2018年8月18日土曜日

【第869回】『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2016年)


 前作『嫌われる勇気』の哲人と青年が、三年の歳月を経て再び対話に臨む。実際に、本作は前作の出版から三年経って出版されたものであり、その間に読者から受けた質問や相談を踏まえたものなのであろう。そのため、青年の問いや反発は共感できるものが多く、だからこそ本作の世界観に再び引き込まれるように読み進められる。

 基本的な主張は、良い意味で前作と変わっていないと感じた。アドラー心理学を学んだ青年が、教育現場で実践しようとしてうまくいかなかった経験を基に対話がなされ、実践して得られる違和感へのフォローアップというところであろうか。仕事や教育といったテーマは、個人的には刺さるテーマであり、考えさせられるものが多かった。

 まずは教育について。

 自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料ーーたとえば知識や経験ーーがあれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。(123~124頁)

 小さな意思決定を、自覚的に幼い頃から行うことは大事である。もちろん、本作で述べられるように、ともすると子どもは親や周囲の期待を敏感に察して、生存戦略の一環として周囲に承認されることを目的として行動してしまう存在だ。だからこそ、周囲の大人である両親や教育者が、自己決定を子どもたちにさせることは、子どもたちを尊重することでもあり教育という文脈においても重要なのだろう。

 教育者が子どもの自律性に任せることが良いのだとすれば、放任すれば良いのかという疑問が出るだろうが、著者たちはそうした発想を明確に否定する。

 子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。(124~125頁)

 決断を尊重し、いつでも援助できる適度な距離感で見守ること。教育者の度量と力量が問われる難しい支援の有り様であるが、これが真実なのであろう。個人的には、学術上の恩師を思い起こさせられる内容である。(彼はユング心理学をベースにしていたはずであるが。。。)

 次に、仕事について。

 原則として、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことはむずかしくなりますからね。
 そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。(193頁)

 分業は人間疎外を招く元凶であり、人間を取り替え可能な存在と見做す否定的なシステムとして捉えられることがある。しかし、著者は、産業革命によってもたらされた分業というしくみには、他者と信頼し合うという側面があることを強調する。

 その上で、相互に信頼し合い助け合うためには、誠実に仕事に取り組む姿勢が必要不可欠であると述べる。ここには、仕事を通じて他者に貢献し、他者とともに協働しながらより社会に対して貢献するという発想までもが含意されているのではないか。

 アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
 ……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。(151頁)

 仕事を通じて他者に貢献し、社会に貢献するということによって、ここに私がいていい理由としての所属感を得ることができる。こうして、自分自身の存在を積極的に認めることができて初めて、他者をも積極的に認めて相互に信頼しあえる関係性を築ける、とアドラー心理学は捉えているのではないだろうか。

 最後に、本筋とはそれるが、本書では、カルト的な存在としての宗教に対する話や、メサイヤコンプレックスの話など、安易な自己啓発的な考えを否定するウィットに富んでいる。解説は抜きにして、興味深かった二つの話を引用して終えたい。

 ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。(30頁)
 他者を救うことによって、自らは救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする、心的な倒錯です。(162頁)

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)
【第554回】『働くということ』(黒井千次、講談社、1982年)

0 件のコメント:

コメントを投稿