全体主義とは何か。現代においてもその影が何となくちらつくように思えるのは杞憂であろうか。「100分で名著」でアーレントの『全体主義の起原』が扱われていたシリーズを興味深く見て、本書を読み直したくなった。衆院選に向けて、政治を考えるためのテクストでもある。
以前のエントリーで詳細に各章をまとめたので、以下では、今回読み直して特に印象に残った点のみを扱うこととしたい。
以前のエントリーで詳細に各章をまとめたので、以下では、今回読み直して特に印象に残った点のみを扱うこととしたい。
アーレントに言わせれば、利害のために「善」の探求を放棄してもダメだし、特定の「善」の観念に囚われすぎてもダメなのである。両極のいずれかに偏ってしまうことなく、「善とは何か?」についてオープンに討議し続けることが重要だ。政治的共同体の「善」について様々な「意見」を持っている人たちがーー物質的な利害から解き放たれてーー公共の場でお互いに言語による説得を試み合うことが、アーレントの考える本来の「政治」である。そうした意味での「政治」を通して、暴力とか感情によって相手を支配しようするのではない、「人間」らしい関係性が培われるというのが、アーレントの独特の「人間」観である。まとめて言うと、物質的利害を超えた「政治」的な討議を通して、我々は「人・間」になるのである。(kindle ver. No. 139)
このアーレントの人間観にハッとさせられる。極端に安易に流れないという姿勢は、孔子の『中庸』のようでもあるし、右翼からも左翼からも批判されるという著者にも通ずるところがあるようだ。極端にならないからこそ様々な異なる価値観を理解し尊重することができるのであり、こうした態度がダイバーシティを重視する社会において求められるのではないか。
肝心なのは、各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。(kindle ver. No. 574)
両極端にならないようにすることが大事であることが分かりながらも、私たちは自分に独特な考え方を重視してしまう。こうした現実的な人間観を持ったうえで、自分の考え方が全てではないという認識を持つこと。自分の外側にある外形的な多様性だけではなく、自分自身の内側にある多様性を意識することが大事なのであろう。
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