくことが必要となる。したがって、自分自身を意識することは利己的なものではなく、自身が有する多様な可能性や他者との潜在的な関係性のゆたかさに気づくことの萌芽となる。このように捉えると、自分自身と他者とを二項対立的に捉えるのではなく、全体としての関係性というより広い存在に意識を向けることが可能になるのではないだろうか。
こうした起源における仏教が日本に輸入されると、強調するポイントが異なってくる。それは中国における受容からさらに変化をして受容されていると捉えるべきであろう。
日本に来ると、さらに「現実即実在」が強調された。例えば道元(一二〇〇~五三)の場合は、この「諸法は実相」に加えて、「実相は諸法」と言い出した。論理学では、「人間は動物である」という命題がよく用いられる。人間はたくさんいる動物の中の一部分だという意味である。これに「動物は人間である」を付け加えると、「動物=人間」ということになる。同様に、この「実相は諸法」を追加することによって、「諸法=実相」となり、完全に「現実肯定論」に成ってしまった。それが悪くなると、例えば、だらしない人がいて、だらしないという現象自体が、すでに「実相」なのだとされたり、いい加減なことをやっていて、これが実相なんだとされたりすることも起こり得る。人間は煩悩の塊だ、それが実相なのだから、それでいいではないかということになりかねない。そういうことで「煩悩肯定論」になりやすい。あくせく努力しなくたって、修行しなくたって、ありのままでいいじゃないかということになってしまい、「修行否定論」も出てきてしまう。そういったところから戒律無視も出てくることになったりする。(193~194頁)
親鸞の悪人正機説を学校で学ぶと、こうした身勝手な解釈が出てくる場面に出くわすことがあるのではないか。不善を為しても救われる可能性があるのであれば、善を為すことに積極的な意味を見出すことが難しくなることも理解できる。現実に重きをなして捉えてしまうとこのような誤解をしてしまうため、実相とともに諸法を捉えることが大事であると著者は以下のように述べる。
われわれのものの見方は、諸法と実相のどちらか一方に偏りがちである。現実をよく見なさいというので現実ばっかり見ていると、現実はコロコロ変わるから、空転して落ち込んだりする。やはり普遍性を見なければいけないというので今度は普遍性ばかりを見ていると、抽象論になったり観念論になったりしてしまう。中諦というのはその両方を合わせ持ち、いずれにも偏しないという見方である。あらゆるものは実体がなく、仮のものでいつまでも存続するものではないというものの見方と、現実というものを見据えていく見方、この両方を踏まえなければいけないというのである。(210頁)
抽象化と具象化の往還関係は、研究と実践との相互適用させようとする営為という文脈で理解してきた。しかし、これはどのような場面でも求められるものなのであろう。私たちは、どちらか得意な方に傾きがちであり、特に日本においては実相に重きが置かれがちである。たとえが古いが、「事件は現場で起きている」という言葉に溜飲を下げる私たちの感情には、実相に重きを置く価値観がかいま見えるのではないだろうか。そうであるとしたら、諸法に目を向けようとする努力が私たちにより必要なのかもしれない。
諸法と実相とが融合した良い例の一つとして、日本文化における俳句の世界が指摘され、松尾芭蕉が例として挙げられている。納得的に理解できるものであったので、やや長いが最後に引用したい。
古池や蛙飛び込む水のをと
という句がある。俳句に関しては、ど素人である筆者の勝手な思い込みかもしれないが、自分なりに解釈してみると、ここには「古池」、「蛙」、「水の音」という「現象」が羅列されている。「私」が「ここ」にいて、「古池」が向こうにあって、「蛙」がいる。その「蛙」がボチャンと「水の音」を立てて池に飛び込んだ。すると、その水面に波紋が生じて同心円を描いて広がっていく。さらには、そのポチャンという音が向こうからこっちへ伝わってきて、それが「私」を通りすぎて宇宙大に広がっていくーーというようなイメージを筆者は抱く。単に「古池」と「蛙」と「水の音」を羅列したことによって、「私」が「今」、「ここ」にいて、宇宙の中に存在しているというような宇宙の広がりを筆者は感じる。これは「諸法」を通して「実相」というものを表現しようとした結果ではないかと筆者には思えるのだが、いかがであろうか。(213~214頁)
【第515回】『私訳 歎異抄』(五木寛之、東京書籍、2007年)
【第427回】『他力』(五木寛之、講談社、2000年)
【第391回】『日本教徒』(イザヤ・ベンダサン、山本七平訳編、角川書店、2008年)
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